
なぜ新谷仁美はマラソン日本記録に12秒差と迫れたのか。レース直前までケンカ、最悪の雰囲気だった3人の選択
今年1月に行われたヒューストンマラソン、新谷仁美が日本歴代2位の記録で優勝を果たした。日本記録更新に照準を合わせて大会に臨んだが、目標に掲げた結果には12秒届かず。レース後は悔し涙を見せた。それでも革新的なトレーニングを行い、次こそは、との期待を抱かせる意義あるレースだったことは間違いない。献身的に新谷を支えた2人のコーチと、新谷自身の言葉から振り返る、確かな手応えと、明確な課題とは。
(文=守本和宏、写真提供=TWOLAPS)
優勝で流した悔し涙。挑戦を終え、発したその一言
女子マラソン、日本史上2位。1月15日のヒューストンマラソンで新谷仁美は、日本記録とわずか12秒差、2時間19分24秒でフィニッシュした。優勝して悔し涙を流す新谷。30代選手史上初、18年ぶり2時間19分台の快挙も、彼女には「日本記録更新」に届かなければ意味がない。
帰国後、レースの印象を「もう、なんとも思ってないです(笑)。特に目標を達成したわけでもないので」と答えたのも、素直な感想だろう。
ただ、一連のマラソン挑戦を終え、発したその一言にシビれた。
「証明できたことの一つは、自分に合う練習方法が絶対あるということ。例えば長く距離を踏んだら強くなれるのか、スピードの質を上げれば動きにつなげられるのか。この2つだけでなく、たくさん方法がある。自分に合った方法を自身で探る、選手も自分で選ぶことで、結果が出せると証明できたと思います」
誰の人生だって、そうだ。先人の学びや知識は参考になっても、選ぶのは自分自身。結果を出す方法は一つじゃなく、自分に合わなければ継続もできない。仕事も競技も、その根本は同じなのだ。そして、新谷にとってその方法を探すうえで、今回大きな役割を担ったのが、横田真人コーチ、ペースメーカー新田良太郎コーチだった。
「新谷をきちんと見て、新谷に合ったトレーニングを組む」
ヒューストンマラソン出発の1週間前、横田コーチの心境は、シンプルに「怖い」だった。今回のマラソン日本記録更新に向けて選んだ、「距離にこだわらない練習方法(必要以上に長い距離を走らない)」がハマるか不安だったからだ。
「昨年3月に走った東京マラソンの反省を踏まえ、僕らは“いわゆるマラソン練習”をやるのではなく、“自分たちが目指すマラソン練習”をやろうと決めた。本を読んだり、誰かの感情が入っていない客観的な情報はいろいろ勉強していますけど、今まで練習メニューは新谷と僕で相談して決めてきた」
「僕らの原点は“道なき道を行く”。そう考えると、新谷をどう走らせるか。新谷をきちんと見て、新谷に合ったトレーニングを組む考えが、前回は僕の中に欠けていた。それが申し訳なかったから、今回は逆に『新谷の良さを引き出しながらマラソン練習をどう組むか』に立ち返ったんです」
新谷の強みを一番に考えた練習方法。そのコンセプトは「早い動きの中でリズムをつくる」だった。東京マラソン時の設定1km 3分20秒ペース(当然それは恐ろしい速さだが)は、逆に新谷からすれば“遅すぎる”、というか“リズムが悪い”。なら、1 km 3分17~18秒。もっといえば1 km 3分10~15秒で基本をつくるという、より速くする前代未聞の判断をしたのだ。
『マラソン走るなら1000kmぐらいは踏むべき』からの脱却
マラソンを走るには、距離を踏まなければならない。その固定概念から解放された新谷は、気持ちが割り切れたことで、常にフレッシュな状態で練習に臨めた。横田コーチはその経緯を説明する。
「前回の東京マラソンでも『距離にこだわらないようにしよう』と話していましたが、終わってみると、やっぱりとらわれていた。今回はそうじゃなく、練習計画で立ち返るポイントは2つ。動きを崩すことはしない。あとは、継続できなくなるようなことはしない。それを軸に、練習の負荷を上げて走る、“量より質”を追求したんです」
結果的に、練習段階で最も長い距離をレースペースでこなしたのは、12月31日に走った16 kmのみ(実際はレースペースより速かった)。ジョグで最長32 km、5000m×4本などの距離対策は行ったが、今まで抽象的に認識されてきた「マラソン走るなら1000 kmぐらいは踏むべき」「1200 kmも走っとけば安心」といった、距離中心の練習は行わなかった。
横田コーチが新谷を指導するうえで重要視するのは、あくまで「新谷のリズム」だという。
「新谷にも一日のリズムがある。このタイミングでトレーニングして、支度して、休んで、ご飯食べてみたいな。そのリズムを壊さないことは考慮しました。例えば練習場所なら、前回は無理してでも遠くに行って練習したけど、それだと新谷の大事にしていることが崩れる。今回は良いコンディションの中で何ができるか、考えました」
新谷を見て、何が彼女に最適なのかを考え抜いて強化を進めてきた横田コーチ。しかし、本番であるヒューストンマラソンの3日前、事件が起きる。新谷とペースメーカーを務める新田コーチがケンカする最悪の状況に陥ったのだ。
レース3日前のケンカ。プロゆえに「たかが5分」の重要性
日本記録更新に向け、最も重要な役割を担うペースメーカーを任されたのは、新田良太郎コーチだった。3カ月に及ぶ練習で献身的に、新谷と並走してきた新田コーチが、ブチ切れたのはマラソン当日のわずか3日前である。
その日、練習に横田コーチが5分遅刻。直前に入った仕事に対応したためだったが、それを新谷は許せなかった。
「私は試合に近づくにつれて、きっちりしたい派で、試合を想定した日の練習は試合通りに動きたいんです。私も許す心を持つべきなんですけど、試合前最後の刺激だから、決めた時間で絶対にスタートしたかった。たかが5分。でも、私には、たかが5分じゃない。それで横田さんと私がいつもの言い合いになって。それが新田さんに伝染しちゃったんですよね」
新谷と横田コーチの言い争いはよくある光景だが、新田コーチも緊張の限界だった。日本記録挑戦のキーマンという重責、もともと実業団の長距離選手だが、新谷に合わせるにはほぼ自己ベスト並みの走りが必要となる。その中で選手に気を配り走る難しさは、“選手以上に緊張するかもしれない”と新谷自身も理解を示す。
新谷と新田コーチ、お互いギリギリの緊張感の中、練習でリズムが合わない。足がぶつかるなどあり、新谷がそれを指摘する。ついに、新田コーチは声を荒げた。
「じゃあ、自分で行けよ!」
レース直前で、主役の2人がケンカするという、絶望的な状況だった。
ペースメーカー新田コーチのレース前夜の決断
それから、レースまでの3日間。2人は口をきくことなく、目も合わさない。最後の調整も別々で行うなど最悪な雰囲気に。のちに新田コーチはこの状況下で、「このままヒューストンから帰ろうと思った」と話している。
「振り返れば、このマラソン挑戦でピリついたのは何回もありましたけど、余裕がなくなってきてコップが溢れた感じでした。自分に余裕がなくなったのが一番の理由かもしれないですね。普段だったら受け流せることも余裕がなくて……。言われて、沸点上がって言い返すみたいな。とても日本記録を狙うレースの前とは思えない雰囲気でした」
ただ、レース前日の夜、ここまでの挑戦の過程を振り返ることで、自然とその怒りは収まったという。
「本当にそれまでは、レースで引っ張りたくないと思っていたんです。でも、前夜にベッドに入っていろいろ考えて、『自分個人の感情を優先してはダメだ』と思った。このチャレンジに関わってくれた人たちの思いを無駄にしないためにも、“自分がやれることを全力でやらなきゃ”と思って寝たら、気持ちが楽になったんです」
結果、レース前の緊張もあり、2人が再び心を通わせたのはスタート約5分前。不安そうな新谷の背中を、新田コーチが優しく叩き、3日ぶりに会話を交わす。
「大丈夫です。今日は遠慮なく、なんでも言ってください。全力でサポートしますんで」
かくして、新谷の日本記録への挑戦が始まったのである。
「たかが5秒ですけど…」速く走り過ぎてしまった反省
レース内容は、ほぼ狙い通りの展開になった。
「完璧に調子を合わせられた」という新田コーチが、設定タイム通りのペースで引っ張る。序盤から快調に飛ばす新谷。5㎞を16分25秒(1㎞3分17秒ペース)で走り、一時フィニッシュ予想タイムは、2時間18分台が表示された。
ただ、途中のペースが少し早くなってしまったのである。5km~15kmの間で5秒~10秒速くなり、そこで脚力を使ったことが終盤に響いたと、新谷は話す。「たかが5秒ですけど、その5秒を抑えるべきだなと、終わって感じました。それは新田さんのせいではなく、自分自身がコントロールしていれば良かった問題だと思っています」
新田コーチは、その後36kmまで新谷に並走。凸凹があるコースでサインを出したり、左右に動く新谷を感じてポジションも反応。新谷も新田コーチに全幅の信頼をおいて走った。
「スタート前に新田さんが声をかけてくれて、やっぱり新田さんのほうが大人だなって思いました。新田さんに全部任せようと思ったし、実際走っていても本当に心強かった。私は新田さんが抜けた後、1人で走らなきゃいけないところからが勝負。35㎞以降のコースがまたハードになるので、対応しなきゃと考えていました」
途中、Twitterのトレンドにペースメーカーの名前、「#新田さん」が入る陸上界の珍事も発生したこのレース。結果的に新谷は、ギリギリまで日本記録更新の可能性を感じさせたが、コースの難しさ、向かい風、周りに誰もいない状況など環境も重なり、日本記録にわずか12秒届かない記録でフィニッシュ。評価すべき好成績だが、新谷の挑戦は未達成に終わった。
わずか12秒…。それでも予想外だった立ち直りの早さ
ただ、予想外だったのは新谷の立ち直りの早さである。
3カ月全てをかけて、わずか12秒届かなかっただけ。普通なら、その悔しさから簡単に立ち直れるはずがない。しかし、今回の新谷は1時間で「次は9月のベルリンマラソンで記録を狙いたい」と頭を切り替えていた。
それは、課題が明確だったからこそ、だ。
「ゴール後は泣きながらですけど、ずっと私を肯定して支えてくれた、横田さんやスタッフにまずお礼を言いました。徐々に冷静になると、この練習が足らなかったとか、ペースをもう少し自分でコントロールすべきだったとか、それはべルリンまでにカバーできると思えた。だから、そこまで落ち込むことないと思って、切り替えられたんです」
東京マラソン直後、「マラソンはもう嫌です」と公言していた新谷。しかし、横田コーチ、新田コーチ、その他サポートメンバーとつくり上げた仮説と検証が、新谷を次へ進ませたのである。
無謀に聞こえる現実的な「日本記録の1分以上更新」
横田コーチの選手目線に立ったトレーニングで、唯一無二のマラソンチャレンジをやりきった新谷仁美。一連の過程はYouTubeで動画公開され、魅力あるコンテンツにコメント欄は「すごいドキュメンタリー。目が離せませんでした」「プロがどれだけ重圧がかかる環境で戦っているのか伝わってきました」など、後押しの声が届く。
年に数回の大きな大会でしか、メディアに取り上げられない陸上競技。挑戦の過程が見えづらい選手たちの活動において、発信の仕方もまた、前例を見ないケースだった。
それぞれの決断は、また次の選択につながる。
一連のチャレンジを終えて、新谷が語ったのは、自分で選択する重要性だった。
「日本のマラソン女子は、まるで一つの方法でしか結果が出ないかのように時代が流れてきた印象がある。それが私にとっては、理解できなくて。なぜ、人に合わせる練習メニューじゃなく、この練習じゃないとマラソンは走れないという認識になってしまったのか。それが違和感でしかなかった」
「今回それを横田コーチと話し合って払拭できた。かといって、私の練習方法が正しいとかではない。選手自身も言われたことだけをやるのではなく、自分に何が必要なのか、選ぶ力を身につけることが必要だなと思っています」
横田コーチは「もっと速いほうが現実的」と、ちょっと聞けば無謀な、しかしワクワクするような筋書きを真顔で話す。
「得られたのは、確かな手応えと、明確な課題。手応えでいえば、僕らの軸はスピードやリズムの追求で、それをトレーニングの中心に据えるべきだということ。距離のリスクを取りすぎる必要はないと確信に変わった。課題は、30㎞以降の落ち込みへの取り組みが必要ということ。そのコンセプトを大事に、ベルリンまでの過程を組み立てていきたい。
僕は今回の12秒差を詰めるというより、17分台とか、日本記録を1分以上更新するのが現実的だと考えています。今、新谷は4種目(5000m、10000m、ハーフマラソン、マラソン)での日本記録更新を目指していますけど、僕はそれをオリンピック出場やメダル獲得と同等、それ以上にタフなことだと思っている。それを一緒にやらせてもらえて、本当に感謝していますし、そこをつくれることは本当に楽しいです」
それぞれの選択が導き出す答えは、また9月のベルリンで確認できる。それまで、楽しみに待っていよう。
<了>
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