東京五輪は「中止」が妥当! 政治主導の「延期」判断はアスリートとスポーツを無視した政治家、IOCの暴挙

Opinion
2020.04.03

1年程度の延期がすでに決定していた東京オリンピックの開幕が、来年7月23日に決まった。勢いを増す新型コロナウイルス感染症(COVID-19)が世界中を混乱させているいま、「1年後の延期」は正しい判断だったのか? 作家・スポーツライターの小林信也氏は、政治主導で決まった延期は「アスリートファースト」どころか、アスリートやオリンピック、スポーツを無視した暴挙だと語る。

(文=小林信也、写真=Getty Images)

満面の笑みで延期を喜ぶ気にはとてもなれない

東京オリンピック2020の延期が正式に発表された。国際オリンピック委員会(IOC)トーマス・バッハ会長との電話会議で「来年夏までの延期」を取り付け、安倍晋三首相と森喜朗会長(公益財団法人東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会)は満面の笑みで握手を交わした。安倍首相と小池百合子東京都知事はグータッチで延期の決定を喜び合ったとも伝えられた。

この報道には違和感を覚えずにいられなかった。同じように感じた方も多いのではないか。なぜ、満面の笑みやグータッチが腑に落ちないのか。

延期を無邪気に喜ぶ神経が、オリンピックを目指す当事者やスポーツを愛する者たちの感性とは大きな隔たりがあるからだろう。

延期決定後、私は取材を続ける競技の代表監督、代表選手、コーチ、所属チーム関係者ら数名に話を聞いた。安倍首相や森会長のように「よかった!」と大喜びしている人は誰もいなかった。思わずグータッチをした、という選手にはまだ出会っていない。

中止が回避されたことに安堵する、といった感想もなくはないが、まずは今年7月24日の開幕が正式に取り消された喪失感、空虚さに襲われているのが実際のところだ。

ちょうど盛岡で強化合宿中だった水球男子日本代表の大本洋嗣監督は、

「朝から長い距離を泳ぎ込む練習の予定でしたが、試合形式に切り替えて、午後の練習もオフにしました」と教えてくれた。

「時間がもらえたことを前向きに捉えようと思いますが、海外遠征がこれまでどおりできるとも思えないので、練習環境をどう整えるか、これから相談です」

海外がダメならナショナルトレーニングセンターがあるだろう、と思うかもしれない。だが実情は違う。水球日本代表は競泳の日本代表とプールを共用しているため、プールを全面に使ったトレーニングは、早朝や夜の時間にしかできない。最適な時間帯に、理想通りの練習ができる環境はない。

政治家たちは延期を喜び、自分たちの手柄のように喧伝するが、選手や代表チームはむしろ混乱の中に落とされ、光が見えなくなっている。そこをすぐに解消する意識も行動もなく、平気で「アスリートファースト」などと叫ぶ政治家たちに唖然とする。

ベテラン選手は、人生設計の見直しにも直面する。結婚したばかりの新妻との別居生活を決意し、主に海外での強化合宿を受け入れてきた選手もいる。あと1年、家族と別れて暮らすのか。家族の理解は得られるのか。競技引退後の新しい道への転身も1年延ばすのか、オリンピックを諦めるのか……。すぐに決断をしなければならない。

政治主導で電撃的に決まった延期

延期を決めた電話会議の写真を見ると、その場にいたのは、安倍首相、森会長、橋本聖子五輪担当大臣、菅官義偉内閣官房長官、小池百合子東京都知事、組織委員会の武藤敏郎事務総長らだった。残念ながら、日本のオリンピック委員会(JOC)の山下泰裕会長の姿はなかった。

スポーツ庁の鈴木大地長官などはこのところ一切登場せず、ほとんど蚊帳の外。これを見ても、日本のスポーツ界に主体性はなく、完全に政治に利用され、依存している実態が見て取れる。

スピードスケート、自転車競技の選手として冬季・夏季両方のオリンピックに出場している橋本大臣は、まさにオリンピックの申し子であり、本来なら彼女がスポーツ人を代表して現在の立場にいることは誇らしいことのはずだ。しかし、すっかり政治権力の歯車になった橋本大臣の発言にはスポーツ人の心の叫びを感じない。

山下泰裕会長にしても同様だ。政財界が用意した仕組みや思惑に従う発言に終始し、スポーツ側に両足を置いているとは感じられない。

山口香JOC理事が延期を提言したとき、まるで党議党則を最優先する政治家の如く山口理事を叱責した。この発言で山下会長の姿勢に驚き、失望したスポーツファンは少なくないだろう。

「この状況で予定通りの実施は無理だ」

と言い出したのは、IOCや組織委員会より選手たちの方だ。それなのに、あくまで「予定どおりの実施」と、IOCも組織委員会も安倍首相も言い続けた。それでいながら、いざ延期を決める過程においては、選手どころかJOC会長さえ不在の中ですべてを決定した。これほどアスリート、スポーツを無視した暴挙はあるだろうか。

「中止より延期がいいに決まっている。それは選手のためでもある」と勝手に決めつけているが、それはあくまで方便で、安倍首相や森会長にとって中止は困る、延期してでも実施したかったという政治的、経済的事情があふれ出て見える。スポーツの本質や意義よりも、政治とお金の都合が最優先された。

私は、延期でなく中止すべきだった、と強く主張したいのではない。

延期か中止か、決める段階でなぜもっと選手や現場の声を聞こうとしなかったのかを問いかけている。中には選手を思いやる発言ももちろんあったが、見る都合、自分の都合だけでこの問題を論じる人がほとんどだ。

かつてオリンピックはスポーツの魅力を伝える「平和の祭典」だった

「来年7月23日に開幕」と決まり、解決ムードがみなぎっているが、実は何も解決していない。

会場の確保、追加費用の調達など、すでに多くの問題が語られているが、この問題の核心はオリンピックそのものの存在意義に関わっている。

オリンピックが「アマチュアスポーツの祭典」だった時代を経験している世代には、オリンピックの原点である「平和の祭典」という最大の目的と存在意義はごく自然と身体にしみこんでいる。

1964年の東京オリンピックは、さまざまな意味で衝撃的だった。なにしろ日本にあれだけ多くの外国人が集まることが史上初めてではなかったか。しかも、彼らは開会式の入場行進のとき、明るい笑顔で輝き、型にはまった行動を強いられがちだった日本人にカルチャー・ショックを与えた。それだけではない。明るいが、どの国の選手も礼儀正しく、背筋がすっと伸び、隊列も美しく整然としていた。

明るさや笑顔ばかりが強調されるが、同時にスポーツ選手の規律正しさ、清々しさが日本中を魅了した。1964年の東京大会は、世界のスポーツとの衝撃的な出会いを日本人にもたらした。

スポーツの素晴らしさが無言のうちに伝わった。誰もがスポーツを好きになっただからこそ、その後急速にスポーツの普及振興が進んだ。

ところが、1984年のロサンゼルス大会以後は一気に商業化やプロ化が加速した。その年に生まれた人が36歳。当時10歳だった人が46歳だから、「若い人は」とは言えないが、1984年以降のオリンピックしか知らない世代は、「世界最強を決める総合スポーツイベント」「プロたちのエンターテインメント」としてオリンピックを捉え、「平和の祭典」「アマチュアリズム」を心に宿した世代が持っていたオリンピックへの思いとは隔世の感がある。

「4年に1度」がオリンピックに特別な力を与えた

敬愛する元JOC参与でスポーツコンサルタントの春日良一さんがテレビでオリンピックの理念を熱く語ると、「理念はもういいよ」と、芸人さんに茶化される。

多くの人にとってオリンピックに理念など必要はない。巨額の報酬や人生の一攫千金を狙う野心家たちの一発勝負。そこに刹那と興奮を見ている。

オリンピックだけでなく、1984年以降、急速にあらゆる競技でプロ化、ビジネス化が進んだ。それ以前は多くの競技選手がアマチュアだった。スポーツが生活の糧になったいま、一般の人々のスポーツ観や勝利者たちを見る目が変わるのは当然のことだろう。

だが、あえて問いかけよう。

なぜオリンピックは、それほどまでに、世界の人々にとって、ただのスポーツイベントではなく、特別な祭典になりえたのか?

1896年に始まったとされる近代オリンピックは、「4年に1度、世界のスポーツ仲間が集まる特別な大会」だった。当時は決められた開催場所に行くだけでも長い日数が必要だった。

交通網が発達し、世界規模の移動が容易になってからも、「4年に1度」の伝統は固く維持された。

世界最強の選手が必ずしてもオリンピックで戴冠を受けるわけではない。「4年に1度」の巡り合わせによって、オリンピックの勝利の女神に愛された選手は格別な伝説に彩られた。「4年に1度」の伝統と神話性が、オリンピックを特別なものにしてきたのだ。

東京2020の開催にあたっても、「レガシー(遺産)」という言葉がキーワードとして使われた。それは、オリンピックが単なるスポーツイベントでなく、人類の歴史において重要な役割を果たす文化的な財産だという認識があるからではなかったか。

“特例”で正規の手続きを無視したバッハ会長とIOC

ところが今回、オリンピックの基本中の基本である「4年に1度」の鉄則を、安倍首相と森会長、小池都知事は、自分たちの都合のために崩壊させた。100年以上も堅持された「4年に1度」の伝統をいとも簡単に壊した。そして、大喜びしている。スポーツや世界的な文化に対する配慮が少しも感じられないことに茫然とする。

延期せざるをえなかった直接の原因が新型コロナウイルスだとしても、延期は人為的な決断だ。しかも、オリンピックの総本山であるIOCのバッハ会長がこれを受け入れた。オリンピック憲章に存在しない延期を事前に会長の一存で承諾し、直後の理事会で承認させた。

しかし、憲章の改正には総会の3分の2の賛成が必要と定められている。規定をねじ曲げた決定を「オリンピックだから、スポーツだから別にいい」と認めてしまうのは、IOC自らスポーツの価値を貶めてしまうことにならないか。

次元が違うとお叱りを受けるかもしれないが、「戦争はしない」と憲法で定められているのに、「こんな事態だから」と、憲法に定めのない決定を勝手にするようなものだ。

「こんな危機的状況で、オリンピックの延期を議論している場合か?」

という意見が出たって、本当は不思議ではない。なぜなら、いまどの国でも、プロスポーツからアマチュアスポーツまで、すべてのスポーツスケジュールは白紙となり、再開のめどが立っていない。漠然と「1年後」に延期したイベントはあるが、新型コロナウイルスの脅威がある限り、スポーツはその存在を失っている。

各競技、スポーツイベントへの敬意はどこに?

オリンピックを来年に延期することで他競技の大会日程を調整してもらう必要が生じる。「そこのけそこのけオリンピックが通る」と言わんばかりではないか。

安倍首相や森会長、小池知事らはそうした影響に思いを寄せず、ただ自分たちにとって重要なオリンピックの実施と成功だけを念頭に置いているように見える。他者に配慮せず、思いを致さないのは、スポーツマンのイロハのイが欠けている。そのことを本当は、橋本大臣や山下会長が進言すべきだった。いや、結局、勝利至上主義の申し子であり、勝つことに情熱と執念を注いできた英雄である橋本聖子、山下泰裕両元選手には、そんな発想は存在しないのかもしれない。これも、傲慢な勝利者を生み、イジメやパワハラの温床にもなりかねないスポーツ界の悪しき体質を象徴しているのだろうか。

オリンピックに携わるIOCや組織委員会は、他のスポーツ一つひとつに敬意を払い、尊重するのが大原則だ。

すべてのスポーツの上にオリンピックが存在するという現在のやり方は「平和の祭典」にそぐわない。支配的、高圧的なやり方が「平和」を醸成するとは思えない。

オリンピック中止こそあるべき姿では?

現時点で、1年後ならば安心して開ける保証もない。仮に日本が安定した状態を回復できたとしても、爆発的な感染状況にあるイタリアや、今後感染が広がった国々の選手が東京に来られるだろうか? また日本は積極的にそれらの国の選手たちも迎え入れるべきなのか? 今後の情勢はまだまったく予断を許さないのに、なぜオリンピックのスケジュールだけは急いで決められるのか?

私は、延期決定、早々の日程決定の報に接し、言いようのない胸騒ぎと違和感を覚える中で、スポーツ界は、スポーツを愛し、スポーツに携わる者たちはいま何を問い直し、どんな発信や行動をすべきなのか懸命に模索し続けている。

文化は歴史の中から生み出され、世界中で守り育ててきた。その文化遺産の根源も神秘性も無視して、日本の都合で変更を承知させた。本当は政治的な都合で侵していいもの、いけないものがあったはずだ。今回は明らかにその一線を越えてしまった。

スポーツがほとんど通常どおりできない状況に直面する中で、謙虚にオリンピックの中止を決めることこそ、あるべき姿勢ではなかったか。

新型コロナウイルスの猛威の前に、スポーツが無力であることを世界中が知らされた。スポーツにどんな未来がありえるのか? スポーツは世界の平和と、世界の人々の心身の健康にどうしたら寄与・貢献できるのか? それを実現する方法は、あらゆる人気競技の世界最強を決めるために莫大な予算を投下する現在のオリンピックの形ではないはずだ。

<了>

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