帝京長岡・谷口哲朗総監督が語る“中高一貫指導”誕生秘話。「誰でもやっていることだと思っていました」
12月28日、第102回を迎える全国高校サッカー選手権大会が幕を開ける。本年度も高円宮杯 JFA U-18サッカープレミアリーグを制した青森山田(青森県)、この夏にインターハイを制した明秀日立高校(茨城県)を筆頭に全国の強豪高校が名を連ねる。そこで本稿では、長年、高校年代の取材を続けてきた土屋雅史氏の著書『高校サッカー 新時代を戦う監督たち』の抜粋を通して、高校サッカー界の最前線で戦い続ける名将へのインタビューを公開。今回は、2000年から帝京長岡高校(新潟)の監督に就任し(2016年から総監督)、2001年に中高一貫指導を目的とした長岡JYFCを帝京高校時代の同期の西田勝彦氏とともに創設した谷口哲朗総監督の指導哲学をひも解く。
(インタビュー・構成=土屋雅史、写真=松岡健三郎/アフロ)
「クビになっちゃうんじゃないかな」と思うぐらい焦っていた
――帝京長岡に来てから、初めて選手権で全国大会に出たのは5年目ですよね。これは感覚として早かったですか? それとも遅かったですか?
谷口:帝京三高の廣瀬龍さんが就任から3年で全国に出たというのを聞かされていたので、ちょっと焦ってはいました。しかも、帝京と名がつくからにはサッカーと野球に力を入れるということで、自分が来た1年後に帝京の野球部出身の後輩が帝京長岡に招かれたんですけど、野球部は強化から3年目に県で3位になって、北信越大会に行ったんです。
それは焦りましたね。自分より1年遅く来たのに、先に野球に結果を出されたわけで、「これ、クビになっちゃうんじゃないかな……」と思うぐらい焦っていたので、全然早いとは思わなかったです。メチャメチャ嬉しかったのは覚えていますけどね。
あと、古沼先生にも「(当時のサッカー部監督の)佐藤(健一郎)先生に監督として全国に出てもらって、花を持ってもらって、そのあとで監督をするぐらいの感じだぞ。いきなり帝京出身だからって偉そうな顔するんじゃないぞ」と言われていた中で、僕が教員5年目に入る時に佐藤先生が家族の事情ということで、違う高校に転任されたんです。なので、たまたま監督1年目に全国大会に出ることになったんですけど、やっぱり佐藤先生に監督として全国に出ていただけなかったのは心残りでしたね。本当にお世話になりましたし、僕に厳しくされていた選手に対しても、佐藤先生が「頑張れ、頑張れ」と声を掛けられていたのはわかっていましたから。
――選手権で初めて全国に出た次の年から西田(勝彦/元長岡JYFC代表)さんが長岡にいらっしゃったんですよね。
谷口:そうです。とにかく選手を勧誘してもなかなか来てくれなかったですし、長岡にも強いクラブチームがあったんですけど、そこのエース級の子は県外の強豪校に行ったりして、県内に残ったとしても新潟市内の高校に行くと。それこそ長岡にもサッカーの強化拠点校になっている中学があったんですけど、そこからも選手は来てくれなかったので、これはもう自前でチームを作って、そこで選手を育てていくしかないなと。
まず僕が頭を下げて「選手をください」と言うのが向いていないこともあるんですよ(笑)。できれば偉そうにしていたいタイプなので。それだったら時間が掛かっても、自前でチームを作ろうと。そうなった時に丸山先生という、今の技術委員長をされている方が隣の長岡向陵高校にいらっしゃったんですけど、「長岡のサッカーを強くしましょう」「トレセン活動だけじゃ物足りないのでチームを作りましょう」という話をしたんです。やっぱり行政を巻き込む時に、公立校の先生が協力してくださることは大きいですからね。
そんな中で「指導者はオマエの責任で連れて来いよ」となった時に、僕にはそこまで選択肢もなかったわけです。サッカーをやっている知り合いもほとんどいなかったですし、そんな真面目な人生を送ってきていないわけですから(笑)。その頃の西田にはある高校から監督のオファーがあったんですよ。でも、そのタイミングでたまたまウチが選手権で全国に出られたので、西田も「何もないところから始めるのも良いかな」と思ってくれたみたいで、それは西田なりの勘だったと思うんですけど、長岡に来てくれたんですよね。
――西田さんが来てくれることになった時は、メチャメチャ嬉しかったですよね?
谷口:嬉しかったですけど、来ないと言われることも想定していなかったですね。
――来てくれるという確信があったわけですか?
谷口:いやいやいや。たぶん断られたら断られたで次を探すんでしょうけど、それこそウチの女子サッカー部の監督をやっている松野(智樹)も僕の幼馴染みなんです。中学まで一緒にやっていたキーパーで、彼は清風高校に行ったんですけど、腐れ縁なんですよ。
こっちに来てみたらキーパーは教えられないことがわかって、そこで松野に来てもらったりもしたので、「まあ人はお願いすれば聞いてくれるものだ」という勝手な考えがあるのかもしれないですけど(笑)、あまり断られるという想定がないんでしょうね。僕はメチャメチャ人には恵まれています。自分に何かの才能があると思ったことはないですけど、人に恵まれる才能はあると思いますよ。自分では何もできないですけど、やれる人を連れてくることは間違いなくできていますね。
なぜ長岡JYが生まれたのか? その意外な理由
――日本のサッカー界の中でも、高校と実質の下部組織に当たる中学年代のチームが、こういう形でリンクして結果を出すというのは、帝京長岡と長岡JYが先駆けだったと思うんですけど、そういうことを他に先んじて自分たちがやっているという感覚は、特に最初の頃はあったんですか?
谷口:全然なかったです。誰でもやっていることだと思っていました。そもそも明確なモデルがあったわけではなかったですけど、イメージとしては市船とヴィヴァイオの関係があったかもしれないですね。僕はそれを勘違いして捉えていて、ヴィヴァイオが市船の下部組織だと思っていたんです。実際は市船の高校1年生で構成されていたチームなんですけど、当時は「市船みたいにやればいいんだな」という感覚があったように思うんです。だから、新しいものを先駆けとしてやったというよりは、どちらかと言うと真似をした感覚の方が強いですね。
――それは面白いですね。ちょっとした勘違いから、その“高校と下部組織”みたいなイメージが出てきたことになるわけで。
谷口:思い起こせばそうなんですよ。「何で長岡JYを作ったの?」と聞かれれば、「中学生が来てくれないんだから、来てくれる人を育てるしかないでしょ」ということですよね。
――そうなると「長岡JYをこうして行こう」というビジョンがあったわけではなくて、「帝京長岡に来てくれる選手を育てよう」が先だったというわけですね。
谷口:はい。凄くスケールの小さいことを言うと、「帝京長岡を強くするため」に作ったんです(笑)。公には「長岡のサッカーのために」とか「サッカーの土壌を広げるために」とか「コミュニティの創出を」とか言っていましたけど、そもそも帝京長岡を強くしないと何も始まらないので、僕のスタートはそれでした。
ただ、西田は違いましたよ。もちろん僕の考えは受け止めてくれていますけど、彼は浦和というサッカーの街で生まれて、三菱養和に通って、素晴らしい指導者に出会ったことで、「サッカーが強くなればOK」「サッカーで勝てればOK」という考え方はしていないですし、「サッカーが上手くなって、楽しくならなければ、そこにこだわりが出てこないし、文化は生まれない」ぐらいのことを思っているんです。
アイツは数字の計算は苦手なのに(笑)、“文化の計算”は天才的に考えられるヤツなんです。僕の話は相当受け流しているはずですけど、だからと言って聞く気がないわけではないので、「あなたの言っていることと、自分の考え方をどう融合させていこうかなあ」という感じですよね。
サッカーのことについてはもちろん勝ちたいからやっているんですけど、勝負に勝つことだけが勝ちではなくて、「サッカーが上手くなること」「空間を自分が支配すること」「ボールと自分の関係が相手を上回っていること」、こういうことが彼にとっての勝ちで、“何対何の勝ち”というのははただの数字上の勝ちでしかないと思っているはずです。
「勝てればOK」ではない。大事にした“文化の計算”
――そこが面白いなと思うところで、きっと最初に西田さんに声を掛けた時に“文化の計算”ができる人だとは思っていなかったですよね?
谷口:全然思っていないです。親友ですから。
――でも、結果的にここに来たのが西田さんじゃなかったら、帝京長岡も長岡JYもこんな形になっていなかったわけですよね。
谷口:間違いないです。それはたぶんウチのOBが一番よくわかっていて、西田は中学生を見てきて、僕は高校生を見てきている中で、僕はもともと「蹴って走るサッカー」を標榜していたんです。「蹴って走れば勝負になる」と思っていましたし、「細かいことをやっていたら、強い相手に食われて勝てないぞ」という考え方がベースにあって、西田はそれを否定してもいなかったですし、それ
をやるなとも言わなかったですけど、彼にはこういう選手を育てたい、こういうサッカー観を伝えたいというものがあったわけですよね。
それこそ西田は全少で優秀選手になったような選手で、小学生当時から170センチぐらいあって、50メートルも6秒台で走るような無敵の選手だったんです。でも、中学生になった時に「サッカーってそういうものだけじゃないよ。こういうものもあるよ」というサッカーの本質の部分を養和で教えてもらったがゆえに、周りに体が追いつかれてきてもサッカーを続けられたのだと。そこに関して彼は本当に良かったなと思っているんですよね。
だから、別にフィジカルを重視することを否定はしないですけど、やっぱりボールを大事にすることだったり、自分で判断することを大切にして、簡単に相手ボールになるようなクリアをするようなことは絶対に推奨しなかったですよね。その中で彼が育てた選手が少しずつ増えてきて、彼が高校の指導にも携わるようになっていったので、僕が学校から1年間の謹慎処分を受けて、直接指導できなくなった時に彼にすべてを任せて、僕は第三者的に彼の高校生に対する指導を見て、「これがベースになれば、何かを切り拓いていけるな」と思えたんです。
その頃は全国大会にも選手権で2回出て、インターハイで3回出たけれど、一向に勝てないし、勝てる気がしないと。そういう中で小塚(和季)がウチに来てくれた時は違った感じがありましたよね。ようやく光が差し込んだような感覚があって、そういうことを考えると痛い目に遭うのも悪くないかなと(笑)。僕も性格的に自分の席を人に譲るというか、「オマエの方が優れている」というふうに認めることもそんなにないでしょうし、本当に任せられる人はアイツしかいなかったわけで、そういうタイミングだったのかなと思います。
(本記事は東洋館出版社刊の書籍『高校サッカー 新時代を戦う監督たち』より一部転載)
<了>
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[PROFILE]
谷口哲朗(たにぐち・てつろう)
1973年、大阪府生まれ。帝京高校では第70回全国高校サッカー選手権大会の優勝を経験。大阪体育大学卒業後に帝京長岡高校に赴任。サッカー部のコーチとして指導を始め、00年から監督に就任した。同年の第79回全国高校サッカー選手権大会に初出場。01年に中高一貫指導を目的とした『長岡JYFC』を帝京高校時代の同期の西田勝彦とともに創設。16年から総監督に就任した。19年度の第98回高校サッカー選手権大会で新潟県勢初のベスト4に進出、翌年も2年連続ベスト4に輝いた。教え子に酒井宣福(名古屋グランパス)、小塚和季(水原三星ブルーウィングス)、谷内田哲平(京都サンガF.C.)などプロに輩出した選手は多数。
[PROFILE]
土屋雅史(つちや・まさし)
1979年8月18日生まれ。群馬県出身。群馬県立高崎高校3年時には全国総体でベスト8に入り、大会優秀選手に選出。早稲田大学在学中は稲穂キッカーズに所属し、大学同好会日本一も経験している。2003年に株式会社ジェイ・スカイ・スポーツ(現ジェイ・スポーツ)へ入社。学生時代からヘビーな視聴者だった「Foot!」ではAD、ディレクター、プロデューサーとすべてを経験。2021年からフリーランスとして活動中。著書に『蹴球ヒストリア 「サッカーに魅入られた同志たち」の幸せな来歴』(ソル・メディア)がある。
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