「指導者なんて無理」から25年。挫折と成長の40年間。松永成立が明かすGK人生の軌跡

Career
2025.09.25

「自分よりうまい奴はいない」――。大学時代までは“お山の大将”だった。だが日産自動車サッカー部に入った瞬間、その自信は粉々に砕けた。1993年ドーハの悲劇で味わった最大の挫折、そして「指導者なんて無理」と思っていたコーチ業での25年。1980〜90年代にかけて日本代表のゴールを守り続けた守護神であり、正GKからGKコーチへと役割を変えながら長年にわたり横浜F・マリノスを支えた松永成立が、自身のキャリアを赤裸々に語る。

(インタビュー・構成=鈴木智之、撮影=大木雄介)

“お山の大将”から一転、自信をへし折られた日産時代

「日産に入った瞬間、すべてをへし折られました」

松永成立は苦笑いを浮かべながら語った。

大学時代は“お山の大将”だった。愛知学院大学では、総理大臣杯 全日本大学サッカートーナメントの準優勝に貢献。「自分よりうまい奴はいないだろうという感覚でやっていた」と振り返る。

だが1985年、日産自動車サッカー部に加入すると、その自信は一瞬で砕け散った。

「インカレや総理大臣杯でも『まさかお前の大学が決勝に行くとは』『ベスト4に入るとは』と言われるような結果を残していたので、ある程度の自信もプライドもありました。でも日産に入った瞬間にすべてが……。チームのレベルと自分が合っていなかったんです」

当時の日産には木村和司、金田喜稔、水沼貴史を始めとする、錚々たるメンバーが顔を揃えていた。大学ナンバーワンGKであっても、プロの世界に入ればひよっこ同然だった。

「日産に入った時、日本代表のレギュラーが6、7人いました。周りのレベルが高すぎて、いつやめようかとしか考えていませんでした。実際に加茂さん(加茂周監督)に言ったことがあります。『試合に出たくない』って」

松永の苦悩は深刻だった。

「試合が終わって休みの前の日は、必ずどこかへ遊びに行っていました。その時間が一番楽しかった。でも遊びが終わって戻ってくると、次の日は練習があるので、憂鬱で寝られないんです」

日産自動車サッカー部での最初の4年間は「苦しいだけで、何一つ楽しいと思わなかった」時期が続いた。レギュラーに定着していたものの、思うような結果は出ない。日本代表にも呼ばれるが、第一、第二GKがケガをした時の補欠扱い。常に「いつか外されるだろう」という気持ちを抱えていた。

「代表に行っても、何かを得るという思いはなかったですね。日産に入ってから4年、5年が経って、(リーグ戦、カップ戦、天皇杯の)3冠を取って、そこで初めて自分なりの自信ができたんです」

しかし、再び大きな挫折が待っていた。

ドーハの悲劇――30歳で迎えた人生最大の挫折

1993年、ドーハ。松永にとって最後のFIFAワールドカップ挑戦となる舞台で、日本代表は勝てば本戦出場だったアジア地区最終予選・最終戦でイラクと引き分け、ワールドカップ初出場を逃した。

「あの大会は、年齢的に臨める最後のワールドカップだと思っていました。自分の時間も、家族との時間も犠牲にして、いろんな人に迷惑をかけながら、サッカーに集中させてもらった。それなのに、何も恩返しすることができなかった」

松永の表情が曇る。

「『あそこまで行ったんだからすごい』という人もいたけれど、僕からすると、ワールドカップに行ける力があったのに行けなかった。当時を振り返ると、ベクトルが全部自分に向くんですよ。他人のせいにするのは好きじゃないので。あれをやったほうがよかった、これもやったほうがよかったと反省ばかり。サッカーが嫌になったこともありました」

30歳での挫折。そして1995年には監督との衝突により、マリノスを離れることになった。

鳥栖、仙台、京都。移籍で見えた「サッカーの本質」

マリノスを離れた松永は、当時JFLの鳥栖フューチャーズ、同ブランメル仙台(現ベガルタ仙台)、京都パープルサンガ(現京都サンガF.C.)を渡り歩いた。当時は「都落ち」とも言われたが、松永にとっては貴重な経験となった。

「マリノス以外のクラブを見ることができたことは、後々、指導者をやっていく上で、ものすごくいい経験になりました」

当時の移籍先クラブは、現在とは比べ物にならないほど小さな規模だった。練習環境も決して恵まれてはいない。公園の空き地で練習することもあった。

「でも、どこに行ってもサッカーはサッカーなんだなって。クラブの大小は関係なく、このクラブの順位を一つでも上げようという熱意は、どこも一緒なんです。熱意のある人たちがクラブに関わっているのがわかっていたので、全然嫌じゃなかった。逆にそういう時のほうが、純粋にサッカーを楽しめた面もありました」

鳥栖フューチャーズの経営難による解散後にその受け皿となったサガン鳥栖を含め、松永が在籍した3クラブはすべてJ1で戦うまでに成長した。

「自分が在籍したクラブが大きくなっていくのは、うれしいものです。クラブに携わる方々の努力は、素直に評価しなければいけないと思います」

松永にとって、この3クラブは「マリノスと同等に大事なクラブ」だという。

「人を教えるなんて無理」からのスタート

2000年に現役を引退した当初、コーチになることはまったく考えていなかった。

「京都にいる時、若手のゴールキーパーを使う方針になったことで、『試合に出られないのであればやめる』と伝えました。自分の性格上、ベンチにいることは耐えられない。そういう人間がベンチにいるのはチームとしても良くありませんから」

引退翌年の2001年、京都の強化部長からGKコーチの話が舞い込んだ。しかし松永の答えは「無理です」だった。

「これまで我流でやってきたので、人に教えるなんてできないと思っていました。初めは『無理です』と言ったのですが、強化部長が『試しにやってみろ』と言ってくれて」

2001年当時、GKコーチという存在は珍しかった。松永自身、現役を振り返り、GKコーチの助言によって、プレーが劇的に変わった記憶もない。

「基本的に全部自分で責任を持つタイプだったので、人に教えられて、何かを変えることはまったく頭にありませんでした。自分で考えて、自分を信じて責任を取って、背負い込むタイプでした」

観察から始まった指導者への転換

京都でコーチを始めた松永だが、最初は手探りだった。我流でやってきた自分と、理論的な指導を求められる現実とのギャップに悩んだ。

「コーチを始めたけれど、最初は何もわからなくて。何を教えればいいのか、どんな練習をすればいいのか。何も浮かばない。そんな毎日だったんです。寝ても起きても、何も案がない。練習メニューがないわけですよ」

松永は途方に暮れていた。「このままでは、コーチは無理かもな」と感じていたとき、あることを思いついた。それが、選手を徹底的に観ることだった。

「どうしよう、どうしようと思っていたときに『俺は誰を教えるんだろう。目の前にいる選手たちだよな』と立ち返ったんです。そこで彼らの動きを観続けました。この場面では、どんな判断で、どんな動きをするのかなって」

松永はGKの動きを徹底的に観察し続けた。

「そこからいろんなことが見えてくるんだけれど、整理するところまではいかないわけです。今であれば、シュートストップ、クロス、ビルドアップ、DFラインの背後のボールへの対応など即座に浮かびますが、当時は知識がないのでわからない」

さらに観察を続けると「何でいまのシュートが入っちゃうんだろう」「何でこのシュートは止められるんだろう」と疑問が湧いてきた。

「ボールに近づくためには、当然ですが足を動かさなければいけない。『そうか、まずは下半身に注目して観てみよう』。そうやって、少しずつポイントがわかってきたんです」

試行錯誤の中で、松永独自の観察眼が磨かれていく。

「例えばサイドステップにしても、この選手はバタバタしているな、この選手はスムーズだなとわかってくる。そこで違いを自分なりに考えて考えて考えて、最後の最後にトレーナーやフィジカルコーチに聞いて『ああ、そういうことか』って。その繰り返しです」

自分の考えを持つことの重要性

現代はサッカーの情報が溢れている。だからこそ、安易に正解を求めることの危険性もある。松永は若手指導者に向けて、次のようなアドバイスを送る。

「まずは目の前の選手を見てほしい。他人の意見を聞くことがあっても、それを鵜呑みにせず、まずは自分の観点で見てほしい。そこで『こういうふうにサイドステップをしたら早く動けるだろう』『こういう動作をすれば早く倒れるようになるだろう』と、自分なりの考えを持つこと」

その過程で情報を得て比較し、「この部分が違うのか」「こうすれば良いのではないか」と気づく。そしてトレーニングを通じて、改善していく。松永の25年間は、その繰り返しだった。

「自分で一生懸命考えたことって、頭の中に残るんです。最終的にはそれが、その人のオリジナリティになる。『自分は指導者で生きていくんだ』と決めたのなら、そのほうが長く活動できると思います。経験がどんどん蓄積されていくから。時間はかかりますが、長い目で見たら、それが一番の近道だと思います」

25年間現場に立ち続けた松永の言葉には、重みがある。GKコーチ就任当初、何もかも手探りだった。GKの情報は、今とは比べ物にならないほど少なかった。

「自分なりの観点で、自分なりの解決方法が見つかった頃から、コーチとしての仕事が面白くなってきたんです」

現在は「コーチとしては休憩中」だという松永。探究心は衰えることを知らず「63歳になりましたが、コーチとしては成長の過程。指導をアップデートするヒントが欲しい」と話す。

「コーチ業は面白いもので、一つの問題を解決すると、すぐに次の問題が出てくるんです。自分は問題を解決する過程が好きだし、ゴールキーパーも好きなんですよ」

そう話す瞳の奥の火は、消えていないように見えた。

【連載前編】松永成立が語る、辞任後の胸中。横浜F・マリノスと歩んだ40年、GKコーチを辞しても揺るがぬクラブ愛

【連載後編】「日本人GKは世代を超えて実力者揃い」松永成立が語る、和製GKの進化。世界への飽くなき渇望

<了>

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[PROFILE]
松永成立(まつなが・しげたつ)
1962年8月12日生まれ、静岡県出身。元サッカー日本代表。浜名高校、愛知学院大学を経て、1985年に日産自動車サッカー部(現横浜F・マリノス)に加入。横浜マリノスへとチームが名称変更後も不動の守護神として活躍し、1993年のJリーグ開幕戦にも正GKとして出場。その後、1995年より鳥栖フューチャーズ、1997年にブランメル仙台(現ベガルタ仙台)、同年8月に京都パープルサンガ(現京都サンガF.C.)でプレー。2000年に現役引退。日本代表には1987年に初選出。日本の守護神としてダイナスティカップ、アジアカップ優勝に貢献。1993年のFIFAワールドカップ予選、最終予選ベスト11に選出。現役引退後、2001年に京都パープルサンガのGKコーチに就任。2007年からは横浜F・マリノスでGKコーチを19年間にわたって務め、2025年5月30日に辞任を発表。

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