
羽生結弦の誇りを懸けた挑戦は続く。酷使した体、溜めたダメージ、それでも闘い続ける理由…
そこに、王者の姿はなかった。演技を終えたリンクの上で、ただ悔しそうにうつむいていた。4年ぶりの王座奪還を期して臨んだ世界選手権で、3位。まさかの結果だった。それでも男は力強く口にする。「絶対うまくなってるんで」、と。
これまでもそうだった。これからも変わらないだろう。自らが目指す高みに向かって、前だけを見ている。羽生結弦の競技人生と誇りを懸けた闘いは、これからも続いていく――。
(文=沢田聡子、写真=Getty Images)
「死ぬ気でやっていた」。出発直前まで挑戦し続けた4回転アクセル
「8分の1、回れば立てますね、間違いなく。ランディングできます」
銅メダルを獲得した世界選手権を戦い終え、フリーの翌日に臨んだ一夜明け会見で4回転アクセルについて問われた羽生結弦は、そう言い切っている。その後に続いた言葉は、前人未到の大技への挑戦に伴う厳しさをうかがわせた。
「ただ、そこまでいくまでにかなり体を酷使して、痛む部分もちょっとずつ出ているっていうか、ダメージは確実にたまっている」
あと45度回れば着氷できるという4回転アクセルに、羽生は世界選手権が行われるスウェーデン・ストックホルムにたつ「3日前ぐらい」まで挑んでいた。3月24日から競技が始まった世界選手権に臨むにあたり、当初羽生は2月の終わりまでに4回転アクセルを1本でも降りられればプログラムに組み込むつもりだった。しかし2月中の着氷はかなわず、出発直前まで挑戦し続けることになる。「かなり死ぬ気でやっていた」と彼は言う。
「もちろん4回転半ずっとではないですけど、2時間アクセルばっかり、っていう練習も結構ありました。平均して(1日に)45分はやっていると思います」
完璧なショートの後で口にした、「へこんでいた」理由
羽生の世界選手権は、完璧なショートプログラムから始まっている。冒頭の4回転サルコウ、続く4回転トウループ―3回転トウループ、後半に跳んだトリプルアクセルには全て加点がつき、全日本選手権では無得点となったものも含めスピンは全てレベル4、演技構成点は5項目のうち4項目で9点台後半のスコアを出している。「こういう時代になっているからこそ、何か皆さんに楽しんでいただけるものを」という思いで創り上げた『Let Me Entertain You』を滑る羽生は、ロックスターのようだった。無観客の大会だが、演技を終えた羽生に対し、関係者は立ち上がって喝采を送っている。羽生は、106.98というスコアで首位発進した。
バーチャルミックスゾーンに現れた羽生は、しかしそこで「全日本の前並みにへこんだこともあった」と口にしている。何に一番へこんだのかと問われると、羽生は「4回転半を結構力を入れてやっていたので、跳び切れなかったのがやっぱり一番つらかった」と答え、「でも」と言葉を継いだ。
「それのおかげで筋力がついたりとか、トレーニングの方法についてもまた新たに考えることがいろいろあったので、ある意味では全日本前よりもステップアップしているのかなというふうに思っています」
「自分にとって今4回転半はかなり大きな壁なので、それに対してどうやって回転数を増やしていくのかとか、どうやってジャンプの高さや滞空時間を延ばしていくのかっていうことを考えたりもしていました」
「4回転半に関しても、すごく近づいてきたなという感じもしますし、それのおかげでいろいろなものが安定してきたり、自分の自信になったりとかもしているので、よかったとは思っています」
羽生を襲った、“ちょっとした”トラブルの数々
「へこんだ」時期からどうやって気持ちを持ち直したのか、という質問への羽生の答えは「特に何もきっかけはなかったですね」というものだった。「気持ちを盛り返して、何とか這いつくばってやってきた」のだという。
「自分としては4回転半をこの試合に入れたかったっていうのが本当の気持ちで、かなりぎりぎりまで粘って練習はしていたんですけれども、最終的に入れることはできなかった」
「ただ、あの苦しかった日々があったからこその今日の出来だったと思いますし、また今のアップやジャンプ、スケートへの考え方だったりしていると思うので、それを大事に、あの時の自分に『よく頑張ったね』って言えるような演技をあさって目指したいと思います」
しかし、ショートから1日置いて行われたフリー当日の羽生は、ウォームアップから少し元気がないように見えた。試合直前に羽生がぜんそくの発作を起こしたという報道もあり、フリーの翌日に行われた一夜明け会見でそのことについて問われた羽生は「ぜんそくの発作自体は、フリーの後にちょっと感じたかな」「終わってみたら『ああ、ちょっと苦しかったかな』と思うぐらい』だと述べている。「ちょっとしたトラブルがちょっとずつ続いて」いたという羽生の、全ての説明に付け加えられている「ちょっと」という言葉を、文字通りに受け取ることはできないだろう。
加えて今大会で羽生が直面したのは、フリー当日に起こったトラブルだけではなかった。地元・仙台を出発する直前に地震に見舞われた羽生は、飛行機の変更を余儀なくされている。ぜんそくの持病があり、新型コロナウイルス感染への恐怖を人一倍抱えるであろう羽生は、ストックホルムへたつ時点から困難に遭遇していたのだ。
本来の姿ではなかったフリー。特に違和感があったのは…
フリーで、羽生は最終滑走者としてリンクに入った。和の曲『天と地と』が流れ、滑り始めた羽生は最初のジャンプである4回転ループに挑むが、着氷でバランスを崩し手を着いてしまう。続く4回転サルコウの着氷でも膝を深く折るかたちになり、手を着く。さらに3本目のジャンプであるトリプルアクセルの着氷でも前傾し、予定していたセカンドジャンプをつけることができなかった。美しいステップシークエンスの後、後半に入って跳んだ4回転トウループ―3回転トウループ、4回転トウループ―シングルオイラー―3回転サルコウでは羽生本来の跳躍を取り戻したかに見えた。しかし、最後のジャンプとなるトリプルアクセルで再び着氷が乱れてコンビネーションにできず、基礎点が少ない繰り返しのジャンプ扱いになる。全日本選手権で見る者を圧倒し魅了した『天と地と』だが、世界選手権での再演は本来の姿ではなかった。
フリーの得点は182.20、総合3位という結果に対し、キスアンドクライを去る一瞬だけ悔しさをのぞかせた羽生は、しかしミックスゾーンでは冷静に応答した。
「全体的に感覚は悪くなかったので、まあ練習でもあまりこういうパターンは出なかったんですけど……そうですね、なんか一気にバランスがどんどん崩れていったなっていう感じは、自分の中ではしました」
羽生らしくなかったフリーのジャンプの中でも特に違和感があったのは、トリプルアクセルだ。いつもは完璧な出来栄えで大きな加点を得るジャンプだが、この演技では2本とも本来の跳躍ではなかった。羽生は「アクセルに関しては、もちろん4回転半やっているっていうのもあるんですけど」と言った後、「まあそれよりも」と言葉を継いだ。
「バランスがどんどん崩れていっている状態の中で、自分の平衡感覚っていうか、最後まで軸をうまく取り切れていなかったのかなっていう感じはしています。ただ、あんまり大きな問題だったとは思ってなくて、ほんのちょっとずつ崩れていただけなので。トレーニングで頑張ってきたことだったりとか、あとは練習で注意してきたことだったりとか、そういったものはできたと思っています」
「自分の心が満足できるか、できないか」。羽生が目指すもの
勝敗に対して淡々としているように見える羽生の態度は、メダリスト会見でも変わらなかった。口にしたのは、4回転アクセルに対する思いだ。
「ここに来るまでに4回転半の練習をたくさんしてきて、体もかなり酷使してきたと思っているので、まずはしっかり休むということも考えてはいますが、早く4回転半の練習をして、誰よりも早く4回転半を公式(の試合)できれいに決める人間になりたいです」
また、この大会がオリンピックシーズン前に行われる最後の世界選手権であることについて問われた際も、羽生は3連覇を果たしたチェンの北京五輪での健闘を願うような発言をしている。
「僕はソチ五輪の時はその前のシーズンの世界選手権で4位、平昌五輪の時はその前の世界選手権で優勝して、平昌に行きました。なので、今シーズンの世界選手権で優勝した彼に幸運があることを、とてもとても祈っています」
そして、一夜明け会見で北京五輪を目指す気持ちについて問われた羽生は「うーん」と少し考えた後、言葉を発している。
「まあもし、僕が4A(4回転アクセル)を今目指している状況の中にオリンピックというものがあれば、それは考えます。ただ、僕にとってやっぱり最終目標はオリンピックの金メダルではなくて、あくまでも4回転半を成功させることが僕にとっての一番の目標なので。またこういう状況下でもあるので、いろいろ世界の情勢を見ながら、また自分の体だったり、いろんなことを考慮しながら考えていきたい」
「4回転半をすごく頑張ってフォーカスして、目標としてやっているのも、結局は自分の心が満足できるか・できないか、というのが多分根本だと思う」と語った羽生は、らしさ全開の名ぜりふを残してもいる。
「確実にうまくなってるんで、羽生結弦。絶対うまくなってるんで」
誰も跳べない大技を手に入れるため、羽生結弦は戦い続ける。
<了>
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