新谷仁美が“日本新記録V”後に語った秘話 圧巻優勝の裏に隠された大切な「約束」
大会後、新谷仁美と積水化学女子陸上競技部のSNSは、「感動しました!」「衝撃のレースでした」「勇気をもらえた」など称賛の声で埋め尽くされた。12月4日に行われた日本陸上競技選手権大会・長距離種目・女子10000m。18年ぶりとなる日本新記録で優勝し、東京五輪内定を手にした新谷。偉大な記録ずくめとなった彼女の2020年を締めくくるにふさわしいこの結果は、「私はメンタルが弱いので」と公言する彼女を支える“心強い存在”がいてこそ手にしたものだった。
(文=守本和宏、写真=ナノ・アソシエーション)
なぜ新谷仁美のレースは胸を打つのか
なぜ新谷仁美のレースは、ここまで胸を打つのか。それは彼女が、成長のストーリーを発信し続け、周囲を進化させるアスリートだからだと思う。
ふと、スタンドに目を移すと、多くの人が涙を拭っていた。
12月4日、大阪・ヤンマースタジアム長居。日本選手権・女子10000mに出場した新谷仁美は、驚異的なペースで1位を独走。国内トップクラスの選手を次々と周回遅れにしていく。その姿は、観衆の心を揺さぶり、魅了した。コロナがなければ大歓声が響いただろうか、代わりにどこか温かい拍手が会場を包み込む。最後の1周を知らせる鐘。ラスト400mで3位までをも周回遅れにした新谷は、18年ぶりに日本記録を28秒も縮める30分20秒44で、東京五輪内定を勝ち取った。
「お金のために走る」「私にとって五輪はすべてじゃない。アスリートとして結果を出すことがすべてで、参加することがすべてじゃない」と常々語ってきた新谷仁美。2014年に一度引退し、4年間OLとして働いた後、2018年に復帰してわずか2年。32歳で日本記録を更新した彼女は「陸上は好きではないが、プロとして結果を残すべき仕事」と主張する。その彼女が、五輪代表の座をつかみ発する言葉とは何か、興味があった。レース直後のインタビュー。彼女が口にしたのは観衆への感謝と、そして同じ積水化学に所属する佐藤早也伽へのお礼だった。
「ここに駆けつけてくださった方々、また画面越しからのたくさんの応援が最後まで途切れず、久しぶりに満足できるレースができました。本当に皆さまのおかげです」「同じ積水化学の佐藤早也伽ちゃんが、今日は私のために“最初の2000mリズムを作ります”と快く引き受けてくれたので、彼女のおかげです。早也伽ちゃんの引っ張りを無駄にしたくない想いで、良いリズムで走ることができました。一番に感謝を言いたいです」
1月のハーフマラソン日本記録更新から始まった新谷仁美の2020年。コロナ禍を挟み、9月の5000mで“15分の壁”を破る日本歴代2位の記録をマーク、プリンセス駅伝3区の記録を1分15秒縮め、クイーンズ駅伝エース区間で区間記録を1分以上も更新。そして、12月の日本選手権10000mで日本記録と、まさに記録づくめの一年を締めくくった。日本女子長距離界の歴史に残る活躍と言える。
この10000m日本記録更新は、新谷自身の偉業に他ならない。しかし、その偉業は佐藤早也伽との約束を持って、果たされたものだったのだ。
スタートラインの新谷に見た光景
日本選手権長距離10000m、東京五輪参加標準記録をクリアしていた新谷仁美は、1位になれば東京五輪内定という、最大のプレッシャーに直面していた。試合直前、ヤンマースタジアム長居のマラソンゲート下のアップエリアで、新谷仁美は泣きそうな顔になりながら何度も胸に拳を打ちつけ、自らを鼓舞する。
「私はメンタルが弱いので」と自己評価する本人は、何度も横田コーチに話しかけていた。レース直前に「帰りたい」「やめたい」「風邪ひく」など不安な気持ちを吐き出すのは、もはや恒例行事だ。ただ、いつもはTwitterでアップされるゴネる姿も、この日はテキストのみに絞られるほど、極度の緊張に包まれていた。
新谷を指導してきた元800mオリンピック代表の横田真人コーチは、この時「100回ぐらい“大丈夫だよ”と言った」という。アップの調子を見て「今日はやべぇな(ヤバいぐらい調子がいい)」と思っていたが、それはあえて本人に言わなかった。
スタートラインに立ち、「過呼吸にならないように泣くのを我慢していた」「恐怖心とプレッシャーと、期待に応えなければと追い込んだ状態」で、今にも泣きだしそうな新谷。しかし、スタートするとその顔は、恐ろしいほど集中力に満ちた表情に変わる。
そしてスタート直後、新谷が先頭に立つであろうと思われたレースは、大方の予想を裏切る展開となる。トップに立ったのは、佐藤早也伽。新谷仁美と同じ積水化学に所属する26歳だったのだ。
事前に交わされていた佐藤早也伽との約束
ここ数年で着実に力をつけ、新谷加入前の積水化学でエースとしての風格を漂わせつつあった佐藤。彼女が積極的に前に出たのは理由がある。新谷仁美との間に、「2000mまでは引く(先頭に立ちペースメーカーとしてレースの流れを作る)」との約束があったからだ。
レース後、横田コーチは明かす。「新谷から最初2000mだけでもリズムを作ってもらえれば、気持ちだけでも軽くなると要望があった。選手がパフォーマンスを出せる環境を整えるのもコーチの仕事。まずは積水化学の野口(英盛)監督に僕から相談し、クイーンズ駅伝終了後に野口監督から佐藤さんに話していただきました。佐藤さんは嫌がりもせず、『喜んで引き受けます』と快諾してくれて、その後に新谷から直接感謝の言葉をかけさせてもらいました」。
その約束通り、先頭に立って集団を引っ張る佐藤。新谷が「後ろから見ていて、何度も時計に目をやり時間を確認して、完璧に役割をこなしてくれました」と話すように、想定よりも少し速いペースで2000mを走り切る。2000m通過タイムは、6分08秒。佐藤の10000m自己ベストは31分59秒64、単純計算なら2000m通過は6分23秒前後。彼女のベストタイムより、数段早いペースで走っていたことがわかる。
そして、2000mを通過すると2位の新谷は、先頭へ出てハイペースを崩さず走り続ける。代わりに佐藤は、3位に後退。自分のレース運びにスイッチを切り替えた。以降、新谷はペースを落とさず、3000m付近でマラソン日本代表内定の一山麻緒(ワコール)を引き離す。驚異的なスピードは最後まで衰えず、前日に公言した「日本記録更新」を鮮やかに達成した。
ゴール後、新谷は佐藤と堅く抱き合い、涙をお互いに流した。振り返れば3カ月前の全日本実業団対抗陸上競技選手権大会で5000m終了後、2人で互いの健闘を讃える場面があった。その際は、ちょっと遠慮がちな握手に留まった。しかし、今回は熱く“ガバッ”と抱き合う2人。新谷と、その周りの絆が深まったことを印象づけた瞬間だった。
決して、捨てゴマになったわけではない佐藤
一つ、説明しておく必要があるだろう。この日佐藤が見せた“ペースメーカーとして集団を引く”、その意味とリスクだ。
レース中、先頭を走り“集団を引く”のは、全体のリズムを作ること。後ろにつく選手は、風の抵抗を受けず、順位争いの牽制も避けられる。マラソンなどでは度々見られるが、国内の日本選手権で見られることはほぼない(日本選手権でもオープン参加の外国人選手がチームメートのペースメーカーを務めることもあるため、日本人同士の勝負においての意)。それは、日本選手権が真剣勝負の場だからだ。
日本選手権は、日本ナンバーワンを決めるレース。参加標準記録を突破した国内トップクラスが集う場であり、多くの選手はこのレースで1位を取るため、1年間のトレーニングを行う。その場で新谷のような有力選手のペースメーカーを務めるのは、自分のリズムと違うペースで走るということ。序盤に実力以上のハイペースで飛ばせば、後半に失速し、大きく順位を落とす可能性も高い。
つまり、新谷のために佐藤が“引く”のは、少し大げさに表現すれば、決して長くはない陸上選手としての一年の努力、燃やした命を、新谷が受け取るということだ。決して簡単に頼めるものではないし、彼女への信頼がなければ新谷も頼まなかっただろう。ましてや、佐藤自身が「喜んでやらせていただきます」と快諾した、その選択自体が偉大な献身である。ここまで新谷と横田コーチ、そして積水化学のチームが育んできた信頼によって、結ばれた約束にほかならない。
そして何より、佐藤本人は決して捨てゴマにならなかった。佐藤は最終的に3位でフィニッシュ。自身の持つベスト記録を約30秒縮める、31分30秒19をマークした。リスクを乗り越え、大きく自分の力を伸ばした佐藤。「あのペースで自己記録更新ですからね、彼女まだまだ伸びますよ」と横田コーチが立ち話で話したように、彼女もまた東京五輪代表候補の一人に浮上した。
結果的に、佐藤が新谷を、新谷が佐藤を、引き上げたのである。
新谷仁美が手にした本当の力
勘違いしてはいけない。おそらく、新谷仁美は2000mまでの佐藤のリードがなかったとしても、日本記録を更新していただろう。新谷が手にした本当の力。それは、佐藤の“気持ち”だった。新谷はレース後に語っている。
「彼女がイーブンペース(同じペース)で引っ張ってくれたおかげで、後半も大きくペースを落とすことなく、日本記録を出すことができました。どんなタイムでも良かったんです。彼女の引っ張るという気持ち・心意気が、私にとって救いになりました」
一度目の現役引退当初について、「極端な話、周り全部が敵と思っていた」「社会人になってから陸上が楽しくなくなり、人間の嫌なところ・ネガティブなところしか見ない人間になった」「自分が心を開かなかったから、信頼できる人もおらず、自分の味方と思える人がいなかった」と新谷は話している。それから、たった数年。新谷の周囲を取り巻く環境は、横田コーチなどとの出会いを通して、劇的に変わったのだ。
レース後の一連のインタビューで、彼女が最も温かい笑顔を浮かべた瞬間があった。「2大会ぶりのオリンピックで、以前の自分とここは違うと言えるのはどこか」と聞かれた瞬間である。
彼女はこう答えた。
「強い味方ができたことが、一番の要因かなと思います」
「私は1人でやっても平気だと思っていたし、それが当たり前だと思っていました。でも、自分が背負っているものを分散することで、これだけ気持ち的に軽く走れるんだなと、すごく感じています」
「私は本当にメンタルが弱い人間なので、それが焦りとなってレースに出ると、自分の走りができなくなる。でも今は、過去にはいなかった、それをカバーしてくれる信用・信頼できる人がいます。横田コーチだけでなく、今私にサポートしてくださっている方すべてが、信用・信頼している人たち。それがあるのとないのとでは本当に大違いだと、自分でも感じました」
孤高の存在だった新谷は人の優しさに触れ、より強くなった。32歳になった今、彼女もまた成長の途上にあるのだ。
今なお成長を続ける新谷。未来への約束
佐藤との約束、今までの人生では得られなかった仲間との絆を結び、さらに新谷は加速した。より力強く。
次は彼女が約束を果たす番だ。
と言っても、ここまでの快記録連発で、十分に約束を果たしたと言って、文句を言う人間はいないだろう。新谷と積水化学のSNSは、「感動した」「最高のレースでした」など称賛の言葉で、すでに埋め尽くされている。
しかし、プロフェッショナリズムの塊である新谷が、ここで満足するわけがない。昨年ドーハで行われた世界陸上競技選手権大会で11位になろうが「ただただ日本の恥」と世界を見据えてきた彼女にとって、クライアントの期待に最高の結果で応えること、それが自身の価値の証明だ。新谷には日本記録さえ、ただのスタートでしかない。
「世界大会で強い選手たちは、タイムを狙うより“勝負”をしてくる。波のあるレースに対応するには、まず私たち日本選手が、世界にタイムを近づけなければならない。それはまず一段階クリアできたと思います。ただ、世界は29分台に入っている。私の30分20秒の記録も、300m先に優勝者がいます。その現実を見たら、まだまだ」
「日本選手も世界の進化に合わせて成長しなければ、意味がない。今日、新たなスタートに立てて良かったと思います」。そう語る新谷の底知れない可能性に、さらなる期待をかけずにはいられない。
そして、彼女は未来に向けて約束をしてくれた。
「来年、東京五輪が開催されるかはまだわからない状況ですが、もし無事に開催されたら、最高のパフォーマンスを皆さまにお見せできるように、しっかり準備をしていきたい」
「東京五輪が終わっても私たちの人生はまだまだ続きます。だから、安全性は一生確保しなければならない。その意味でも、私たちアスリートだけが五輪を開催したいと言っても、それはこのご時世において、ただのワガママ。やりたくないわけではなく、人の命がかかっている状態での開催は、やはり考えようなので、皆さんと一緒に納得できる大会にしたい。だからこそ、国民の声をしっかり聞いて、私たちアスリートは発信しなければならないし、結果以上のものを出さなければならないと思います」
今なお成長を続ける新谷仁美。その未来への約束は、どう結実するのか。これからどんな仲間を見つけ、進化させるのか。彼女が生み出すストーリーとアスリートの価値に、期待を通り越した“希望”を見ているのは、私だけではないはずだ。
<了>
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