デュプランティス世界新の陰に「音」の仕掛け人? 東京2025世界陸上の成功を支えたDJ
2025年9月に東京で開催された世界陸上競技選手権大会(世界陸上)は、数々のドラマと熱狂を生み出した。のべ約62万人が会場に足を運んだ大会の盛り上がりの裏側には、会場全体の雰囲気を巧みにコントロールし、選手と観客を音楽で結びつけたスポーツDJの存在があった。世界陸上でスタジアムDJを務めた日本人、DJ KAnaMEの証言を交えて、大成功に終わった東京2025世界陸上の知られざる舞台裏に迫る。
(文=大塚一樹、トップ写真=アフロスポーツ、本文写真=森田直樹/アフロスポーツ)
国立競技場が一つになった“終電間際の奇跡”
9月に行われた東京2025世界陸上3日目、そろそろ終電を意識しなければいけない22時半を回っても、国立競技場を後にする人はまばらだった。観客の視線の先にいるのは、男子棒高跳びの世界記録保持者、アルマント・デュプランティス。ただ一人6mを超えるジャンプですでに3大会連続の優勝を決め、自身の持つ世界記録の更新に臨んでいた。
すでに他の種目は競技を終え、会場の視線は6m30に設定されたバーと向き合うデュプランティスに集中していた。ルーティンを終えたデュプランティスが手拍子を要求すると、ともに競い合ったライバルたちも大きなアクションで観客を煽る。国立に響く音楽のリズムに合わせながら何度か小さく縦に首を動かしたデュプランティスは完璧な助走と踏み切りで前人未到の6m30のバーを超えていった。
大会のハイライトの一つとして何度も繰り返し再生されたこのシーンは、同時に34年ぶりに東京で開催された世界陸上で初めて会場が一つになった瞬間だった。
世界記録に挑んだ3回の試技と “音”の違い
スウェーデンの“鳥人”と呼ばれ、すでに14回記録を更新しているデュプランティスといえども、世界陸上の舞台での記録更新はイージーではなかった。優勝を決めたジャンプからバーを一気に15cm上げて挑んだ1回目のジャンプではわずかにバーに触れて失敗、2回目の試技でも高さは十分に見えたがやはりバーを揺らし「最後の1回」にかける状況に追い込まれた。
3回目のジャンプは何が違ったのか? もちろん技術的な違いやマインドセットの違いはあるのだろう。そこにどれだけ影響を与えたかはわからないが、はっきりと違っていたのは、会場で流れている“音”だった。
1回目の試技では会場はほぼ無音だった。陸上のフィールド競技、特に跳躍系の種目では、助走のリズムをつくるべく選手が観客に手拍子を要求する場面がよく見られる。デュプランティスも世界記録に挑んだすべてのジャンプで観客の期待を追い風にしようと手拍子を促している。
会場でDJを担当していたDJ KAnaMEによると、実は1回目の試技の際も音量を絞った音楽を流していたという。
「まったくの無音というのは、選手に緊張感やプレッシャーを与える可能性があります。おそらく会場ではほとんど聞こえていなかったのではないかと思いますが、デュプランティス選手の1回目の記録挑戦のときも、薄く音楽は流していました」
スタジアムの音を司る「スポーツDJ」
意識していない人も多いかもしれないが、今やあらゆるスポーツの大会、イベントでは、音楽による演出が当たり前になっている。会場で流れるBGM、効果音、出されるすべての音を司るのが専用のDJブースで機材を操るスポーツDJだ。DJ KAnaMEは、2019年に日本で開催されたラグビーワールドカップ、東京2020オリンピック・パラリンピックなどでDJを担当した日本におけるスポーツDJの第一人者だ。
2回目の助走前には1回目の静けさとは打って変わって、手拍子に合わせるかのような軽快な音楽が流された。
「日本では、陸上というと100mなどのトラック競技が人気ですが、海外では投擲や跳躍のフィールド競技も相当に人気があって、フィールドを中心に音をつけるのが一般的なんです。選手も観客もハンドクラップを好みますし、その雰囲気を邪魔せずに一体感を作りやすい音楽を意識します。ただ、主役はあくまでも競技であり選手なので、音楽が主導して煽るようなやり方は好ましくありません。デュプランティス選手の跳躍に関しては、すでに他の競技が終了していて、記録更新に集中していたからこそ、少し音量を上げて意識的に盛り上げる演出を心がけました」
デュプランティスの50秒
そしていよいよ後がなくなった3回目、過去2回の試技でデュプランティスの間合いや呼吸を理解した観客の手拍子と、BGMのリズムがマッチし、会場はバーに向かう“鳥人”と完全に一体となった。
「今回、DJブースは東京オリンピック、パリオリンピックでもDJを担当したフランス人のDJ Salaとコンビを組んでいました。彼とは東京オリンピックの陸上競技でも一緒だったのですが、欧米の陸上大会を転戦しているので、選手個々の特徴をとてもよくつかんでいます。私も選手の基本情報は入れていますが、デュプランティス選手と一緒になったのは今回で3回目。サラが『デュプランティスはポールを持ってから走り始めるまでだいたい50秒くらいだ』って言うんです。なので、50秒のネタを持っているから50秒前に入れ替わろうとか、少し手前で無音にしようとか、2人の連携でいろいろ相談しながらやっていました」
棒高跳びの試技の持ち時間は残っている競技者数によって変動する。4人以上の際は1分、2~3人なら2分、同一の高さに対する連続試技では3分、今回の世界記録挑戦のように単独での試技には5分が与えられる。デュプランティスを見続けてきているDJ Salaは、デュプランティスはどの場合でも自分のリズムを崩さず、ほぼ50秒ほどで跳ぶことを把握していたのだという。
“鳥人”に翼を授けた会場の後押し
「選手のタイミングや動きを先導するわけにはいかないので、確実に跳ぶとわかっていないとクラップビートの音は出せません。Salaとは阿吽の呼吸でタイムキープをしながら、ベストのタイミングで音が出せるようにプレイしていました」
助走スピードが上がるにつれて早くなるビート。そして“鳥人”が空に舞い上がった瞬間にフッと音が消え、無音状態がつくられる。数秒の間があって、会場は地響きのような歓声。
数万人が世界記録の瞬間を五感で“体感”した瞬間だった。
改めてデュプランティスの3回のジャンプを映像で見直すと、明らかに音との親和性が高まったときの助走に勢いが生まれているように見える。DJ KAnaMEは「選手の背中を押すきっかけになったらそれはとてもうれしいことですし、そうありたいと思って音を出していますが、基本は選手の邪魔をしないこと」と控えめに語るが、他ならぬデュプランティス自身が東京での記録更新について「雰囲気は過去最高だった。アドレナリンが出た」と振り返っている。

ノア・ライルズのかめはめ波
今大会を大いに盛り上げたもう一つの要素に、選手たちによる日本のマンガ・アニメのキャラクターにちなんだパフォーマンスがあった。中でも特に注目を集めたのが、アメリカのスプリンター、ノア・ライルズ。
2024年に行われたパリオリンピック100mで金メダルを獲得した際に、日本の『ドラゴンボール』でおなじみの「かめはめ波」ポーズを披露し、日本での認知度を一気に上げた。
今大会は、100mでは9秒89で銅メダルに終わったが、本人が「本職」と語る200mでは、19秒52の好記録で見事4連覇を達成した。
ライルズが優勝の余韻に浸るなか、会場に流れたのは、アニメ『ドラゴンボール』の主題歌『CHA-LA HEAD-CHA-LA』。これにはライルズのアニメ好きを知る会場も大いに沸き、当のライルズは満を持して歓喜のかめはめ波を披露した。
「100mで銅メダルだったときにかける選択肢もあったと思いますが、200mではもしかすると優勝するんじゃないかという思いがあり、温存していました。世界陸上の主催はワールドアスレティックス(世界陸連)なんですけど、大会で出す曲に関しては歌詞にカースワード(驚きや怒りを表す不敬な、または猥褻な表現)を避けるとか、紛争や国家間の対立に関わるような曲はかけないとか、いろいろな暗黙のルールがあるんです。アニメの曲がダメということはないのですが、ディレクターによっては特定の誰かにフォーカスした曲を嫌うこともあります。ライルズがアニメ好きというのは誰もが知る事実なので、優勝後のセレブレーションタイムならまぁいいかと用意していたドラゴンボールの曲から選んでかけたというわけです」
1800を超える曲と嵐の物語
今回の世界陸上でDJ KAnaMEが使用した曲は実に1800曲を超える。
「サビだけとかごく短く使った曲も入れるとそれくらいになったみたいです。9日間の長丁場ということもありますし、定番の曲も盛り上がるんですけどそれだけだと観客のみなさんも慣れてしまうんですね。『こんな曲がかかるのか』とか、有力選手の応援に来た国の人だけがわかるヒット曲とか、そういうのも散らしながらいろいろな曲をかけましたね」
会場勢からのSNSの発信で、雨の中断中に嵐の『感謝カンゲキ雨嵐』が流れたことがバズった。これについてもDJ KAnaMEは、東京オリンピックの開催延期によってスペシャルアンバサダーの任を全うできなかった嵐の物語を踏まえて選んだという。
「雨のときにかける曲はいくつかあるのですが、東京、国立競技場でとなれば嵐しかないと。『今回は日本の曲がよくかかってうれしい』という声もあったんですけど、国内の大会だと邦楽はそんなに反応が良くないんですよ。でも今回は好意的に受け止めてもらえました。セッションのオープニングに前回東京で開催された1991年のヒット曲をかけたりしていたんですけど、それにも気づいてくれる人がいたりして」
SNSで話題になった現象でいえば、モーニングセッションでスタジアムMCが「みんなで身体でも動かしましょうか」と投げかけた際にとっさにかけた『ラジオ体操第1』も外せない。ラジオ体操になじみのある日本人だけでなく、海外の観客、スタッフや選手が見よう見まねで楽しそうに“踊る”姿が拡散され、「あのダンスは何?」と日本の夏休みの風物詩が思わぬ形で脚光を浴びた。
セレモニーミュージックの制作も。高まるスポーツDJの存在感
今大会では、スポーツDJとして活動してきたDJ KAnaMEにとって、単なる音響係ではなく大会、スタジアムに関わるすべての音を司るDJとして新たな次元に突入した実感を得る出来事もあったという。
一つはワールドアスレティックスからのオーダーで、選手がメダルを授与される際に流れるセレモニーミュージックの制作を任されたことだった。
「スポーツDJとしての次のステップは、トラックメイカーとしてオリジナルの楽曲をその競技、イベント、チームのオリジナルのものとして制作することだと思っています。徐々にその段階に進んでいますが、世界陸上でセレモニーミュージックを担当できたことで、スポーツDJの役割や仕事を知ってもらうきっかけがつくれたのではないかと思います」
今大会のために制作された『Glory Time~When It All Pays Off』は、単純で覚えやすいメロディを採用しつつ、勝者だけでなくともに戦った栄光なき選手たちの悲哀、それがあるからこその歓喜を表現したという。
また、大会開幕の数日前に正式発売されたばかりのDJコントロール機材のフラッグシップモデルが、世界シェアNo.1を誇るメーカーのサポートで使用されたことも、スポーツDJの地位向上という意味では意義深いという。
「スポーツイベントとしては間違いなく世界初でしょうし、音楽イベントでもまだそんなに投入されていないモデルを、世界陸上の場で“お披露目”の意味でも使っていいよとお墨付きをもらえたような気がして。DJといえばダンスフロアやフェスが主戦場ですが、スポーツの場でも欠かせないモノだという認識がメーカー側に持ってもらえているということですから」
カメラメーカーがオリンピックなどの世界的なスポーツイベントに合わせてフラッグシップモデルを投入する「報道カメラ戦争」は、もはや風物詩だが、スポーツの国際大会ごとに最新のDJ機材が話題になる未来もあるのかもしれない。
デュプランティスの素晴らしい世界記録をはじめ、2025年に国立競技場で生まれた記録や勝利、そして敗者を含むすべての選手と観客、そこで発せられたすべての音が織りなした物語は、そのどれもが欠けても意味を成さない“構造的必然”だった。
会場に設置されるDJブースは、必ずフィニッシュラインの延長線上の高いところにあるという。ゴールや結果を見つめながら、会場全体に目を配り、ときには選手を鼓舞し、ときには観客をブチ上げる。裏方でありながら、会場全体のビートを整え続ける仕事をこなしたDJ KAnaMEは、間違いなく東京2025世界陸上を盛り上げた立役者の一人だ。
<了>
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