ラグビーにおけるキャプテンの重要な役割。廣瀬俊朗が語る日本代表回顧、2人の名主将が振り返る苦悩と後悔

Career
2025.06.13

プロ野球選手として長く活躍し、アテネ、北京の両オリンピックで野球日本代表のキャプテンを務めた宮本慎也。東芝ブレイブルーパスでキャプテンとして日本一を経験し、ラグビー日本代表でもキャプテンとしてチームをまとめた廣瀬俊朗。同じ大阪府吹田市出身で、ともに誰もが認めるチームリーダーという共通点を持つ2人。そこで今回は彼らの特別対談が収録された書籍『キャプテンの言葉』の抜粋を通して、チームスポーツにおけるリーダー論、両競技の課題と可能性についてひも解く。今回はラグビー界におけるキャプテン観について。

(文=宮本慎也、廣瀬俊朗 写真=築田純/アフロスポーツ)

ラグビーにおけるキャプテンの役割

宮本:ラグビーでは、監督がいて、選手たちがいて、キャプテンの立ち位置というのは、どこに? 選手のグループの中にいますか。それとも、両者の中間になりますか。 

廣瀬:それはケース・バイ・ケースですね。練習だったら選手の中の一人だし、でも普段のチームをつくるとき、ミーティングとかでは、ちょっと監督寄りというか、スタッフ寄りになるし。それは状況によって、結構変わってきます。もちろん、監督に寄り添うときもありますよ。でも、監督が主導でミーティングをして何かを決めるときもあるので。選手だけでミーティングするときには選手側に寄って、それを監督に伝えたりとか。ちょっと挟まれる感じはありますよね、キャプテンは。

宮本:そこは野球との違いだな。野球ってやっぱり上下の関係なんですよ。師匠と弟子じゃないけど、監督に「教えていただく」という意識が強いんです。

廣瀬:それも宮本さんが言われる「キャプテンはつくらなくていい」ということにつながるんじゃないですかね。やっぱりラグビーではちょっと難しいです。ラグビーにおけるキャプテンの存在って、僕は不可欠だと思いますから。

廣瀬俊朗、日本代表キャプテン就任の経緯

宮本:廣瀬さんが日本代表のキャプテンになったときというのは、どういう経緯で?

廣瀬:2012年にエディー・ジョーンズさんが日本代表のヘッドコーチに就任されて、新しい日本代表がスタートするとき、わざわざ自分が所属していた東芝のグラウンド近くまで会いに来ていただいて、「やってほしい」という打診を受けまして。

宮本:ほぉー。口説かれたんですね。以前にエディー・ジョーンズさんの下でプレーしたことがあったんですか?

廣瀬:日本では東海大学の監督をされたり、サントリーでヘッドコーチをされていたので、直接的な接点はありませんでした。

 ただ、その1年ほど前に、東日本大震災のチャリティーマッチ『日本代表vsトップリーグ選抜』というイベントがあったのですが、この試合でエディーさんがトップリーグ選抜の監督を務め、僕はキャプテンに指名されたんです。そのときに直前合宿もあったりしたので、それから言葉を交わす機会は増えましたね。

宮本:そうした交流の中で廣瀬さんのことを観察して、「(キャプテンに)適任だ」と考えておられたということですね。引き受けると決めたときには、どんなお気持ちで?

廣瀬:やりがいと、もう、ワクワクしかなかったですね(笑)。これからどんな面白いことが起こるんだろう、と。

「スタメンを保証できない選手にキャプテンは任せられない」

宮本:エディーさんは廣瀬キャプテンに、これからスタートするチームの中で、どんな働きをしてもらおうと考えていたんですかね。何か具体的な説明はあったんですか?

廣瀬:それが、あんまりなかったんです。むしろ「このまま行けばいい」くらいの感じでした。「この役割を」とかいうよりも、「こういうチームを一緒になってつくっていこう」というお話でしたから。

 「現状の日本は世界の中ではボトム(下のクラス)にいるから、一緒に日本らしい戦いをして、世界にリスペクトされたい。そして、トップ10カントリーに入っていこう」というような、わりとそういう大きな夢を話したりはしましたけども、その中で「じゃあ、お前はこういうことをやってくれ」という具体的な話はありませんでした。

 それについては、僕はこんな考え方をしているんです。エディーさんというのは、誰かと話をするときに、その話す相手がどんな人物なのか、「対誰」ということを常に考えている人だと思います。ちゃんと「これをやれ」と明確に言わないとやらないタイプの人にはたぶんそういう内容になるだろうし、自分で考えてやるのが好きとか、いろんなアイデアを持ってる人に対しては、そういうふうにビジョンを伝えるだけにしている。そうやって誰に伝えるのかを考えて、言葉を選んだり、手法を変えているんじゃないかな、と。あくまで僕の想像ですけど。

宮本:廣瀬さんには細かく説明をしなくても、これだけ投げておけば自分で理解して何かを構築できるタイプの人だということを、わかっていたということですね。もう全幅の信頼があったんですね。

廣瀬:それは……どうなんでしょうね。でも、チームの発足当初はレギュラーとしてスタートからゲームに出ていたのですが、新しい選手が台頭したり、ポジション争いが激しくなる中で、次第に出場機会が減っていったんです。このままだと今後、レギュラーとして常時出場することは難しいという状況になったとき、エディーさんは「スタメンを保証できない選手にキャプテンは任せられない」と言って、僕をスパッとキャプテンから外しましたからね。

 代わってキャプテンになったのが、リーチマイケル選手です。

何事も前任者があれこれ言い過ぎたらやりにくくなるだけ

宮本:レギュラーじゃないと、キャプテンはダメなんですか?

廣瀬:ダメということはないですが……やっぱりラグビーというスポーツでは、試合中は選手に判断が求められます。フィールド内で誰かがリーダーシップを発揮しないといけないシーンがたくさんあるんですよ。そういうときに、リーチマイケルという、プレーで周りに勇気を与えられるタイプのリーダーがほしかったということだと僕は解釈していました。

 僕はどちらかというと「みんなと仲良くやっていこう」とする、バランス型のタイプなんで、そういう面でもチームを変革したかったんじゃないですかね。もっと厳しさとかタフさみたいなものを求めていた。何かを壊してででもどんどん積極的に動いていこうとする人間、というんでしょうか。それにはマイケルのほうが適性がありますから。どう転ぶかはやってみなきゃわからないですけど、エディーさんはそっちに懸けたんだと思います。

宮本:そしたら、リーチマイケル選手からはいろいろ相談を受けたりしたんじゃないですか。

廣瀬:いや、それはなかったですね。当時の彼はあまりポジティブじゃなかったので、キャプテンを打診されて、「迷っている」とは言ってましたけど。

宮本:それは意外だな。で、どんなアドバイスをされたんですか。

廣瀬:僕もアドバイスはしてないですね。しないほうがいいかなと思って。もう彼のチームなんで、前のキャプテンがああだこうだ言うべきじゃないと思ったんです。向こうから何か聞いてくることがあったら、「あぁー、そうなんや」「どうしたらいいんやろな」みたいな感じで一緒に考えていくような感じでしたね。

宮本:それで正解じゃないですかね。何事も前任者があれこれ言い過ぎたらやりにくくなるだけですから。でも彼のほうから、何かアドバイスを求めているような雰囲気はなかったんですか?

廣瀬:こちらが気を遣わなくても、彼は、自分が求めているときには聞きに来る人なんですよ(笑)。

2人のキャプテンが経験した“真逆のケース”

宮本:正直なところ、廣瀬さんご自身のお気持ちはどうだったんですか? ワールドカップの本番で自分がキャプテンとしてそこにいることをイメージしてやってきたわけじゃないですか。モチベーションが低下したりしませんでしたか。

廣瀬:まあ、落ち込んだのは事実です。いち選手として結果を出す、試合に出るということを最後まで念頭においてやっていましたけど、現実にはそういうチャンスがどんどん少なくなっていく。自分の居場所がなくなっていく感覚もあって、「これはもう、(代表を)辞退したほうがええんちゃうかな」と考えた時期もありました。

宮本:そうなりますよね。それは理解できます。

 じつは僕は、その真逆のケースがあったんです。北京オリンピックのとき、予選から代表に入っていましたけど、レギュラーとして試合に出てはいなかったんです。それでも星野(仙一)監督からは、「成績に関係なく、お前はキャプテンとして連れて行くから」と言われていました。

廣瀬:それはすごいな。それこそ全幅の信頼じゃないですか。

宮本:ありがたいことではあったけども、結果的に期待を裏切ってしまった面もあったんで……。

 結局、北京オリンピックではオールプロで臨みながら、決勝進出を阻まれ、3位決定戦にも敗れての4位ですから。メダルを獲ることもできずに終わったんです。これはキャプテンとしての僕の失敗が大きかったと思っています。チームにはすでに怖い監督がいるのだから、僕はフォロー役に徹していたら良かったんですよ。そこの立ち位置を間違えてしまいましたね。

 北京のとき、僕は38歳で、2歳上のキャッチャー矢野燿大さん(元阪神監督)がチーム最年長。一番下は田中マー君(将大、現巨人)で、その2歳上がダルビッシュ有(現サンディエゴ・パドレス)。みんなまだ20歳そこそこでしたから、上と下の年齢の開きが結構大きかったんです。そしたらもう、この若い選手たちを取り込まなきゃいけないじゃないですか。

廣瀬:確かにその年齢差は大きいですね。

宮本:アジア予選のときは、それでもうまくいったんです。ところが本戦の前になって、ケガ人が続出したりして、チームがなかなかうまく回らなくなって。若い選手たちは、いろいろ不満が溜まっていったと思います。そんな状況の中で、初戦のキューバ戦にダルビッシュが先発したのですが、打たれて負けてしまった。そしたらもう、あっちこっちで不満が噴き出したんですよ。

廣瀬:うわぁー。それは結構な修羅場ですね。

宮本:はい。僕はもう、力ずくで戻さないとしょうがないという発想しかありませんでした。予選のときは、それでうまくいってましたから。でも後々考えたら、監督が十分に怖いんだから、キャプテンまで同じように厳しいことをしてたら、みんなもしんどかったやろうなって思うんですよね。  あれは完全に僕の失敗ですね。もう少し冷静に考えることができていたら、結果は違っていたかもしれません。

リーダーとなったダルビッシュ有投手の存在

廣瀬:宮本さんほどの人でもそういうことがあるんですね。

宮本:気負いもあったと思います。野球の場合、オリンピックって特別なんですよ。

 野球はオリンピック種目に採用されて以来、ずっと大学生と社会人のアマチュア選手が代表としてチームを組んで出場していて、それがアマチュアみんなの目標でもあったんです。時代の流れの中でプロが参加するようになり、プロアマの混成チームを経て、2004年のアテネ大会からオールプロでチームが編成されることになりました。僕はアマチュア野球出身というか、社会人で野球をやってきたので、すごく複雑な気持ちがあったんです。

 代表に選ばれたときにも、「アマチュアの方たちの夢を奪ってしまったのではないか」という、引け目みたいなものを感じていました。だからこそ、アマチュアの選手や関係者の誰が見ても、「素晴らしいチームだ」と思ってもらえるようにしたいという気持ちがすごく強かったですね。そのうえで勝たなきゃいけないという。

 野球の場合は、金メダル以外は敗北ですから。だからアテネも北京も、僕が出場したオリンピックは2大会とも敗北でした。

廣瀬:そういう経緯をあらためてお聞きすると、やっぱりレギュラーかどうかに関係なく、キャプテンの重責を担えるのは宮本さんしかいなかったんじゃないですか。

宮本:僕も今、よく講演なんかでお話しさせてもらっていますけど、上に立つ人って、やっぱり全体の流れをよく見ておかないといけないんですね。こう流れたときにはこういうふうにする、流れがこう変わったらこう対応する、というような柔軟さがないと。「自分はこうだ」と一方的にやってしまうと、それがハマればいいけど、ハマらなかったときはもう組織がバラバラになるんで。それは北京オリンピックのときに学んだことでした。

 あれからもう15年ぐらい経ちますけど、当時は起用法に不満を抱いていたダルビッシュが、WBC(ワールド・ベースボール・クラシック)の代表になって、若い選手たちに「こうやって投げるんだぞ」って教えて、「みんなで頑張ろう」ってリーダーをやってるんだから、なんとも面白いものですよね。

 彼もいろんな経験をして、あのときの僕と同じ30代後半になりました。「こんなふうになったんだなぁ」って感慨深かったです。僕なんかはただもうガツガツしてましたけど、今や彼は、若い選手に厳しい物腰で接するんじゃなくて、寄り添ってあげている印象がありますよね。臨機応変というか、もちろん幹があっちこっちにブレるのはよくないですけど、やっぱり成功するところにはいろんな道があるっていうのを、そういうところからも勉強させてもらっています。

(本記事は東洋館出版社刊の書籍『キャプテンの言葉』から一部転載)

※次回連載は6月20日(金)掲載予定

【第1回連載】当時のPL学園野球部はケンカの強いヤツがキャプテン!?  宮本慎也、廣瀬俊朗が語るチームリーダー論

【第2回連載】「リーダー不在だった」との厳しい言葉も。廣瀬俊朗と宮本慎也が語るキャプテンの重圧と苦悩“自分色でいい”

【第3回連載】野球にキャプテンは不要? 宮本慎也が胸の内明かす「勝たなきゃいけないのはみんなわかってる」

<了>

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[PROFILE]
宮本慎也(みやもと・しんや)
1970年生まれ、大阪府出身。PL学園高校、同志社大学を経て、社会人野球のプリンスホテルに入社。1995年ドラフト2位でヤクルトスワローズに入団。1997年からレギュラーに定着し、1997年、2001年の日本一に貢献。アテネオリンピック野球日本代表(2004年)、北京オリンピック野球日本代表(2008年)ではキャプテンを務めた。2006年WBCではチームのまとめ役として優勝に貢献。2012年に2000本安打と400犠打を達成。ゴールデングラブ賞10回、オールスター出場8度。2013年に43歳で引退。現役引退後は野球解説者として活動。2018年シーズンからは東京ヤクルトスワローズの1軍ヘッドコーチに就任。2019年辞任。その後、NHK解説者、日刊スポーツ評論家の傍ら、学生野球資格を回復し、学生への指導や臨時コーチなどを務める。「解体慎書【宮本慎也公式YouTubeチャンネル】」も随時更新中。著書に『歩 -私の生き方・考え方-』(小学館)、『洞察力――弱者が強者に勝つ70の極意』(ダイヤモンド社)、『意識力』(PHP研究所)などがある。

[PROFILE]
廣瀬俊朗(ひろせ・としあき)
1981年生まれ、大阪府吹田市出身。5歳からラグビーを始め、大阪府立北野高校、慶應義塾大学、東芝ブレイブルーパスでプレー。東芝ではキャプテンとして日本一を達成した。2007年には日本代表選手に選出され、2012年から2年間はキャプテンを務めた。現役引退後、MBAを取得。ラグビーW杯2019では国歌・アンセムを歌い各国の選手とファンをおもてなしする「Scrum Unison」や、TVドラマへの出演など、幅広い活動で大会を盛り上げた。同2019年、株式会社HiRAKU設立。現在は、スポーツの普及だけでなく、教育・食・健康に関する活動や、国内外の地域との共創に重点をおいたプロジェクトにも取り組み、全ての人にひらけた学びや挑戦を支援する場づくりを目指している。2023年2月、神奈川県鎌倉市に発酵食品を取り入れたカフェ『CAFE STAND BLOSSOM~KAMAKURA~』をオープン。著書に『ラグビー知的観戦のすすめ』(KADOKAWA)、『相談される力 誰もに居場所をつくる55の考え』(光文社)、『なんのために勝つのか。ラグビー日本代表を結束させたリーダーシップ論』(小社)などがある。

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