レスリング界で疑惑の“ヌルヌル問題”。疑わしきは罰せず? 由々しき事態はなぜ横行するのか?
9月に行われたレスリングの世界選手権。日本代表の塩谷優と文田健一郎は、ともに相手選手の体がヌルッと滑ってつかめなかったことに違和感を覚えたという。実際に塩谷は試合中に審判に抗議したものの、状況は変わらなかった。「昔からいろいろな説がある」ともいわれるこのレスリング界の“ヌルヌル問題”。疑わしきは罰せずの現状を打破する解決策はあるのだろうか――。
(文=布施鋼治、写真=保高幸子)
「なんかちょっと滑って…」。これは何を意味するのか?
レスリングは組み合ってナンボの格闘技。とりわけダイナミックな投げが特徴のグレコローマンスタイルだと、お互いコンタクトしていなければ勝負にならない。しかし、組み合おうとしたときに対戦相手の皮膚にヌルッとした感触があったらどうなるか。その刹那、グレコはグレコでなくなってしまう。代名詞でもある躍動感あふれる投げが封印されてしまうからだ。
今年9月、セルビアの首都ベオグラードで行われた世界選手権ではそういった攻防を目の当たりにした。
まずは最軽量級となる55kg級に出場した塩谷優のケースを紹介したい。3回戦でエルダニズ・アジズリにテクニカルフォール負けを喫したが、第1ピリオド2分過ぎに塩谷は主審に何やら強い口調で訴えかけていた。
いったい何があったのか。試合後、現場で確認すると塩谷は「なんかちょっと滑って……」と打ち明けた。「汗もかいていなかったんですけど、引き込みたいところで滑って引き込めなかった」。
続いて昨年8月の東京五輪で銀メダルを獲得した60kg級の文田健一郎のケースもお伝えしたい。ムラド・マンマドフとの3位決定戦でファーストコンタクトの段階で違和感を覚えたという。「(塩谷)優も言っていたように、『ああ、やっぱり』という感じ。『僕に投げられるのが本当にイヤなんだろう』と思いました」。
奇しくもアジズリとマンマドフは同じアゼルバイジャンの選手である。これは何を意味するのか。組織ぐるみで「肌に何か塗っているのではないか」と勘繰りたくもなる。残念ながら、そういった疑惑はいまに始まったことではない。
「バックに回ったときにお尻に指を突っ込んできたり――」
今大会には男子フリースタイルのヘッドコーチとして現地入りした小幡邦彦氏は「自分の現役時代にも足にオイルを塗っている(と思われる)選手はいた」と証言する。「お互い汗をかいてくると滑る。昔から『塗っているんじゃないか』と思わせる選手はいましたね」。
なぜそこまでダーティーなことをしてまで勝ちたいのか。そんな疑問を抱く方もいるだろうが、それは国の事情によるところが大きい。国によってはオリンピックスポーツでのメダル獲得で年金が支給されたり、家や高級自動車を贈られることもあるというのだ。だったら必死になるのは当たり前で、悪魔に魂を売ったとしても不思議ではない。
それだけではない。小幡ヘッドコーチは「試合中に口を塞いだり、指を入れてくることは日常茶飯事」と思い返す。「オリンピックでなくても、やってくる選手はいる。試合中に喉仏を潰してきたり、バックに回ったときにお尻に指を突っ込んできたり――。そういうことを審判の目を盗んで平気でやってくる選手が海外の選手の中にはいる」
2014年の世界選手権では男子フリースタイル74kg級の高谷惣亮が3回戦で破ったベラルーシの選手から試合後にポットに入った熱湯を頭からかけられるという事件が発生した。一歩間違えば、大惨事になりかねない。
筆者も世界選手権に出場した選手から腕に残った対戦相手の歯形を見せてもらったことがある。試合中、審判の目を盗んでかみついてきたというのだ。明らかな反則行為ながら、裏を返せばそこまでしても勝ちたかったという証左でもある。
「ルールを制する者が一番強い」という結論
いずれの反則もすぐなくなってほしいと願うばかりだが、まずは今回の世界選手権で噴出した疑惑のヌルヌル案件を解決するのが先決だろう。文田はマンマドフと戦うことで、「ルールを制する者が一番強い」という結論を導き出した。「闇雲に攻めるだけとか、そういう時代でもないのかなと痛感しました」。
文田は言葉を続ける。
「相手がコンタクトしていない状態でも主審からのアクション(もっと動けという意味)は自分にかかった。無駄を削ぎ落としていかなければならないと思いました。正直、納得できない部分も多いけど、そんなことは言っていられない。理想は追求したいけど、理想と手段は違う。今後は手段のほうを徹底的に取り組んでいこうと思います。それがオリンピックで優勝するために必要なものなのかなと」
体に滑りやすい何かを塗るということは相手がつかみにくいだけではなく、自分もつかみにくくなる。いわば、諸刃の剣というべき行為だ。「勝ちたい」よりも「投げられたくない」という気持ちが優先されるのか。
文田は「僕の技がかからない分、相手の技もかからない」と冷静に分析する。
「(塗っている)という確証はないので、そういうこともあると踏まえたうえでやっていくしかない。治療で使った塗布薬が残っているだけの可能性もある。あるいは日頃から塗っている(何かが)汗をかいたらにじみ出てくる可能性もある。難しい問題だと思います」
塩谷もアジズリの疑惑が最大の敗因とは捉えていない。「結局、グラウンドでとられ返させてしまった(ポイントをとられてしまった)という部分では自分の実力が劣っていたと思う。負けてしまった以上、(何事も)言い訳にはならない」
今年7月のポーランド遠征でも塩谷は決勝で違和感を感じる出来事があったという。
「決勝では対戦相手(中国)は最初から汗ビチョビチョで来たりしていましたね。まあ(それでも勝ち負けの)理由にはならないと思います」
疑わしきは罰せず。証拠をつかまないとダメ?
いったい選手たちはどんな対処をすればいいのか。
2017年にレフェリーとしては最高の栄誉とされるゴールデンホイッスル賞を受賞した斎藤修審判員は「昔からいろいろな説がある」と説明し始めた。
「事前に固形石けんを塗っておけば、汗をかいてくると滑るという説がある。その一方で出る前にオイルマッサージをやっていたという説を耳にしたこともあります」
かつて斎藤氏は世界選手権でこんな場面に遭遇した。「審判がチェックして、このままだと失格だとカザフスタンの選手の体を拭いた場面を見たことがあります」。
そして「まずはアピールすることが先決」と主張した。「塗っているとしたら、それはよくない。ただ塗っていると主張するだけだと、確認のしようがない。試合中に進行をストップさせ、何か塗っているとアピールすることはいいことだと思います」
ただ、ちょっとやそっとのアピールでは聞き入れられることもなく、そのまま試合続行を促されるケースも多い。
かつては試合前に審判が選手のボディチェックをすることは当たり前だった。なぜなくなったのか。斎藤氏は「テレビの映りが悪くなるから」と話す。「裏でボディチェックはしているという話も聞くけど、やっていないケースもあると思う。実際、東京五輪のときもやっていなかった。裏で何もしなければ、一部の選手が不正を働いても不思議ではない」。
だったらどうすればいいのか。選手が日本レスリング協会に「試合前に必ずボディチェックをしてほしい」という意見を述べ、それを協会が世界レスリング連合に上げるという方法も一案だろう。
「塗っているという疑惑だけで、実際にはどうなのかわからない。疑わしきは罰せずなんです。証拠をつかまないとダメ」(斎藤氏)
スペクタクルスポーツという見地から見栄えを重要視する方向なのは理解できる。しかしながら、だからといって疑惑をスルーするようだと本末転倒だろう。「仕方ない」と諦めるのではなく、うるさいくらいに正論をぶつけるほうが得策なのではないか。パリ五輪で「後の祭り」だけは避けたい。
<了>
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