![](https://real-sports.jp/wp/wp-content/uploads/2024/05/NelsonMandela.jpg)
ネルソン・マンデラがスポーツで成し遂げた団結。南アフリカ、大陸初のワールドカップ開催の背景
独裁政治による衝突、ピッチ外での暴動、宗教テロ、民族対立……。いまなお様々な争いや暴力と常に隣り合わせのなか、それでもアフリカの地でサッカーは愛され続けている。われわれにとって信じがたい非日常がはびこるこの大地で、サッカーが担う重要な役割とは? 本稿では、自身も赤道ギニアの代表選手として活躍し、現在はサッカージャーナリストとして活動する著者が書き上げた書籍『不屈の魂 アフリカとサッカー』の抜粋を通して、アフリカにおいて単なるスポーツの枠に収まらないサッカーの存在意義をひも解く。今回はアフリカ大陸に初めてワールドカップをもたらしたネルソン・マンデラ元大統領と南アフリカの歩みについて。
(文=アルベルト・エジョゴ=ウォノ、訳=江間慎一郎/山路琢也、写真=ロイター/アフロ)
FIFAに対して反乱運動を起こさせるまでに至ったアフリカの主張
1960年代になるとアフリカ各国で次々と独立宣言が発せられ、ヨーロッパの植民者たちは波に抗うことができなかった。1963年には、すでにイギリスから独立していたガーナが、アフリカネーションズカップ(CAN)初優勝。アフリカ主義の父でもある彼らの大統領クワメ・エンクルマは、“ブラック・スターズ”と呼ばれる選手たちの活躍に胸を張るとともに、共通の理想のために団結したアフリカ民族の力を称揚した。
そして、その確信は1966年ワールドカップを前に、国際サッカー連盟(FIFA)に対して反乱運動を起こさせるまでに至っている。アフリカとアジアを合わせて出場枠がたったひとつしか設けられていないのはアフリカ民族への軽蔑であり、もう許すことはできない――エンクルマはアフリカ大陸に、このような考えを植えつけたのだった。
こうしてアフリカの各国代表は、ワールドカップ予選を辞退するボイコットを行った。アフリカ大陸全土が自分たちの権利のために闘った反乱は、あまりにも長い時間が費やされる。彼らは自分たちの代表となる人物がいなかったため、モザンビーク人でありながらポルトガル代表としてプレーし、ポルトガルリーグの得点王、最優秀選手となったエウゼビオを担ぎ上げた。エンクルマの戦略性の高さが見て取れるこの策で、アフリカの団結力はいっそう強まっている。
その一方で南アフリカは、FIFAから国際試合の出場資格を剥奪されたままとなっていた。黒人、白人、混血、インド系民族のいずれかのチームしか出す考えがないことを示唆し、FIFAによって、全人種の平等体制が築かれない限り委員会への参加を禁じられたのだった。
しかし人種隔離政策が、黒人、混血、インド系民族に対する差別が、すでに国の文化として定着していた中、1人の男が同胞たちに正しい未来を与えることを志し始めた。アパルトヘイト撤廃のために闘った活動家、ネルソン・マンデラその人である。
ネルソン・マンデラの獄中生活を支えた詩
マンデラはヨハネスブルクで法律学を勉強していた時期に反植民地主義の運動に身を投じ、アフリカーナーの計り知れない後押しによって国民党が選挙に勝った際には、彼ら体制にとってあきらめの悪い厄介者となった。南アフリカ国内で経済的にもっとも強大な地域トランスバールでアフリカ民族会議の支部長となり、政治家のキャリアをスタートさせる。その目的は明確そのもので、南アフリカにつくられた人種の壁を取り払うことにあった。
マンデラはこれに並行して、マルクス、毛沢東、エンゲルスの書物を体得しながら、「デファイアンスキャンペーン(不服従運動)」も指揮。ガンジーより受け継いだ非暴力に基づいて、人種隔離政策に対する抵抗運動を展開していった。ただし、この挑戦はとても高くつくことになる。
1964年、マンデラは多くの国民を扇動した重反逆罪で逮捕、投獄された。ロベン島の強制収容所、囚人番号46664として4平方メートルの牢屋に入れられ、岩を砕いて砂利にする作業をしながら18年をそこで過ごすことになる。“マディバ”の愛称で知られる彼はサッカーをこよなく愛し、事実として独房の中庭が見える格子窓から、そのスポーツに興じることを許された囚人たちを見続けていた。彼には、そうできる権利が与えられていなかったのだ。この国でもっとも愛される囚人は1982年にポールスモア刑務所へと移送され、1988年には湿気過多の独房区画で結核の流行が深刻化したために、より快適に過ごせるビクター・フェルスター刑務所へ移された。
自由を奪われたマンデラは、内なる平和に安らぎを見い出している。牢屋の鉄格子はまるでメタファーのように、人種差別によってゆっくりと死へ向かう自由なき国を表していた。しかし、どれだけ長い時間を牢の中で過ごそうとも、彼は憎悪を募らせるどころか、平和的抵抗を続けていく意思を揺るぎないものとしていった。「敵と同じ武器で争ってはいけない」、それがこの囚人の考えだった。
マンデラの獄中生活を支えた詩がある。逆境への抵抗、精神の自由、魂の純潔、真っすぐな振る舞い、どんな悲劇の中にあっても建設的な姿勢を保つことを教えた詩が。彼はウィリアム・アーネスト・ヘンリーの詩句を、何度も、繰り返し暗唱し続けた。
夜が私を覆う
底が知れぬ闇のような漆黒
私の魂が侵されぬことを神に感謝する
ぼろぼろの状況にあっても
私はうめきも泣きもしない
悲劇に打ちのめされても
血を流しても
私は決して屈服しない
憤怒と涙の先で
暗闇がその残忍さとともに待ち伏せている
だが長きにわたって脅しを受け、また受けても
私に恐れはない
どれだけ門が狭くても
どれだけの罰を背負っても
私が私の運命の支配者
私こそが私の魂の長なのだ
この詩は、人種隔離に対する非暴力・不服従運動のシンボルとなっている。
国民に向けた拡声器となった“スプリング・ボクス”
1989年にベルリンの壁が崩壊すると、世界じゅうの多くの体制が揺らぐことになった。
もちろん、南アフリカも無関係ではない。1912年に設立され、陰ながらアパルトヘイトに抵抗していたアフリカ民族会議(ANC)がついに合法化の運びとなった。ANCの承認とともにマンデラは解き放たれ、この政党の最たるリーダーとなる。
27年の獄中生活を終えた活動家は、スーツとネクタイ姿で、妻のウィニーの手をとって刑務所を後にする時、あれだけの悲運を経験した男とは思えない穏やかさを備えていた。“マディバ”以外の72歳であれば、自由になる夢など、もうとっくにあきらめていただろう。
1964年、国家に対する反逆とサボタージュの罪に問われて鎖につながれたマンデラ。それから約30年を鉄格子の中で過ごし、今、新たな地平線が目の前に広がっていた。彼はその忍耐力でもって、希求し続けた第二のチャンスをつかんだのだ。年老いたとはいえ、南アフリカという共同体に尽くす気持ちは一切変わっていない。人類史の中でも最たる指導者の1人とみなされる男は、然るべき瞬間をついに迎えたのである。
1994年、南アフリカはその歴史で初めて、あらゆる人種に参加資格のある選挙を開催し、マンデラをトップに据えたANCが圧倒的な得票数で勝利を収めた。ネルソン・“ホリシャシャ(コサ語で「木の枝を揺らす者」の意味がある)”・マンデラは、まるで予言をかなえるかのように、アパルトヘイトを打ち破る者として、南アフリカ初の黒人の大統領になったのだった。
権威を手にした“マディバ”は、不平等が団結に先んじる文化の形成によって、対立と暴力が繰り返されてきた国をまとめ上げることに尽力する。1995年、南アフリカはラグビー・ワールドカップの開催国となり、マンデラはこの大会を国民に向けた拡声器とした。“スプリング・ボクス(ラグビー南アフリカ代表の愛称)”は、決勝戦でニュージーランドを下して戴冠。
マンデラは代表チームのキャプテン、白色人種のフランソワ・ピナールと友好関係を築き上げ、優勝という共通の目標を達成した。黒人と白人が一緒にトロフィーを掲げる姿、そこに込められたメッセージは、南アフリカ国民の精神性に大きな影響を与えることになる。「スポーツは国民が団結する上でもっとも強力な道具となる。スポーツほどの力を有するものは、ほかに存在しない」のだと“マディバ”は、事あるごとにそう語っていた。
多民族から成る新たな南アフリカがつかんだ栄冠
南アフリカはラグビー・ワールドカップの開催から1年後、今度はCANの開催国となった。
すべては1992年に、40年にもわたって禁じられてきた国際試合の出場を認められたことに端を発する。1996年大会を開催するはずだったケニアがその権利を放棄すると、大統領になったばかりのマンデラが立候補の手を挙げ、アフリカサッカー連盟から認められた。大陸最大のサッカーの祭典がやって来ることに、南アフリカ国民は大きく沸くことになった。
“バファナ・バファナ(南アフリカ代表の愛称。ズールー語で「少年たち、少年たち」を意味する)”は、ラグビーだけでなくサッカーでも栄冠を手にする気概に満ちていた。初戦ではカメルーンを圧倒。前半だけで“不屈のライオン(カメルーン代表の愛称)”にきつい2発を見舞っている。
1点目はチームのスター選手の1人フィレモン・マシンガが記録し、長距離からの曲射砲をゴールに命中させた。次にマーク・ウィリアムズがペナルティエリア内の混戦からボールを押し込んで加点。そして、スタンドのサポーターを狂気乱舞させたのが3点目だ。ペナルティエリア付近、マシンガとジョン・モシューがヒールパスも駆使したワン・ツーを見せ、モシューが滑らかなシュートでネットを揺らした。このプレーはヨハネスブルクに建てられた7万5000人収容[訳注:2009年の改修後は9万4736人収容可能]の巨大スタジアム、サッカー・シティに集まったサポーターの脅威的な熱狂を呼び起こしている。
黒人と白人で構成された南アフリカは、試合をこなすにつれてさらなる強さを発揮した。異なる人種の混成チームは調和を見せ、まるで新たな南アフリカの誕生を祝福するようだった。
南アフリカは決勝まで駒を進めてチュニジアと対戦した。ほぼ8万人の観客が見守る試合は、彼らにとって過酷な展開となる。“カルタゴの鷲(チュニジア代表の愛称)”が主導権を握って、ゆっくりとしたリズム、それでいて荒いプレーで苦しみを味わわせた。これを受けた南アフリカの監督クライヴ・バーカーは、打開策としてマーク・ウィリアムズを途中出場させる。すると彼が2ゴールを決めて、サッカー・シティは割れんばかりの歓声に揺れている。
こうして、スポーツ史に刻まれる優勝が成し遂げられた。多民族から成る新たな南アフリカが栄冠をつかんだのである。群衆の中で、マンデラからこぼれた笑みは屈託がなく、それでいて深みがあった。その目には優勝トロフィー以上に価値あるものが映っていた。
平和、調和、忍耐をこの世界に遺していった“マディバ”
“マディバ”が自国のために取り組んだ最後の大仕事は、サッカーのワールドカップを招致することだった。
南アフリカは2006年大会を開催するため、ドイツと最後まで競い合ったものの、その時は敗れ去っている。それでも南アフリカにワールドカップを開催できる力があると示したマンデラの奮闘は、決して無駄にならなかった。人種隔離から解放されて久しい国は、2010年ワールドカップの招致に成功する。これはアフリカ大陸全体に笑顔をもたらしただけでなく、世界的にも喜ぶべき出来事となった。
ネルソン・マンデラの公の場への最後の登場は、平等の権利を実現すべく闘った、その立派な軌跡の有終の美を飾ることとなった。南アフリカ・ワールドカップで、ゴルフカートに乗ってサッカー・シティに姿を現した彼は、そこにいたすべての人々から喝采を送られている。スポーツを通じて異人種の共存を働きかけた男は、その功績に値する称賛を受けたのだった。
マンデラはもう年老いていて、投獄されていた頃から問題を抱えていた肺が、もたないところまできていた。ロベン島の牢屋の中で空想していた人種間の平等を実現し、アパルトヘイトという恥を葬り去り、国際規模の共同体から称賛を受けた男。彼は平和、調和、忍耐をこの世界に遺していったのだ。
(本記事は東洋館出版社刊の書籍『不屈の魂 アフリカとサッカー』から一部転載)
<了>
名将ハリルホジッチも苦悩したラマダンの罠。アルジェリア代表が直面した「サッカーか宗教か?」問題【第5回連載】
ロジェ・ミラがエトーに託したバトン。カメルーン代表が巻き起こした奇跡、チームメイトとの衝撃の死別【第4回連載】
オコチャ、カヌ、ババヤロ…“スーパーイーグルス”は天高く舞っていた。国民が血を流す裏側での悲痛な戦い【第3回連載】
バガヨコはナイフで腕を刺され、カヌーテは体中殴打…セイドゥ・ケイタがマリ代表と平和のために成した勇気ある行動【第2回連載】
[PROFILE]
アルベルト・エジョゴ=ウォノ
1984年、スペイン・バルセロナ生まれ。地元CEサバデルのカンテラで育ち、2003年にトップチームデビュー。同年、父親の母国である赤道ギニアの代表にも選ばれる。2014年に引退し、その後はテレビ番組や雑誌のコメンテーター、アナリストとして活躍。現在は、DAZN、Radio Marcaの試合解説者などを務める。
この記事をシェア
RANKING
ランキング
LATEST
最新の記事
-
指導者の言いなりサッカーに未来はあるのか?「ミスしたから交代」なんて言語道断。育成年代において重要な子供との向き合い方
2024.07.26Training -
松本光平が移籍先にソロモン諸島を選んだ理由「獲物は魚にタコ。野生の鶏とか豚を捕まえて食べていました」
2024.07.22Career -
サッカーを楽しむための公立中という選択肢。部活動はJ下部、街クラブに入れなかった子が行く場所なのか?
2024.07.16Education -
新関脇として大関昇進を目指す、大の里の素顔。初土俵から7場所「最速優勝」果たした愚直な青年の軌跡
2024.07.12Career -
リヴァプール元主将が語る30年ぶりのリーグ制覇。「僕がトロフィーを空高く掲げ、チームが勝利の雄叫びを上げた」
2024.07.12Career -
ドイツ国内における伊藤洋輝の評価とは? 盟主バイエルンでの活躍を疑問視する声が少ない理由
2024.07.11Career -
クロップ率いるリヴァプールがCL決勝で見せた輝き。ジョーダン・ヘンダーソンが語る「あと一歩の男」との訣別
2024.07.10Career -
なぜ森保ジャパンの「攻撃的3バック」は「モダン」なのか? W杯アジア最終予選で問われる6年目の進化と結果
2024.07.10Opinion -
「サッカー続けたいけどチーム選びで悩んでいる子はいませんか?」中体連に参加するクラブチーム・ソルシエロFCの価値ある挑戦
2024.07.09Opinion -
高校年代のラグビー競技人口が20年で半減。「主チーム」と「副チーム」で活動できる新たな制度は起爆剤となれるのか?
2024.07.08Opinion -
ジョーダン・ヘンダーソンが振り返る、リヴァプールがマドリードに敗れた経験の差。「勝つときも負けるときも全員一緒だ」
2024.07.08Opinion -
岩渕真奈と町田瑠唯。女子サッカーと女子バスケのメダリストが語る、競技発展とパリ五輪への思い
2024.07.05Opinion
RECOMMENDED
おすすめの記事
-
なぜ森保ジャパンの「攻撃的3バック」は「モダン」なのか? W杯アジア最終予選で問われる6年目の進化と結果
2024.07.10Opinion -
「サッカー続けたいけどチーム選びで悩んでいる子はいませんか?」中体連に参加するクラブチーム・ソルシエロFCの価値ある挑戦
2024.07.09Opinion -
高校年代のラグビー競技人口が20年で半減。「主チーム」と「副チーム」で活動できる新たな制度は起爆剤となれるのか?
2024.07.08Opinion -
ジョーダン・ヘンダーソンが振り返る、リヴァプールがマドリードに敗れた経験の差。「勝つときも負けるときも全員一緒だ」
2024.07.08Opinion -
岩渕真奈と町田瑠唯。女子サッカーと女子バスケのメダリストが語る、競技発展とパリ五輪への思い
2024.07.05Opinion -
張本美和が秘める可能性。負ける姿が想像できない、パリ五輪女子卓球の“決定打”
2024.07.04Opinion -
Jクラブや街クラブは9月までにジュニア選手の獲得を決める? 専門家がアドバイスするジュニアユースのチーム選び
2024.06.25Opinion -
ポステコグルーにとって、日本がこの上なく難しい環境だった理由とは?「一部の選手がアンジェに不安を抱いていた」
2024.06.21Opinion -
パリ五輪を見据えた平野美宇・張本美和ペアが抱える課題とは? 大藤・横井ペアに敗戦も悲観は不要
2024.06.18Opinion -
名将ハリルホジッチも苦悩したラマダンの罠。アルジェリア代表が直面した「サッカーか宗教か?」問題
2024.06.14Opinion -
なでしこジャパン、メンバー最終選考サバイバルの行方。「一番いい色のメダルを目指す」パリ五輪へ向けた現在地
2024.06.06Opinion -
オコチャ、カヌ、ババヤロ…“スーパーイーグルス”は天高く舞っていた。国民が血を流す裏側での悲痛な戦い
2024.05.31Opinion