
“わし”はこうして監督になった。木村和司が明かす、S級取得と「口下手な解説者」時代の苦悩
伝説の背番号10が綴る“永遠のサッカー小僧”の肖像――。本稿では木村和司氏の初自叙伝『木村和司自伝 永遠のサッカー小僧』の抜粋を通して、時代の寵児として日本サッカー史を大きく変えたレジェンドの栄光と苦悩の人生を振り返る。今回は解説者としての葛藤、S級ライセンス取得の裏側、そして監督業への挑戦まで。木村和司が語る“その後のサッカー人生”。
(文=木村和司、写真=アフロスポーツ)
ワールドカップ・ベスト8の壁
1994シーズン後に現役を退いて間もないころに、NHKから解説のオファーをいただいた。
何度も記してきたように、人前で話すのを苦手としてきたわしは、決してボキャブラリーも豊富ではない。電波を通して、目の前の試合を詳しく話す仕事が務まるのだろうかと何度も逡巡(しゅんじゅん)したが、何ごとにもトライしたいと考えた末に受諾した。
最初の仕事は、日本が銅メダルを獲得した1968年のメキシコ五輪以来、実に28年ぶりとなる出場を果たした1996年のアトランタ五輪だった。
日本代表が悲願のFIFAワールドカップ初出場を果たした、1998年のフランス大会でもNHKの解説者の一人として開催国へ乗り込んだ。
わしは6月26日にリヨンのスタッド・ジェルランで行われた、ジャマイカ代表とのグループリーグ最終戦で解説を担当した。
しかし、アルゼンチンに続いてクロアチア代表との第2戦も0-1で落とし、すでに敗退が決まっていた日本は1-2で敗れた。2点差からFW中山雅史が決めた日本のワールドカップ初ゴールで、一矢を報いるのが精いっぱいだった。
日本の3連敗を目の当たりにしたときも、8万人で埋め尽くされたスタッド・ド・フランスで、開催国フランス代表が3-0でブラジル代表を撃破し、歓喜の初優勝を果たした決勝戦を観戦したときも、胸中には同じ思いを抱いている。
日本代表がワールドカップ決勝の舞台で戦う日は来るのだろうか。果たして、わしが生きている間に見られるのだろうか。答えはいつも絶望的なものだったが、時間の経過とともに日本を取り巻く状況も大きく変わってきた。
フランス大会を皮切りに、8大会連続8度目のワールドカップ出場を決めている森保ジャパンが、来たる2026年夏にアメリカ、カナダ、メキシコで共催される次回大会で優勝を目標に掲げていると、報道を介して何度も見聞きした。
これまでの最高位は2002年の日韓共催大会、2010年の南アフリカ大会、2018年
のロシア大会、そして前回カタール大会のベスト16だった。
この本を書いている時点で、一度もベスト8へ通じる扉をこじ開けていない。それだけに選手たちの意識の変化を頼もしく感じているし、日本代表に関わった一人のOBとして、期待を込めて戦いぶりを見守りたいと思っている。
ファンから不評を買ったわしのテレビ解説
話を解説の仕事に戻したい。
日本代表が臨む国際大会ではワールドカップ・フランス大会に続いて、2000年のシドニー五輪、2002年のワールドカップ日韓共催大会、2006年のワールドカップ・ドイツ大会でNHKの解説を務めさせてもらった。
もちろん国内のJリーグの試合でも解説を務めたし、BSではイングランドのプレミアリーグをはじめとして、海外のリーグ戦の解説も担当した。
しかし、わしの耳に入ってくる言葉は決して芳しいものではなかった。
たとえば試合中に実況を担当するアナウンサーから話を振られると、頭のなかではあれこれと考えながらも、何を言うかをまとめられないまま「そうですね」と返してしまう。状況によっては「うーん」だけで終わるのも珍しくなかった。目の前の展開が刻一刻と変わっていくなかで、時間との戦いは想像以上に困難を伴うものだった。
プロの視点を介した言葉を求める視聴者の方々からは、当然のように「しゃべらない」とか「つまらない」といった声が数多く届いた。Jリーグがスタートした1993シーズンからテレビで解説を務め、軽妙な語り口から人気を博していた県工(県立広島工業)のひとつ上の先輩、キン坊こと金田喜稔さんに、わしはちょっぴり嫌みを込めながら聞いた。
「なんでそんなに口がうまいんじゃ」
最後までプロ契約を結ばず、1991年の引退後は日産自動車に社員として残りながら、サッカー関連の仕事が急増してきた1993年に退社。日本で初めてとなるプロの解説者になっていたキン坊は、決まってこう返してきた。
「お前がしゃべれんだけじゃ」
痛いところを突かれたわしは、そのたびに言い返す言葉が見つからないまま、お互いが70歳の古希に近づいたいま現在を迎えている。
監督資格を取得するまでの長く険しい道のり
解説の仕事と話が前後してしまうが、わしは引退翌年の1996年春から、決意も新たに次なる道を歩みはじめている。
引退試合後のスピーチを「わしなりにサッカーを追求していきたい」と締めたように、わしはサッカー界から離れるつもりはまったくなかった。一方で選手ではなくなった以上は、進んでいく道はおのずと限られてくる。
サッカーの指導者となり、いつかは監督として指揮を執りたい。次の夢を描いたわしは、日本サッカー協会が公認および発行する最上位の指導者資格で、Jリーグのクラブで監督を務めるうえで必要なS級ライセンスを取得すると決めた。
しかし、実際に取得するまでの道は長く、険しかった。
おりしもわしの現役引退を境に、取得する方法が大きく変わっていた。1995年度までは2週間ほどの集中講義を受けて取得できたものが、1996年度からは1年近くもの時間をかけて、実技だけでなくさまざまな講習も受ける形に変更された。
新しいカリキュラムの一期生になったわしは、子どものころから大の苦手としてきた勉強も課される状況に、こんな思いを抱いたのを覚えている。
「読み書きなんて大学までに終えている。もうせんでいいじゃろう」
講習でメインの講師を務めた、後に日本サッカー協会会長を務める田嶋幸三さんとは、講習の後に提出するレポートの内容をめぐって言い争いになった。
実は田嶋さんから「自分の言葉で書くようにしないとダメだ」と何度か苦言を呈された。わしもそのたびに、読み書きをはじめとする講習に対して、心のなかで抱いていた「もうせんでいいじゃろう」という思いを言葉にしてしまったからだ。
実際問題として、講習が役に立ったのかと言えば、いまだに疑問を抱いている。人間の筋肉の構造を理解する、という目的でカエルの解剖が課されたときには、気持ち悪さばかりが先立ち、とてもじゃないがサッカーの指導に関係してくるとは思えなかった。
1996年度の受講者のなかには県工のひとつ上の先輩で、東京農業大学卒業後に入社したJSLの東芝で長くプレー。東芝が日本フットボールリーグに所属していた1993シーズンをもって、現役を引退していた石﨑信弘さんもいた。
当時は数日間におよぶ実技や講習が実施されるたびに、会場に指定されていた茨城県の筑波大学まで向かわなければいけなかった。
横浜市内の自宅と筑波大学との往復にあてる時間があまりにももったいないからと、石﨑さんと筑波大学の近くにウィークリーマンションを探そうとも考えた。しかし、いい物件が見つからず、計画は一日で頓挫してしまった。
高校サッカー界の名将と盃を交わし続けた夜
もっとも、受講してよかったと思えた点もある。
高校サッカー界の名将と呼ばれた、国見(長崎県)の小嶺忠敏、東福岡(福岡県)の志波芳則両監督も1996年度の受講者に名を連ねていた。
特に志波さんとは、泊まりがけで受講した際には毎晩のように飲みにいっては、サッカーに関して語り合った。小嶺さんも含めて、1年という長い時間のなかでかわした言葉の数々が、実はわしにとってもっとも勉強になった。
近年では元日本代表の本田圭佑が、時間をかけてS級ライセンスを取得する日本サッカー協会のプロセスにノーを突きつけてひさしい。
S級ライセンスに関して、本田は「取得する気持ちは一切ない」と持論を展開。さらに「この議論において僕を説得できる人間はいない」とつけ加え、資格をもたなくても日本代表の指揮を執る可能性を模索するとまで言及している。
確かにカリキュラムには首をひねる部分もある。それでもわしの経験に照らし合わせれば、小嶺さんや志波さんに代表される、サッカーに対してさまざまな考え方をもつ指導者との出会いは、その後のサッカー人生においてかけがえのない財産になった。
その意味でも本田には意地を張らずに、一回あたりの受講者が20人ほどに限定されるカリキュラムを受講。同期たちと濃密な時間を共有しながら見聞を広げて、いい指導者になってほしいと思っている。
話をわしのS級ライセンスに戻したい。
講習や実習をすべて終えたわしは、最後の関門となるインターンシップ研修の場に、古巣である横浜マリノスを申請。これが了承されると、1997シーズンの開幕前に宮崎県内で行われたキャンプに参加した。
1995シーズンのサントリーシリーズで初優勝した横浜マリノスは、NICOSシリーズを制した宿敵・ヴェルディ川崎とサントリー・チャンピオンシップで激突。国立競技場で行われた第1戦と第2戦をともに1-0で制し、ヴェルディ川崎の3連覇を阻止するとともに、初めて年間チャンピオンにも輝いた。
しかし、1ステージ制で行われた1996シーズンは16チーム中で8位に終わり、1995シーズンのサントリーシリーズ途中から指揮を執ってきた早野宏史監督が退任。スペイン出身のハビエル・アスカルゴルタ監督が新たに就任していた。
スペインの複数のクラブに加えて、直前にはボリビア、チリ両代表を率いた経験をもつアスカルゴルタ新監督のチームづくりをじっくりと観察。さまざまな角度から勉強したうえで、日本サッカー協会へレポートを提出したわしは、1997年春に晴れてS級ライセンスを取得。オファーがくればいつでも監督を引き受けられる態勢を整えた。
想定外だったフットサル日本代表監督就任
もっとも、監督就任へ向けた初めてのオファーはJリーグのクラブからではなく、わし自身が意外と思ったところから届いた。
2001年に入って、日本サッカー協会から連絡が入った。フットサル日本代表監督へ就任してほしい、というオファーに驚きながらもわしは快諾した。
もちろんフットサルのプレーも、ましてや指導をした経験もわしにはなかった。それでも足元のテクニックを多用する点で、フットサルはわしの好きなサッカーに相通じるものがあったし、何よりもNHKの解説の仕事を引き受けたときと同じく、何ごとにもまずは全力でトライしてみる、というモットーのもとで引き受けた。
フットサル日本代表は、7月14日から7日間の日程でイランの首都テヘランで開催される、第3回アジアフットサル選手権を控えていた。代表チームにはフットサルを専門とするコーチもいたので、わしはチーム全体をマネジメントする仕事に集中した。
思い返してみれば生まれて初めてパスポートを取得して海外渡航した先も、日本ユース代表の一員として1977年の春に参加した、テヘランで開催されたAFCアジアユース選手権だった。イランとはつくづく縁があると思わずにはいられなかった。
参考にしたのは、日本代表時代に監督として心酔した森孝慈さんのやり方だ。
テヘランに出発する前に実施された国内合宿では、宿泊したホテルの部屋で酒を酌み交わしながら選手たちと語り合った。わしとしてはJSLの日産自動車やJリーグの横浜マリノス、そして日本代表での話しかできなかったが、選手たちが興味深く聞いてくれて、いろいろと質問してくれたのを覚えている。
大会はファーストラウンドのグループAをイラン、パレスチナに続く3位で突破。セカンドラウンドの準々決勝で、カザフスタンを2-2から突入したPK戦の末に5-4で退け、目標に掲げていた3大会連続のベスト4進出を果たした。
準決勝で開催国イランに返り討ちにあい、3位決定戦でも韓国に1-2で惜敗して4位で大会を終えたが、なんとかノルマは達成できたと思っている。個人的な話になるが、先述のAFCアジアユース選手権もベスト4進出を果たしながら、準決勝、3位決定戦と敗れて4位だった。これも何かの縁なのかと、あらためて思っている。
サッカー人生で初めて監督を務めたこのときの縁がつながる形で、代表チームに名を連ねていた金山友紀が、カミさんが社長を務める有限会社シュートが後に運営をはじめたサッカースクールでコーチを務めてくれている。
(本記事は東洋館出版社刊の書籍『木村和司自伝 永遠のサッカー小僧』から一部転載)
【連載第1回】「我がままに生きろ」恩師の言葉が築いた、“永遠のサッカー小僧”木村和司のサッカー哲学
【連載第2回】読売・ラモス瑠偉のラブコールを断った意外な理由。木村和司が“プロの夢”を捨て“王道”選んだ決意
【連載第3回】「カズシは鳥じゃ」木村和司が振り返る、1983年の革新と歓喜。日産自動車初タイトルの舞台裏
【連載第4回】“永遠のサッカー小僧”が見た1993年5月15日――木村和司が明かす「J開幕戦」熱狂の記憶
【連載第6回】木村和司が語る、横浜F・マリノス監督就任の真実。Jのピッチに響いた「ちゃぶる」の哲学
<了>
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[PROFILE]
木村和司(きむら・かずし)
1958年7月19日生まれ、広島県出身。地元・大河小学校で小学4年生のときにサッカーと出会う。広島県立広島工業高等学校から明治大学を経て、1981年に日産自動車サッカー部(現・横浜F・マリノス)に加入。1986年には日本人初のプロサッカー選手(スペシャル・ライセンス・プレーヤー)として契約を結 ぶ。クラブでは日本サッカーリーグ優勝2回、天皇杯優勝6回など、黄金期を支える中心選手として活躍した。日本代表としては、大学時代から選出され、特に1985年のワールドカップ・メキシコ大会最終予選・韓国戦でのフリーキックによるゴールは、今なお語り継がれている。また、国際Aマッチ6試合連続得点という日本代表記録も保持する。日本初のプロサッカーリーグが1993 年に開幕するが、翌1994 年シーズンをもって現役を引退。プロサッカー黎明期を支えた象徴的存在だった。引退後は指導者としても活躍し、2001 年にフットサル日本代表の監督を務め、2010 年から2011 年には横浜F・マリノスの監督に就任。そのほかにも、サッカー解説者やサッカースクールの運営など、多方面で活動を続けた。2020 年には日本サッカー殿堂入りを果たし、その功績が称えられている。
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