「マラドーナの死をもって、サッカーは一度死ぬ」アルゼンチンに“憑かれた”男の喪失と欠落
「マラドーナ死す」のニュースは日本でも大きな驚きと多くの悲しみの声を呼んだ。サッカー界の“神様”として知られるディエゴ・マラドーナ氏が11月25日に亡くなったことを受け、アルゼンチン政府は3日間全土で喪に服すことを発表。永遠のライバル・ブラジル、その存在が神格化されているイタリア・ナポリ、スペイン・バルセロナなど世界各地にも衝撃が走った。アルゼンチン人にとって、サッカー界にとって、マラドーナとはどのような存在だったのか? なぜ彼は「神」と呼ばれるのか? 3年間アルゼンチンの監督養成学校でサッカーを学び、マラドーナが監督を務める街で生活し、つい1週間前に帰国した河内一馬氏が、遠い日本の地から「ディエゴの死」に思いを馳せる。
(文=河内一馬、写真=Getty Images)
「ディエゴが死んだ」アルゼンチンからのメッセージ
夜中の1時、アルゼンチンの友人から「起きてるか?」とだけ書かれたメッセージが、僕の携帯のもとに届いていた。朝目を覚まして、なにかしら嫌な予感を抱えながら返事をするとすぐに、「ディエゴが死んだ」と、メッセージが返ってきた。誰かの、それも、肉親でも友人でもない誰かの「死」に、こんなにも心が揺れ動くことを、僕は知らなかった。
僕がアルゼンチンで住んでいた「ラ・プラタ」という街に彼がやってきたのは、去年の夏の終わり頃だったと思う。この街にあるサッカークラブ「ヒムナシア」の監督に、あのディエゴ・マラドーナが就任するというニュースが流れたとき、街はにわかに騒がしくなった。友達と話せばその話題になり、指導者学校に行けば彼のことについて議論になったし、テレビをつければ見慣れたエンブレムが映っていて、文字通りの大騒ぎだった。公式のリリースが行われてからは、ラ・プラタは、完全に「マラドーナの街」となり、家から5分のスタジアムの周りには、マラドーナの顔が壁に描かれ、至る所にポスターが貼られ、時折「ディエゴー! ディエゴー!」と歌う声が聞こえてくるようになった。
「想像以上だな」、僕はそう思った。アルゼンチン人にとってのマラドーナは多分、僕が想像していたよりもはるかに大きな存在で、それを知ることができただけでも、サッカーを学びにアルゼンチンに来たかいがあったなと、そう感じたのを覚えている。アルゼンチンで過ごす、2年目の夏だった。
比類なきディエゴ・アルマンド・マラドーナ
ディエゴ・アルマンド・マラドーナ。いわずもがな、偉大なフットボール選手である。アルゼンチンという国から生まれた数多くの名選手たちは、誰一人として彼と比べられることを許されていない。「マラドーナ? メッシ?」という質問は、彼らが日本人の僕を見ると必ずしてくる質問だったけど、僕より上の世代の答えは「マラドーナ」一択で、「メッシ」と答える若者たちには、何かこう、“あの”マラドーナと比べられることに対する同情の意が込められているような、そんな気すらした。
この国にとってのマラドーナは、リオネル・メッシとも、フアン・ロマン・リケルメとも、誰とも、「まったくレベルが違う」というのが、3年間だけアルゼンチンに住んだ、一人の日本人が出した結論である。しかしなぜ、こんなにもこの国の人々は、この男のことを愛するのだろうか。初めてマラドーナをスタジアムで見ることができたとき、これまで感じたことのない「何か」を全身で受け止めた僕は、そのことを考えずにはいられなかった。人々は、選手に送る声援の、その3倍のエネルギーで「ディエゴ」の名前を叫ぶ。
彼の過去は知っている。ピッチで成し遂げたことも、ドラッグに溺れたことも、全部知っている。調べればわかることはすべて知っているけれど、僕はたぶん、彼のことを知る、つまり“見る”ことは、一生かなわないのだと思う。「日本人は、アルゼンチン人じゃない」。そんな当たり前のことを目の前に突きつけられるのは、いつだってマラドーナがきっかけで、サッカーというたった一つの「何か」に取りつかれて、一人遠くアルゼンチンに渡った日本人にとって、それはできれば顔を背けていたい事実だった。
「日本人の僕は、この人たちと同じサッカーの世界で、勝ちたいと口にしている」。そのことに対するえたいの知れない絶望と、滑稽さは、今後も消えることがないと思う。僕はそれと、ちゃんと向き合っていきたいと思っている。世の中には、言葉にしないほうが美しいものがあって、アルゼンチン人がマラドーナに抱いている「何か」もきっと、そのうちの一つなのだろうと思う。決して言葉にせず、ある人々だけがそれを“感じ”、心の奥深くで共有する。それこそがマラドーナなのだ。「神」という言葉は、それを補うために人々が用意した、最大の敬意である。
マラドーナの死をもって、サッカーは一度死ぬ
ソーシャルメディアを見ると、昨日の一報から今日まで、画面はマラドーナ一色で埋め尽くされている。彼の遺体を見送ろうと信じられない数の人々が集まっているのを見て、彼が所属したボカ(・ジュニオールズ)のサポーターと、そのライバルであるリーベル(・プレート)のサポーターが涙を流しながら抱き合っている映像を見て、アルゼンチンにあるすべてのスタジアムが“10”時に照らされている様子を見て、僕はなぜだか、涙が止まらないのだ。昔から、何か大きなことを終えるとプレッシャーから解放されて号泣する癖を持っている自分が、アルゼンチンから帰国するときに一滴も涙を流さなかったのは、それがまだ終わっていないのだということを示していたのかもしれない。帰国してちょうど1週間、彼の死をもって、僕のアルゼンチンでの戦いも終わりを告げた。
マラドーナの死と、自分のアルゼンチンでの日々を重ね、その終末が同時に訪れたことに対する涙は、もうしばらく止みそうにない。きっと、いま世界中で、僕と同じように自らの人生と彼の死を重ね合わせ、涙を流している人々がたくさんいることだろう。マラドーナは、誰かの人生そのものであり、その誰かが愛するサッカーそのものであった。彼はサッカーの美しさ、醜さ、汚さ、愛、友情、狂気、幸福、歓喜、情熱、それらすべてを体現する、世界でたった一人の人間だった。最初で最後の、サッカー選手だった。
マラドーナの死をもって、サッカーは一度死ぬ。
彼が何度も復活したように、サッカーもまたすぐによみがえって、人々に幸福と絶望を与え続けるだろう。僕は彼が死したとき、現地で友人たちと共に打ちひしがれることがかなわなかったことに対する寂しさを抱えて、前に進んでいきたいと思う。いつか「僕は日本人だけど、ディエゴの国、アルゼンチンでサッカーを学んだんだ」と胸を張れる日がくるまで、僕はこのスポーツを、一生愛していく。
ありがとう、ディエゴ。安らかに。
<了>
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