体脂肪28%から9%へ。二競技で“速さ”追い求めた陸上・君嶋愛梨沙が目指す、日本女子初の10秒台
陸上短距離とボブスレーという異なる競技で日本代表を経験した君嶋愛梨沙。個人と団体、二つの世界で“速さ”を追い求めてきた彼女はいま、陸上という原点で新たな記録に挑んでいる。競技人生の中で見つけた「自分軸」と「継続する力」。日本女子初の10秒台を見据える、その歩みと覚悟について語ってもらった。
(インタビュー・構成=松原渓[REAL SPORTS編集部]、写真=アフロ)
体脂肪28%から9%へ、理想のスプリンター像を追って
――2024年の日本選手権で女子100m3連覇を達成しました。走りのスタイルや勝負感覚など、年々研ぎ澄まされている実感はありますか?
君嶋:まず、体を絞ったことが大きいと思います。以前はケガが多く、トップ選手と比べても体づくりが十分ではありませんでした。日本選手権決勝や世界大会に出る選手たちの体格を基準に、自分にとっての理想のスプリンター像を探していきました。
大学院では「100mの記録向上に関するコンディショニング法」というテーマで研究し、自分の体を徹底的に分析しました。体重や体温、食事、練習内容などをすべて記録して、「この食事で体脂肪率が上がる」「このトレーニングでこの筋肉が反応する」といった因果関係を学びました。その積み重ねで3年計画で東京五輪を目指し、2022年に初優勝して以降、3連覇という結果につながったと思います。東京五輪のタイミングにはうまく合わせられませんでしたが、自分の体を知り、「自分軸」を確立できたことが、結果を出せるようになった理由だと感じています。
――大学生の頃は体脂肪率が28%ほどあったそうですね。体を絞ることでどんな変化がありましたか?
君嶋:体脂肪率が9〜10%になり、アスリートとして理想的な体型に近づく中で、記録も安定して伸びました。体脂肪が低いから速いというわけではありませんが、過去のオリンピックや世界陸上で上位に入っている選手を見ると、共通する体のラインや筋肉のバランスがあります。その「理想のスプリンター像」に近づけながら技術を磨いていけば、自分の理想の走りに到達できるというイメージを持って日々取り組んでいます。
――今年6月には大学で「アスリートの自己管理」について講演されました。特に意識している食事管理のポイントは?
君嶋:トップアスリートは「ジャンクフードや甘いものを一切食べない」と思われがちですが、私は「絶対に食べない」とは決めていません。体組成計で毎日体重と体脂肪率を測り、「この食事でこう変化する」「こういうトレーニングをしたら来週はどうなるかな」という感じで、データを積み重ねて、必要に応じて調整します。そうした日頃の継続的なチェックの積み重ねを大切にしています。
――「0か100」ではなく、許容範囲を持って向き合っているんですね。
君嶋:そうですね。甘いものを食べたい時は、「試合の1カ月前から控えよう」と決めたり、ジャンクフードも「ここまではOK」と線を引いたりします。完璧に我慢するより、コントロールして続けるほうが結果的に良いコンディションを保てますし、パフォーマンスが上がって自信にもつながっています。
苦悩の時期がくれた“矢印”と転機
――SNSではトレーニングの様子も前向きに発信されています。メンタル面で意識していることはありますか?
君嶋:実はけっこうネガティブな面もあるんです。昨年のパリ五輪も、9月の世界陸上も出場を逃して落ち込みましたし、他の選手をうらやましく思うこともありました。でも、そういう感情があるからこそ、今の自分があるとも思います。苦しく、耐える時期を経て、どんな状況でも「自分が経験したことを前向きに捉えること」が、道を拓く一歩になると感じられるようになりました。完璧ではなくても、ポジティブなマインドで何事にも向き合うことを大事にしています。
――陸上への向き合い方にも大きな変化がありましたか?
君嶋:そうですね。ここ数年でようやく心の整理がついてきた気がします。ケガをしている期間や結果が出ない時期は、私はどうしても矢印が外に向いてしまうことが多かったです。でも、日本選手権で初優勝した時や、それまでのトレーニングのことを振り返ると、常に自分に矢印を向けて集中していました。だからこそ、今も「自分軸」を忘れないように意識しています。つらい経験があるからこそ成長できる、それは競技を続ける中で何度も実感しています。
――陸上を続けるうえで、転機になったことや、今も原動力になっている出来事はありますか?
君嶋:大学3、4年の時、今のコーチに「10秒台を目指そう」と言われたことが大きな転機でした。当時のタイムは12秒8くらいで、日本選手権の決勝どころか、予選のスタートラインに立てるレベルでもありませんでした。でも、その言葉で「私の可能性を見出してくれているんだな」とハッとして、「できるかもしれない」という前向きな気持ちにさせてもらいました。そこから3年かけて日本選手権で優勝することができました。あの一言が、どんな時も10秒台を目指して努力を続ける原動力になっています。
日本女子初の10秒台、そして初のオリンピックへ
――パリ五輪と世界陸上出場を逃した悔しさを経て、今目指している目標を教えてください。
君嶋:日本女子初の10秒台を目標にしています。そのために、まずは自己ベスト更新と日本記録の更新を目指します。その先に世界選手権やロサンゼルス五輪が見えてくると思います。オリンピックの舞台はまだ経験したことがないので、大きな目標です。女子200mの参加標準記録はここ10年で約0.2〜0.3秒上がり、世界のレベルも年々高くなっています。その中で戦うために、一つずつ課題をクリアしていきたいです。
――所属先である土木管理総合試験所では、どのように競技と仕事を両立していますか?
君嶋:入社当初は週3日ほど出社していましたが、コロナ禍を機に陸上に絞ったこともあり、拠点を山口に移しました。コーチが山口にいることもあり、集中して練習できる環境を整えることができました。現在は週5日、1日4〜5時間ほどトレーニングとケアに取り組んでいます。
選択できることの素晴らしさ。迷いも挑戦の一部
――競技選択に悩む若い選手や保護者にメッセージをいただけますか?
君嶋: まずは「自分で選択できること」自体がとても恵まれていることだと思います。世界には、自分の意思でスポーツを選べない人も多くいます。だからこそ、選べる環境にあることの素晴らしさを感じてもらえたらと思います。団体競技か個人競技かは、本当にやってみないとわからないものだと思います。私は陸上を続けながらボブスレーにも挑戦しましたが、他の競技に挑んだら、違う才能が見つかるかもしれません。逆に「向いていないな」と気づくこともプラスだと思うので。そうやって挑戦する中で増える“引き出し”は、競技だけでなく、学校生活や社会生活にも必ず生きると思います。そのためにも、何でも挑戦できるマインドを持って、まずは「やってみよう」という気持ちを忘れないでほしいです。
――君嶋選手ご自身は今後、挑戦してみたいことはありますか?
君嶋:以前、ボブスレーの活動中にヤマハ発動機さんとのご縁で、女子ラグビーチーム「アザレア・セブン」のトライアウトを受けたことがあります。合格したのですが、陸上との両立を考えて辞退しました。ラグビーも含めて、世界を目指せる可能性を考えて、また違う競技に挑戦してみたい気持ちはあります。ただ、いまは陸上競技を通じて学んだことを次世代に伝えたいという気持ちが大きいです。大学院に進んだのは指導者になるというビジョンがあったからです。また、教員免許を活かして教育の現場で経験を伝えていくことも選択肢の一つです。どんな決断をするかはわかりませんが、その時がきたら、これまで多くの人に支えてもらったように、今度は私が誰かの力になれたらと思っています。
【連載前編】「挑戦せずに向いてないとは言えない」君嶋愛梨沙が語る陸上とボブスレー“二刀流”の原点
<了>
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[PROFILE]
君嶋愛梨沙(きみしま・ありさ)
1995年12月23日生まれ、山口県出身。陸上短距離選手。土木管理総合試験所所属。中学2年生の時に、全国大会の女子200mで当時の中学記録を出して優勝。その後、埼玉栄高校を経て日本体育大学に進学。また、大学時代にトライアウトを受け、ボブスレー日本代表として2016年のヨーロッパカップで優勝。翌年の世界選手権では男女史上初となる7位入賞を果たし、ボブスレーとスケルトンで18、19年と日本一に輝いた。陸上では2022年から24年まで100mで3連覇を達成し、200mでも23、24年と連覇。22年のオレゴン世界選手権で4×100mリレーで日本記録を更新した。自己ベストは100mが11秒36、200mは23秒16。陸上とボブスレーの両方で世界選手権出場を果たしたが、21年以降はボブスレーの活動を休止して陸上に集中。2028年のロサンゼルス五輪で、初のオリンピック出場を目指している。
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