なぜサッカーの育成年代には“消えゆく神童”が多いのか――。橋本英郎が語る「努力し続ける才能」を引き出す方法

Opinion
2024.01.19

小学6年生の頃、地元の街クラブのエースストライカーでキャプテンだった橋本英郎は、中学入学と同時に入団したガンバ大阪ジュニアユースで、100人中最下層という人生最大の挫折を経験。入団当初は毎日やめたいと嘆き、練習前には「雨よ降れ」と念じる日々を送った彼は、当時「仰ぎ見る天才」だった稲本潤一ら同期にもまれながら、いかにしてプロ契約を勝ち取り、日本代表に至る選手にまで上り詰めたのか。そこで本稿では、橋本英郎の初著書『1%の才能』の抜粋を通して、“持たざる者”の一つの成功例を紹介することで、特別な能力がなくてもプロとして成功するためヒントを探る。今回は自分に眠る才能を生かすための思考法について。

(文・写真提供=橋本英郎)

短いサイクルで成功体験を得る

ガンバ大阪ジュニアユースには自分より上の“目標候補”には事欠きませんでした。

何番目かに設定した「身近な目標」の選手には、中3までは全然勝てなくて、その子のほうがチーム内でも序列が上でした。しかし、高校に進学し、ユースに上がると紅白戦でその選手をぶち抜いてゴールを決めることができたんです。

当時は彼がセンターバック、私がFWだったので、かなりわかりやすく「壁を乗り越えた」感覚がありました。

負けず嫌いが高じて宣言通り目標を達成できたことは、毎日やめたいと思っていた私にとって大きなモチベーションになりました。かといってやめたい気持ちがなくなったわけではないのですが、「言ってた自分になれた」「前に進めた」感覚がすごくあったんです。

チームの最下層にいる自覚がある中で、自己肯定感を得られたというのは、負けず嫌いと並んで、サッカーを続けるための原動力になりました。

身近なライバルを見つける能力も同じですが、私はこうした目標設定がうまいほうではないかと思います。

絶望的な挫折と、圧倒的な実力差を見せられた中1時点からそれほど意識していたつもりはないのですが、とりあえず目線の「斜め上」くらいの目標を設定するのが得意でした。

周りのうまさに圧倒され続けていた私でしたが、できないことをできるようにするのは好きでした。地味な基礎練習でも、周囲の“できる子”にやり方やコツを聞き、自分なりにポイントをつかめるまで繰り返し練習することは苦になるどころか自分の成長のためにむしろ一生懸命に取り組んでいました。

目標が高すぎると成果を感じにくかったのかもしれませんが、100人中最下層からのスタートだとしっかり自覚していた私は、比較的簡単に自己肯定感を得られる成功体験をショートスパンで定期的に得ることができていました。

スモールステップで「努力し続ける才能」を引き出す

例えば、中1の終わりのこと。あまりに多すぎる選手を整理するため、再びジュニアユース内でのレベル分けテストが行われました。万博記念競技場横の広い土のグラウンドで行われたそのテストには、すでにリタイアした選手の他にも、「お前見たことないんやけど?」という選手も来ていました。日本初のプロサッカーリーグ開幕に向けてJリーグとJクラブへの期待が高まる中、籍だけ置いていた〝幽霊部員〞のような選手もいたようなのです。

ガンバの高いレベルを目の当たりにし、自分の当たり前の基準が大きく上がり、そこで練習を重ねていた私は、中1の終わりのテストでは、籍だけ置いていたような選手たちとははっきり違う実力を身につけていました。

天才たちの背中はまだ遠くかすんでいましたが、「100人中最下層ということはない」そんなレベルにはなっていたのです。

心理学でも、大きな目標を達成するためには目標達成までのステップを細分化し、小さな目標を段階的に達成していくことで大きな目標に近づける「スモールステップ」という考え方があるそうですが、私がやっていたのはまさにこれです。

イナは無理でも、がんばれば手が届きそうなチームメイトはいる。それならば、ひとまずはその選手を超えるために努力する。目標を達成できたら自己肯定感が高まり、さらに次の目標に向かうことができます。

大きすぎたり抽象的だったりする目標をずっと追い続けていると、なかなか成功体験が得られません。努力に対する効果測定ができないというのはつらいものです。目標を達成したとき、人間の脳は「やる気ホルモン」ともいわれるドーパミンを放出して、次の目標に向かうモチベーションを高めてくれるそうです。

「努力し続ける才能」があるとすれば、私の場合は後天的に、無意識のうちにスモールステップを実践することで、「やめたい! やめたい!」とグズる自分をなんとかなだめ、やる気を引き出していたことになります。

神童が必ずしもそのまま成長するとは限らない

サッカーの才能があっても成功できないこともあります。世の中には勉強であれ、スポーツであれ“消えた天才”はたくさんいますし、「十で神童、十五で才子、二十歳過ぎればただの人」という言葉もあるように、才能をそのまま伸ばして成功する人は意外と少ないのかもしれません。

実は私たちの代のガンバ大阪にも、ジュニアユース時点では「稲本以上」の評価を得ていた選手が何人かいました。中でも別格だったのが、U―12日本代表のキャプテンとして全国的にも有名だった藤原将平という選手です。

中1時点で中3の試合に出場し、中3のときには宮本恒靖さんがいたユースの試合に戦力としてプレーしていたような選手で、ガンバでいえば家長昭博選手や宇佐美貴史選手が話題になった“飛び級”の先輩に当たる選手です。

驚いたのは、1994年のJリーグユース選手権決勝でスタメン出場してヴェルディ川崎(現東京ヴェルディ)相手に優勝を決める決勝ゴールをアシストしたことです。中学3年生が高校3年生相手に活躍してしまうわけですから、いま考えてもなかなかのエグさですよね。

私たちにとっては「フジみたいな選手がプロになるんだろうな」という存在でした。フジは、「技術が飛び抜けていた天才」というより、フィジカルとパワーがあって、スピードもズバ抜けていて、技術も確かという選手でしたが、かわいそうだったのは、優勝したJユース選手権の翌日に、本来のチームである私たちの年代の準決勝に出場し、ひざを骨折したことでした。

選手生命を絶たれたわけではありませんでしたが、ケガをする前のトップフォームに戻ることはなく、社会人までプレーを続けましたが結局Jの舞台で彼のプレーを見ることはありませんでした。

彼は身体的にも早熟タイプで、中1で身長が170センチくらいあったのですが、高校を卒業するときも170センチのまま。早くから飛び級で上の学年と同じトレーニングをしていたことももしかしたら疲労の蓄積、成長を阻むことになった可能性もあります。

成長には個人差があり、伸びるタイミングは必ず訪れる

“たられば”をいえば切りがありませんが、フジは性格的にも周囲から慕われるキャプテンシーを持っていた選手で、サッカーの才能はもちろん、プロになるほとんどすべての要素を持っていたと思います。

何が運命を分けて、プロサッカー選手になれるのかは誰にもわかりません。身体も心も、サッカーの技術も、早くから成長し始める早熟タイプもいますし、人より遅れて成長する大器晩成型もいます。重要なのは、成長するタイミングの“そのとき”が来たら、その機を逃さずに、的確な刺激を入れていくことだと思います。

フジの場合はケガもあって結果的にはプロサッカー選手になることはできませんでしたが、明らかに同年代とレベルが見合っていなければ飛び級は有効な手段ですし、早熟な選手をどう育てるかについては、その選手の成長が早い、早熟タイプだということを十分に理解して接する必要があると思います。

小学生年代の大会などで、やたらに背が高い選手、足の速い選手を前線に並べて得点を重ねるチームを見掛けますが、目先の勝利だけに目を向けるのではなく、選手一人ひとりの成長を見つめた場合、早熟選手の本当の適正ポジションはどこなのかということも考えなければいけないと思います。

いま高さを武器にして得点を量産している選手は、中学生になったとき、高校生になったとき、周囲の成長が追いついてきたときにどんな選手になっているのか? もしかしたらその選手の武器は高さではないのかもしれません。自分が指導者になって改めて思うのは、わかりやすく目につく武器ではなく、見えにくい才能、その後も継続的に成長させていける才能を見つけて、それを伸ばしてあげることこそが指導者の役割だということです。

私自身も、高校3年生の初めには172センチ、62キロという身長、体重だったのが、夏には体重が65キロに増量され、明らかに密度の高い身体になったという経験をしました。

小さい選手ではないけど、大きい選手でもなかった自分が、あるときから「ぶつかると痛いねん」とチームメイトに言われるような当たりの強さを手に入れることができていました。実はこれに先駆けて、高校3年になるタイミングで、お風呂上がりに腹筋3種類、腕立て3種類、背筋を30回3セット毎日やり出していたんです。なぜ始めたかはよく覚えていませんが、自分の身体が変わるタイミングで必要な刺激を入れていたからこそ身体の強さという新たな武器を手に入れることができました。

高校3年生、ガンバユースでのキャリアが終盤になっても、相変わらず私は「プロになるのはイナみたいな選手だろうな」と思っていて、自分がトップチームに昇格できるとは思っていませんでした。それでも、「Jリーガーになるために」という努力ではありませんでしたが、とにかく今日より明日、サッカーがうまくなっているための努力は着実に続けることができていました。

(本記事はエクスナレッジ刊の書籍『1%の才能』より一部転載)

<了>

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[PROFILE]
橋本英郎(はしもと・ひでお)
1979年5月21日、大阪府生まれ。ガンバ大阪のアカデミーを経て、1998年にトップ昇格。練習生からプロ契約を勝ち取り、不動のボランチとしてJ1初制覇、アジア制覇などガンバ大阪の黄金期を支えた。その後、2012年にヴィッセル神戸、2015年にセレッソ大阪、2016年にAC 長野パルセイロ、2017年に東京ヴェルディ、2019年にFC今治に移籍してプレーし、2022年おこしやす京都ACに選手兼ヘッドコーチとして加入。現役選手としてプレーしながら、Jリーグ解説者、サッカースクール・チーム運営など幅広く活動。日本代表としては国際A マッチ・15試合に出場。2023年1月に引退を発表。25年間の現役生活に終止符を打った。

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