選手育成に「1万時間神話」は有効か? ドイツが取り組む「一流選手を育む法則」とは
日本でもよく耳にする「1万時間の法則」。スポーツにおいても、真のプロフェッショナルを目指すためにはそれだけの努力が必要だと認識する上で有効な考え方であるようにも思える。しかし当然、1万時間必死にトレーニングしたからといって、それが一流になれる保証にはならない。とにかく多くの時間その分野と向き合わなければいけないと無理をすることにつながるのは危険だ。では本当の意味でのサッカーにおける「トップレベルの人材が育まれる法則」とはどのようなものだろうか? ドイツの大学教授、育成指導者、元ドイツ代表選手、さまざまな知見と経験を持つ専門家たちに話を伺った。
(文=中野吉之伴、写真=Getty Images)
1万時間トレーニングすればプロになれる?
「1万時間の法則」というのを聞いたことがあるだろうか。
心理学者アンダース・エリクソン教授が行った研究がベースとなっており、マルコム・グラッドウェル氏が著書の中で紹介している。将来的な成功に導くための法則の一つとして、世界中で注目を集めた。
もともとこの法則はエリクソンの研究チームがバイオリニストを対象に調べていたところ、バイオリンを専攻している学生と国際的な活躍をしているバイオリニストや交響楽団のバイオリニストには大きな違いを見つけたことがきっかけで生まれたとされている。プロとして活躍しているバイオリニストたちは、20歳になるまでに1万時間以上の練習時間を積み重ねていた。そこから「ある分野でトップレベルの実力を身につけるためには、1万時間の練習・努力・学習が必要だ」という法則として発表されるようになった。
具体的な数字は目標設定として定めやすい。だから「どうすれば1万時間練習に取り組むことができるか」という話で考えられがちだ。そして一流として成功を遂げた選手は間違いなく相応の時間その分野に取り組んでもいる。
ただこの法則自体がどんな特徴や才能を持っている人間でも、それぞれの分野で十分な時間トレーニングを積んでいけば、プロになることができることの証明となっているわけではない。逆に1万時間、あるいはそれ以上の練習時間を費やした選手、演者、演奏者、みんながみんなプロになっているわけでもない。
実際にエリクソンの法則は、レッスンに1万時間を費やしても成果が出なかった人たちについてのデータが不足していたり、練習量以外のポイントについては考慮されていなかったりといった点が批判対象とされてきている。
夢中になってやりたい環境を整えることが大切
サッカー界で見ても、「世紀のタレント」「10年に一人の天才」「〇〇のメッシ」と呼ばれる選手が世界中で次々出てくるが、彼らがみな必ずしも練習量で他を凌駕しているわけではない。一方でそうした将来性、資質の高さを絶賛されながら、プロ選手として活躍できた選手と、人知れず消えていった選手がいる。才能も必要だし、練習や試合に費やす時間も必要だろう。だがそうすることで将来が約束されるわけでもないわけだ。
カイザースラウテルン大学教授のアルネ・ギューリッヒはタレント発展のエキスパートとして国内外問わず高い評価を受けている。そんなギューリッヒは「早い段階でのタレントを見分ける方法はない。11歳の才能がプロ選手になれるかどうかをわかるのか? 不可能だと言わざるを得ない。学術的な見解はない」と明言していた。誰がどんな成長を遂げ、どのように羽ばたくのかは予見することができない。
それこそ才能があったかもしれないのに、「1万時間」サッカーと向き合おうと無理をしてつぶれてしまった選手がいれば、「1万時間」向き合おうとする前に嫌になってサッカーから離れてしまうことだってある。
「だからこそ大事なのは才能豊富な子どもたちがどんどん育っていけるようにタレントプールを可能な限り大きくすることだ。そして誰の下で、どのようにトレーニングを積むのかという質の部分を大切にすることがやはり欠かせない」
そう強調するのはSCフライブルク育成指導者主任のマルティン・シュバルツァーだ。子どものころからどれくらいの時間サッカーに注ぐべきかという議論がされるべきではない。そうではなく、彼らが夢中になってサッカーをやりたい環境を整えることが大切なのだ。
「子ども時代を思い出してほしい。毎日学校から帰ったら外で遊び回っていたんじゃないかな? それこそ日が暮れるまでグラウンドでボールを蹴っていた。疲れたら休む。休んだらまた遊ぶ。家に帰ってぐっすり寝たらまた元気になれる。それが子どもたちにとって普通なんだよ。そうして遊んでいる時こそが一番学んだ時間じゃないかな?」
シュバルツァーはそう述懐していた。友達と一緒に自らの意思でサッカーをしているという実感。それは大人に邪魔されず、自分たちで工夫して、自分たちで駆け引きして、夢中になって取り組んでいた自由な空間があったから。昔のように外遊びをする子どもたちばかりではない。ではそうした空間がいま現場にあるだろうか?
出場時間10分。子どもたちの気持ちを考えると胸が痛い
ドイツサッカー連盟登録選手数は全部で710万人ほど。うちU-19以下の育成選手登録数は約240万人で、そのうち50%以上が4〜12歳までの子どもたちだ。ただU-11、U-13、U-15と上の学年に上がっていくにつれて、どんどんやめていく子どもが増えていく。
理由は簡単だ。サッカーをやりたいのにサッカーができないから。
ドイツではU-10年代からリーグ戦が始まる。U-12〜U-13年代になるとリーグの昇格、降格もある。結果を出したい指導者は勝ちたい気持ちからうまい子ばかりを起用するようになる。不用意なミスをしない子を起用しようとする。
サッカーがしたくて、楽しみにして試合会場に来たのに、出場時間はわずか10分。次こそは出れますようにと祈ってまた試合に向かう。何度もそうしたことが繰り返されたら、いつの日か失望に押しつぶされて、サッカーを離れていってしまう。そうした子どもたちのことを思うと胸が痛くなる。
「先日近くで行われていたFユース(U-8)の大会を見に行ったんだ。そのうちの1チームの監督は大会が始まる前だというのに、先週の試合結果について子どもたちに文句を言っていたんだよ。ありえないと思ったよ。残念だけどそれが現実でもある」
シュバルツァーは悲しそうにそう話していた。ドイツではサッカー連盟を中心にそうした育成現場の環境を変えるために、さまざまな取り組みが行われている。
子どもたちの成長を中心に考え、結果ではなく体験を積み重ねられるようにアプローチする。多様性と運動能力を身につけることをベースにし、将来性を考える。選手が自分で決定し、自主的にプレーできるようにサポートをする。とにかくたくさんのミニゲームができる場を提供する。シュバルツァーは特にゲーム形式の練習を数多く取り入れることの重要さを強調していた。
「パスだけの練習、ドリブルだけの練習、ぜひなくしてほしい。ゴールを置いて、それぞれがたくさんボールタッチできるだけのピッチサイズと人数を調整して、対人ありのゲーム形式ですべてトレーニングを組んでほしい。特にU-10までは絶対にそのほうがいい。私個人としては小学生年代はすべてそのほうがいいと思っている。
約束する。そのほうが子どもたちは間違いなくこれまで以上に成長するよ。子どもたちが体験すべき必要な成功体験すべてが詰まっているんだから。
何万回対面でパス練習をしても、それは試合の中でのパスとは別物なのだ。
子どもたちは閉じられたテントの中にある風船ではダメなんだ。彼らはどこにでも飛んでいける可能性を持っている。紐をほどけば、みんな空へと自由に飛んでいくことができるんだよ」
小さいころから地道な努力をコツコツしていくことを否定しているわけではない。だが、それが彼らの可能性を閉ざしえることを忘れてはならないだろう。
プロ選手になるのことはとてもシンプルなこと
筆者自身にも経験がある。昨季チームで10番を背負っていた子の話だ。SCフライブルクのパートナークラブでもあるフライブルガーFCに移籍してきて2年目。試合会場への車で一緒だったときに、以前所属していたクラブについて尋ねてみたらちょっと顔色を曇らせながら話してくれた。
「うーん、前のクラブでは監督にいつもすごく怒鳴られていたんだ。ちょっと自分のアイデアでプレーしようとするとダメ出しされる。練習はいつも繰り返しの技術練習ばっかり。出場時間も少なくて、メンバーから外されたことがあったから、しばらくサッカーをやめていたんだ。でもまたやりたくなってここのトレーニングに参加させてもらったら、すごく楽しくて。それからはすごくうまくいってるって思うよ」
最後は笑顔でそう話してくれた。U-9、U-10の段階で、「うまい子」「うまくない子」と線引きをされたらたまったものではない。育成の間に大切なのは、彼らがスポーツや音楽や趣味への喜び、やる気、モチベーション、野心をもって育っていくベースを失わさせないことなのだ。
セルフモチベーション、湧き出る野心に情熱。親や指導者のエゴを押しつけられたり、強制されたやる気ではなく、本人がどれだけ渇望しているのかが何より重要だ。
指導者仲間であり、1.FCケルンやレバークーゼンで活躍し、ドイツ代表まで上りつめた元プロサッカー選手ルーカス・シンキビッツもその点を指摘していた。
「僕はサッカーのプロ選手になるのはとてもシンプルなことだと思っているんだ。外からだと、プロ選手になるためにはものすごく自分とハードに向き合わなきゃいけないと思われているかもしれないよね。そうした側面もある。普通に学校生活がある中で自分を律して、友だちと遊ぶこともそこまでできず、トレーニングでは自分のプレーをよりよくするためにさまざまな取り組みを必死にこなしていくことが求められるんだから。
でもそれを『ストイックにやるかどうか』『一生懸命練習しなければならない』と考えている時点で本当は間違っているんだ。だって、自分ができないことをできるようになるために挑戦しているんだよ。だったらそうした挑戦を楽しいと捉えられるかどうか。それを苦しいこととしか受け止められない選手は、残念だけど上を目指すのは難しいんだ」
サッカーがうまくなるためにはサッカーが誰よりも好きだという気持ちが大事というのはよく聞く話だが、だからといって誰よりもサッカーが好きにならなければならないとなると話はおかしなことになる。
自分が大好きなことへいつまでも夢中になる気持ちを失わずに、もっともっとうまくなりたいと向上心が止まらずに、自己分析をしながら、改善点を把握しながら、疲れたりうまくいかないときはちゃんと休みながら、何度も何度もチャレンジを繰り返していったら、結果として1万時間は費やしている。その中からプロとして活躍する人も出てくる。
「1万時間の練習もまったく苦にはならないくらいその分野の魅力を伝えて、夢中にさせることができたら、その分野でトップレベルの人材が育まれる」
そんな法則のほうが素敵ではないだろうか?
<了>
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