
読売・ラモス瑠偉のラブコールを断った意外な理由。木村和司が“プロの夢”を捨て“王道”選んだ決意
伝説の背番号10が綴る“永遠のサッカー小僧”の肖像――。本稿では木村和司氏の初自叙伝『木村和司自伝 永遠のサッカー小僧』の抜粋を通して、時代の寵児として日本サッカー史を大きく変えたレジェンドの栄光と苦悩の人生を振り返る。今回は明治大学卒業後、日産自動車入りを決めた驚きの舞台裏に迫る。
(文=木村和司、写真=山田真市/アフロ)
印象的だったラモス瑠偉との出会い
大学2年生だった1979年、明治大学サッカー部の一員としてJSLの読売サッカークラブ(現・東京ヴェルディ)との練習試合に出場した。
読売サッカークラブの練習グラウンドがあったよみうりランドを訪れるのは、全国少年サッカー・スポーツ少年団大会で3位に入った大河FCのジュニアリーダーとして、チームに同行した1971年の夏以来、約8年ぶりだった。
試合は読売サッカークラブに力の差を見せつけられて敗れた。直後に細身で、なおかつ長身のブラジル人選手がわしのもとへ近寄ってきた。
「あなた、うまいな。本当にうまいな。いますぐウチに来てよ」
覚えている途中のたどたどしい日本語で話しかけてきたのは、ルイ・ゴンサウヴィス・ラモス・ソブリーニョ。1989年に日本に帰化するラモス瑠偉だった。
ラモスは国立競技場でわしが日本代表として出場したジャパンカップを観戦し、プレーが目立った日本代表のウイングの2人、わしとキン坊(金田喜稔)がまだ大学生だと知らされてちょっとした衝撃を受けたという。さらにチー
ムメイトの与那城ジョージさんや小見幸隆さんに「あの小さくてうまい選手たちを、ウチに引っ張ってきてよ」と興奮しながらまくし立てたという。
そして、たまたま組まれた練習試合後に、わしに直接ラブコールを送ってきた。聞けば来日後はしばらく最終ラインでリベロとしてプレーしていた経験から、相手の逆を突く動きを繰り返していたわしのプレーに、さらに驚いたという。
初対面の相手に対する照れくささもあって、苦笑いしながらやんわりと断ったわしは、その後に原宿で偶然にもラモスと再会した。そのままメキシコ料理店で食事をともにし、カラオケにも興じながら、再び「ウチに来てよ。あなたが来たら、読売は優勝できるよ」と熱く口説かれた。わしは恐縮しながら、やんわりと断りを入れた。
「いやいや、まだ大学が2年残っているので」
プレー面で長くお互いを認め合ってきたラモスとの出会いは、卒業後の所属先を熟慮した過程で、わしに大きな影響を与えている。
大学卒業後の進路の葛藤
わしが広島出身で同郷の日本代表の渡辺正コーチに可愛がられていた関係で、渡辺コーチが現役時代にプレーし、さらに監督も務めた古巣で、福岡県北九州市を活動拠点とする新日鉄(現・日本製鉄)入りするのが決まっているらしい、といった声も幾度となく耳にした。
もちろん東京から北九州市へ、生活の拠点を移す気はなかった。だからといって丸の内御三家と呼ばれ、卒業後も東京から離れない、という条件を満たす三菱重工(現・浦和レッズ)、古河電工(現・ジェフユナイテッド市原・千葉)、そして日立製作所(現・柏レイソル)に入る選択肢ももちあわせていなかった。
アマチュア全盛だった当時のJSL(日本サッカーリーグ)は、午前中に仕事をして、午後にサッカーの練習をする社員選手の形態が取られていた。丸の内御三家も例外ではなかったが、それぞれの会社で仕事に従事するわしの姿がどうしてもイメージできなかった。
サッカーしか取り柄がないわしは、たとえ午前中だけといっても、仕事で会社に貢献できるとは思ってもいなかった。何よりもサッカーだけで飯が食えれば、いつかはプロサッカー選手になれれば、という夢を頭の片隅に抱き続けていた。
その意味でも、将来のプロを目指して1969年に創設され、他の企業チームとは明らかに一線を画す活動を継続。Jリーグの黎明期にはヴェルディ川崎として黄金時代を築いた読売サッカークラブに、わしはいつしか惹かれていった。
読売サッカークラブに傾きかけた卒業後の進路
読売サッカークラブとは、わしが日本代表でデビューした直後の1979年6月に、ちょっとした縁があったと前述した。ラモスから口説かれたときは、恥ずかしさも手伝ってやんわりと断りを入れてしまった。
しかし、わしを認めてくれたという思いもあって、内心では喜んでいた。実は練習試合でラモスのプレーを目の当たりにして、こんな思いを抱いていた。
「こいつとなら面白いサッカーができるかもしれん」
言葉などはいっさい必要なく、サッカーボールだけを介して、以心伝心のコミュニケーションが取れると思えた。同じチームでプレーしていたら、どのようなサッカー人生になっただろうかと、いまでも考えをめぐらせるときがある。
当時の読売サッカークラブにはラモスのほかにも、プレーで共鳴しあえる、と思える選手たちがそろっていた。
サンパウロ州出身の日系二世で、同じく後に日本に帰化し、日本代表入りしてわしとともに戦っている与那城ジョージさんだけではない。すでに実績十分だったひとつ年上の松木安太郎さんに加えて、わしよりも年下ながらJSLの舞台でデビューしていた戸塚哲也や都並敏史は、一緒にプレーした経験がなくても息が合うと思えた存在だった。
松木さんも戸塚も都並も、読売サッカークラブの下部組織で心技体を磨きあげ、トップチームへ昇格するキャリアを歩んでいた。いまでは当たり前のルートだが、大学および高校出身者がほぼ全員を占めていた企業チームとは、ヨーロッパや南米のクラブチームにならっていた点でも、読売サッカークラブは異端児的な存在感を放っていた。
世間が認める大企業か、亜流のクラブチームか
明治大学を卒業したら読売サッカークラブに入って、完全なプロではないものの、サッカーを半ば職業として生きていくセミプロとしてプレーしよう。そうした決心がつきかけた直後にある懸念が頭をもたげてきた。
それはサッカーとはまったく別次元のものであり、それでいて当時のわしにとっては極めて重要な問題だった。
大学から付き合っている祐子と結婚して家庭をもつうえで、両親に「お嬢さんをください」と頭を下げて、許しを得る場面が必ず訪れる。そのときのわしの肩書きが読売サッカークラブだったら、祐子の両親、特に県工(県立広島工業高校)を首席で卒業している同郷の大先輩の父親は、果たして許してくれるだろうか。わしは真剣に考えるようになった。
世の中にサッカーがほとんど浸透していなかった時代において、サッカーのクラブチームという存在を、年配の方々に理解してもらえるにはあまりにもハードルが高かった。かなりの高確率で収入はどうなのかという問題になるだろうし、一家の大黒柱として家族を養っていけるのかと、まず間違いなく聞かれるだろう。
答えに窮する自分の姿を思い描いたわしは、やがてこんな考えを抱くようになった。世間の誰もが認める大企業に所属していれば、祐子の両親も安心してくれるだろうし、まだ若い2人の結婚を許してくれるんじゃないか、と。
すべてを結婚から逆算していった過程で、声をかけてくれたフロントの方々やラモスには本当に申し訳ないが、読売サッカークラブ入りする選択肢は消えかけていった。
そして、ほぼ同じタイミングで声をかけてきたのが日産自動車(現・横浜F・マリノス)だった。
日本サッカー協会のなかでの公然の秘密
日産自動車もまた、わしが新日鉄に入るものだと決めつけ、1981シーズンへ向けて獲得する選手のリストから外していたという。
しかし、当時のサッカー部マネジャーで、後にJリーグで事務局長や広報室長などを務めた佐々木一樹さんが、わしが結婚するために大学を卒業した後も東京に残りたがっている、という情報を聞きつけてから風向きが変わった。
わしが結婚を前提にして祐子と交際しているのは、特に日本サッカー協会のなかでは公然の秘密となっていた。
当時の日本代表はとにかく海外遠征が多かった。まめな性格でもあるわしは遠征先で試合を終えるたびに、祐子の自宅へ必ず国際電話をかけては、わしが出たかどうかも含めて、試合の結果や内容を報告していた。
祐子はボランティアで日本サッカー協会の仕事も手伝っていて、渋谷区内にあった岸記念体育館内の狭い事務局でデスクワークなども担当していた。
ある遠征で試合を終えた代表チームから、まったく連絡が入らないときがあった。いったいどうなっているのかと、協会内で心配する声があがったなかで、すでにわしから連絡を受けていた祐子が、スコアを含めて日本が勝ったと言って周囲を驚かせた。
当然のように「なぜ知っているのか」という話になり、わしとの交際がばれてしまった。おそらく佐々木さんも、その流れで情報をキャッチしたのだろう。そして、日産自動車の加茂周監督が「和司をとりにいくぞ」とさっそく動いたわけだ。
結婚から逆算して決めた日産自動車への入社
佐々木さんから連絡を受けたわしは、加茂さんの行きつけだった六本木のステーキ店へ向かった。加茂監督と佐々木さんに加えてキン坊(金田喜稔)もいた。
1980シーズンのJSL1部でドロ沼の9連敗を喫し、最下位に低迷していた日産自動車は、2部降格が待ったなしという状況にあった。加茂さんから「一緒に日本一のサッカーをやろう」と口説かれ、日産自動車入りしていたルーキーのキン坊も、目標を達成するために「絶対にカズシが必要です」と賛同して同席していた。
加茂さんや佐々木さんによれば、わしは練習嫌いで、なおかつわがままでコントールするのが非常に難しい選手と受け止められていたという。いずれも間違った情報であり、単なるサッカー好きの悪ガキなのにと思いながら、日をあらためて横浜の高級寿司店でも会った。同席したのは佐々木さんだけで、キン坊はいなかった。
わしはプロサッカー選手になりたい、という夢をその場で伝えた。加茂さんは「いま現在の日産自動車では無理だ」と断りを入れながら、こう語ってくれた。
「将来的には日本のサッカーはプロにしていかなければいけない。プロリーグができるかどうかはわからないが、会社と話をして、希望する選手はプロにしていこうと考えている」
いまとなっては、うまく丸め込まれたと思っている。それでも、加茂さんの話を聞いたわしは「日産自動車で一緒にやっていきたい」と答えたと記憶している。
実は加茂さんもお酒がめっぽう強く、寿司をつまみながら、わしは気がついたら酔っ払っていた。恥ずかしい話だが、ゆえに記憶している、としか言えない。
ヤンマーディーゼル(現・セレッソ大阪)のコーチを務めていた1974年に、加茂さんは日本サッカー界で初めてのプロ監督として日産自動車と契約。創部されたばかりのサッカー部を、就任からわずか5年で神奈川県社会人リーグからJSL1部へ昇格させていた。
もっとも、先述したように、1980シーズンは成績が低迷し、最終的には2部へ降格している。しかし、わしはまったくかまわなかった。
加茂さんのもとで日産自動車を強くしたいなどと、偉そうに言った記憶もない。プロ監督の加茂さんに聞かされた「プロ」の二文字に魅せられた。大雑把に見えて実は繊細で、細かい気づかいも忘れない加茂さんの性格にも惹かれていたのかもしれない。
同時に大企業の日産自動車に入れば祐子の両親も安心して、わしとの結婚を許してくれるだろうと考えていた。むしろこちらのほうが、心が大きく傾いていた読売サッカークラブから一転して、日産自動車入りを決めた最大の理由だった。
祐子によれば、わしが読売サッカークラブでプレーしようとも、両親はまったく気にしていなかったという。いまとなっては取り越し苦労だったかもしれないが、それでも当時のわしにとっては人生がかかった大問題だった。結婚だけを考えて卒業後の進路を決めたのもわしらしいと、いまでは思っている。
(本記事は東洋館出版社刊の書籍『木村和司自伝 永遠のサッカー小僧』から一部転載)
※次回連載は8月29日(金)掲載予定
【連載第1回】「我がままに生きろ」恩師の言葉が築いた、“永遠のサッカー小僧”木村和司のサッカー哲学
<了>
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[PROFILE]
木村和司(きむら・かずし)
1958年7月19日生まれ、広島県出身。地元・大河小学校で小学4年生のときにサッカーと出会う。広島県立広島工業高等学校から明治大学を経て、1981年に日産自動車サッカー部(現・横浜F・マリノス)に加入。1986年には日本人初のプロサッカー選手(スペシャル・ライセンス・プレーヤー)として契約を結ぶ。クラブでは日本サッカーリーグ優勝2回、天皇杯優勝6回など、黄金期を支える中心選手として活躍した。日本代表としては、大学時代から選出され、特に1985年のワールドカップ・メキシコ大会最終予選・韓国戦でのフリーキックによるゴールは、今なお語り継がれている。また、国際Aマッチ6試合連続得点という日本代表記録も保持する。日本初のプロサッカーリーグが1993 年に開幕するが、翌1994 年シーズンをもって現役を引退。プロサッカー黎明期を支えた象徴的存在だった。引退後は指導者としても活躍し、2001 年にフットサル日本代表の監督を務め、2010 年から2011 年には横浜F・マリノスの監督に就任。そのほかにも、サッカー解説者やサッカースクールの運営など、多方面で活動を続けた。2020 年には日本サッカー殿堂入りを果たし、その功績が称えられている。
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