「ザ・怠惰な大学生」からラグビー日本代表へ。竹内柊平が“退部寸前”乗り越えた“ダサい自分”との決別

Career
2025.09.19

怠惰な大学生活、鼻をへし折られた屈辱、退部寸前の挫折――。そこから竹内柊平は「恩返し」を原動力に、ラグビー日本代表のスクラムを支える存在へと成長した。浦安D-Rocksを離れ、東京サントリーサンゴリアスで新たな挑戦に踏み出す右プロップが、何度も逆境を乗り越え、自らを奮い立たせてきた言葉とは。

(文=向風見也、写真=西村尚己/アフロスポーツ)

代表活動も、契約交渉も「中途半端にしたくない」

気づけばエリートに囲まれている。

竹内柊平は、ラグビー日本代表の常連選手となった。

昨年就任したエディー・ジョーンズ ヘッドコーチのもと、今年9月15日までに代表戦出場数をもともとの3から18に伸ばした。強調するのは一つの思いだ。

「皆に誇れる自分になりたい。皆に恩返しがしたい」

ポジションは右プロップだ。身長183センチ、体重115キロのサイズでスピードに乗って鋭い突進、タックルを繰り返す。

最前列でスクラムを組む時、ぴんと張った胸の前で右腕を振り、大文字の「X」と「I」を描くような動作も印象的だ。フォームに一貫性を保つため、コーチたちと相談して作ったルーティーンである。

今年は1勝1敗の対ウェールズ代表2連戦で持ち味を発揮しながら、海外クラブとの契約にもチャレンジした。

試合のある週にも高強度のセッションがなされるジョーンズ流日程に取り組みながら、日本時間の深夜にフランスのクラブ首脳などとオンラインで面談。所属先だった浦安D-Rocksを6月までにやめてから、疲れた身体に鞭を打っていた。

代表活動も、契約交渉も、「どちらも中途半端にしたくない」の一心だった。

「ダサい自分だったら好きになれない」

一時は、先方から獲得へ意欲的と取れる反応もあったという。本人の感触では、契約直前における破談である。紆余曲折ののち、新天地は国内タイトル多数の東京サントリーサンゴリアスに定めた。

いずれにせよ、スタートラインを鑑みれば大出世と取れそうだ。何よりこの成功譚には、才能と活気と努力の合わせ技という枠に収まらないあたりに妙味がある。

「皆に誇れる自分になりたい。皆に恩返しがしたい」

この言葉には続きがあった。

「……そのために、自分を好きで居続ける。ダサい自分だったら好きになれないので、好きな自分になるために努力し続ける」

小学6年から中学を出るまで、宮崎ラグビースクールに通った。地元の宮崎工業高校の建築科に進んだのは、二つの理由からだ。

一つは、タイル職人の父親に憧れたこと。もう一つは、折しも小柄だったこともあり「チームで自分だけが県選抜に選ばれない」という状況であった竹内をラグビー部の監督だった佐藤清文がスカウトしてくれたことだ。

その後、福岡の九州共立大学をAO入試で受けた経緯を絡めて語る。

「僕、将来の夢にまっすぐなんですよ。お父さんと一緒に仕事がしたいからと高校に入ったら、恩師に出会った。そこで、この人みたいな教師になりたいなと思っていたら、たまたま僕の7こ上くらいの九州共立大学(ラグビー部)の元キャプテンが、宮崎工業の近くでランニングしていたんです。ちょうど僕はタックル練(習)か何かをしていたんですけど、『君、大学行かないの? 九州共立大学はどう?』と聞かれて。『そこ、体育の教員免許、取れますか?』って聞いたら、『取れるよ』と。そこから……という感じです」

へし折られた鼻「お前のやってきたことがすべて返ってきた」

10代のうちに一気に背が伸び、パワーアップを実感していた。九州共立大学でキャンパスライフを謳歌しながらクラブ活動も充実させたかといえば、そうはいかなかった。

加盟する九州学生ラグビーリーグAで突進、タックルに手応えを覚えるうちに、鍛錬に身が入らなくなったのだ。

朝練習に遅刻し、地道な筋力強化には乗り気になれず、授業にも顔を出さなくなった。1年目の取得単位はわずか「7」。ずっとこのままでいる心地よさと、ずっとこのままでいることへの焦燥感とが、ないまぜになっていた。

「本当に誇れるような人間じゃなかった。自分がすごく嫌いだった。家が裕福じゃないほうだったなか、親が多額のお金を出してくれて大学に行かせてもらっていたのに頑張れていない。でも、ラグビーには過信がある、みたいな」

全国屈指の選手は関東や関西の大学に集まりがちだ。九州共立大学は腕試しのため毎年7月頃、関西に遠征していた。竹内はそのツアーの2度目の近畿大学戦で、鼻をへし折られた。

なぜか先方が勢揃いさせてきた主力と対峙すると、「どのプレーも通用しなかった。『個人競技か?』っていうくらい、きれいに全プレーでやられました」。監督の松本健志に諭された。

「お前のやってきたことが、すべて返ってきた試合だ」

指導者の言葉で襟を正すアスリートの物語は、世界中にあまたある。もっともこの時の竹内は、そのストーリーが成り立つほど簡単ではなかった。

厳しい現実を突きつけられても不貞腐れたままで、退部も考えた。

「いまの僕だったら『なにくそ!』ってなるんですけど、その時は何も誇れるものも、根性もなかったから、『はい、やめます』って」

「当たり前のことを、当たり前にしろ」

救いはあった。親身になってくれる先輩がいたのだ。2学年上の中村智弥だ。才能がありながらケガに泣かされていた中村のことを、生来は素直だった竹内青年は慕っていた。

「ずっと優しくしてくれているのに全然やる気がない自分が、なんかアホらしいなって。次第に、その人を勝たせたいと思い始めて……」

変わってみよう。変えてみよう。意を決したらまっしぐらである。

手始めに、嫌いだった筋力トレーニングに本気で取り組んでみる。動きがよくなった。もっとよくなるべくあれこれと模索するさなか、高校時代の恩師・佐藤の言葉を思い出した。

「当たり前のことを、当たり前にしろ」

挨拶、ごみ拾い、スリッパの整列といった、日常生活を正す勧めだ。高校時代、自身をチームに誘ってくれた佐藤によく諭されていた。

「その時の僕はアホだったので、『何言ってるんだ? ラグビー以外のことがラグビーに関係するわけないだろ』と。でも、大学生になってそれをやってみたら、筋トレをしていたのもあってみるみる自分のパフォーマンスが上がっていって……」

結局、中村のラストシーズンは良い結果を出せなかった。悔しさから生まれた感覚は、「(最終学年時は)先輩が誇れる九州共立大学にしよう」だった。

「あれ? なんか、同じことを言っていた気がするなと思ったら、高校3年の卒業式の時に泣きながらスピーチしていたんです。『佐藤先生が誇れるような選手になります』って……。自分がしょぼかった時、天狗になっていた時、ちょっと調子に乗った時と、いろんな時期にいろんな人が僕に関わってくれて。僕のラグビーのやる意義は、恩返しなんだなと思いました」

「正直、大学でラグビー部は嫌われていた。でも…」

鍛錬は熱を帯びた。大学でウェイトトレーニングを一緒に行う「ペア(グループ)」の部員が2人ずつの計2組いて、それぞれの「1時間半」のセッションに付き合う。だから「3時間」も身体をいじめた。

加えて、部が定める「ウェイト増量期間」は「2時間半」が2つあるため「5時間」。次第に鍛錬と休養のバランスが肝だとわかってきてからは、そんな長時間の追い込みは意味をなさないと理解した。

それでも、代表選手になってから確信する。

「あの時の目標に向かってまっすぐやる姿勢は、本当にいまに活きている」

最終学年時は主将になった。リーダーとして意識したのは、佐藤の説いた「当たり前のこと」だ。

常軌を逸したハードワークと並行し、トレーニング場に散乱したダンベルを率先して片づけた。九州リーグを制し、全国大学選手権への初出場を果たすまで、「愛されるチームになろう」と己と周りに言い聞かせてきた。

「正直、大学ではラグビー部って嫌われていたんです。めちゃくちゃ人も多いし、ごついし、群れるし。でも、他の部活の同級生から『ラグビー部、変わったね』と言われるようになって。それがうれしかったのはいまでも覚えています」

「ザ・怠惰な大学生」から日本ラグビー界有数の存在へ

出会ってきた「温かい人たち」への「恩返し」のためには、日本代表にもなりたかった。大学4年生になる手前の2019年3月、当時国内最高のトップリーグが開く合同トライアウトを受けた。

目標に近づくべく、働き場をフォワードの花形であるナンバーエイトからいまの右プロップに変更して挑んだ。スクラムに臨んだところ、現場の指導員に「君、姿勢がおかしいよ」と指摘される。

「すみません。実は、プロップをやるのは今日が初めてで……」

「……君、面白いね」

その人物は斉藤展士だった。現役時代に名プロップだった斉藤は、D-Rocksの前身であるNTTコミュニケーションズ シャイニングアークス東京ベイ浦安で教えていた。自然と竹内の進路が決まった。斉藤からスクラムのいろはを教わった竹内は、入部3年目の2022年に初めて日本代表となった。

現在は日本代表の一員として北米大陸、環太平洋諸国とのパシフィック・ネーションズカップに参戦中で、トンガ代表との準決勝では好ラン連発でプレイヤー・オブ・ザ・マッチに輝いた。

「自分のことがめっちゃ好きです。あ、これは顔がって意味じゃないですよ!自分のプレー、性格が好き。トレーニングをして、誰にも負けない自信があるからです」

クーラーの効いた部屋でスマートフォンをいじりながら日々を過ごし、ただただ保護者の仕送りを待つ怠惰な男子学生とほぼ同列のラインから出発し、自らにルールを課し、得意分野を突き詰めた末に、業界有数の存在となった。

竹内の歩んできた道のりは、人の可能性は無限だと示す。

<了>

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