競歩の意外なトイレ事情 専門家が語る競技の魅力、なぜ日本は「世界記録」が出せるのか?

Opinion
2020.11.27

東京五輪の陸上競技で最も金メダルに近い競技と目されている「競歩」。世界記録保持者の鈴木雄介、2019年のドーハ世界陸上20km金メダルの山西利和、10000mで世界最高記録を上回る数字を出した高橋英輝など、全員メダル候補といっても過言ではない。そんな競歩は素朴な疑問が溢れる競技でもある。「なぜゴール直前にトイレに行くの?」「競歩に向いている選手ってどんな選手?」「そもそも何がきっかけで競歩を始めるの?」。興味は尽きない。そのような疑問を元日本代表男子主将・森岡紘一朗にぶつけてみたところ、どんな質問に対しても実直に答えてくれた。

(文=守本和宏、写真=Getty Images)

鈴木雄介と交わした何気ない会話で生まれた疑問

競歩において、なぜか忘れられないシーンがある。7年前の話だ。
2013年4月。日本選手権(日本陸上競技選手権大会)50km競歩の試合後、記者会見待ちの鈴木雄介と少し話すタイミングがあった。そこで、「競歩ってキャリアが長くなると50kmのほうに移って、20kmは若手に任せる文化があるんですよね。なんとなく、後輩に道を譲る、みたいな」と彼が言った。特別な会話ではなかったが、「そんなことがあるんだなぁ」と感じたのが、印象深い。

そこで思ったのだ。

ここまで10年以上取材してきた競歩。だが、実は「五輪で金メダルを取るかもしれない競技を、ひょっとして5%も理解してないんじゃないか」と。これは大会までに、いろいろと解き明かさなければならない。例えば、ゴール目前でトイレに行っても大丈夫なのか、とか……。

そんなちょっと聞きにくいことも、2013年のモスクワ世界陸上(世界陸上競技選手権大会)でも日本代表男子主将を務めた森岡紘一朗なら答えてくれるはずだ。世界記録保持者の鈴木雄介をして、「先輩の森岡さんを追い越そうと頑張った活力が世界記録につながった」と語る存在。競歩界のパイオニア今村文男氏が“日本競歩の父”なら、日本に競歩熱を呼び起こした“競歩界の長兄”とも言える人物である。

どんな質問にも実直に答えてくれる彼なら、微妙な質問も明確に回答してくれるだろう。

実は想定外だった! ドーハ世界陸上「金」の鈴木のトイレ

まず気になるのは、トイレだ。50kmだと4時間弱、20kmでも1時間半~2時間程度歩きっぱなしになる。2019年のドーハ世界陸上50km競歩では、金メダルを獲得した鈴木選手が30km手前で1回、 40km以降1回、計2回トイレに行った。そこには休憩や駆け引きなど、戦略的な狙いがあったのではないか。すると、予想外というか、よく考えると至極当然な答えが返ってきた。

――ドーハ世界陸上では鈴木選手が終盤にトイレに行くシーンがありました。ゴール直前でもトイレに複数回行くことはあるのでしょうか?

森岡:正直なところ、珍しいですね。行く選手も稀にいますが、トップ選手が何度もトイレに行くのは、やはり時間のロスにつながる。後続選手とのタイム差を踏まえ、ドーハという高温多湿の環境下でのレースで、どうしても防ぎきれなかった、ということだと思います。

――休憩する狙いや、戦略的意味合いで使う選手もいないと。

森岡:ほとんどいないですね(笑)。順位として余裕があった、体の状態として行かざるを得ない状況だったのだと思います。

――では、トイレ内での行動はとにかく早く用を足して、なるべく早く出たい、と。

森岡:過酷なレースゆえに吐き気を催すこともあるため、吐いたらスッキリしてペースアップできたなど、一つの選択肢として使う選手はいます。しかし、レースの戦略上、トイレを活用する選手はほとんどいないですね。当然、時間は「極力短く」が鉄則です。

――トイレに関するあまり知られていないエピソードはありますか?

森岡:例えば自転車のツール・ド・フランスなど長時間かかる競技だと、選手も自転車に乗りながら、ほとんどテレビには映らないですが、トイレのシーンがあったりすると思います。そのように、競歩でも稀に、歩きながら器用に用をたす選手もいますね。

また20kmでは「お腹が冷えてトイレに行きました」という選手も稀にいますが、ほぼトップ選手は使わない。女性だと50km競技自体が世界大会でも珍しいため、男性の50kmに限定された話だと思います。なおトイレは、20kmでも50kmでもコースに併設されています。

審判から隠れるのも技術の一つ。しかし不毛

20km・50kmを歩く競歩では、コース上の選手を審判が走っていないかチェックする。主な反則は2つ、「ロス・オブ・コンタクト(両足が地面から離れてしまうこと)」と「ベント・ニー(膝が曲がってしまうこと)」だ。

3人以上の審判から警告(レッドカード)を受けると「失格」。近年は「ペナルティゾーン」のルールが新たに適用され、3回警告を受けると20kmで2分、50kmだと5分間のペナルティ(ボックスに入り歩けなくなる)、4人目のレッドカードで「失格」となる。そこで単純な疑問が沸く。数十人が一緒に歩くレースで、50kmの全歩きを完璧に見抜くことなど可能なのだろうか。いや、むしろ不可能に近い気がする。

――審判は何人いるのでしょう。あれだけ大人数の選手を一歩一歩、見ているのでしょうか?

森岡:コース上に主任含めて6人以上9人以内ですね。大集団の全員を的確に見ているかは、かなりグレーです。ただ、世界大会に出てくる審判の方々は国際ライセンスを持つ、世界で数名の限られた方々。大人数を見る目も養われているはずです。

――シューズ、地面に擦ってますよね。

森岡:意図的に擦るというか、足の振り出しを低くすることで両足が離れていないように見せる技術でもあります。ジャッジに対する戦略上、ロス・オブ・コンタクトではないように、審判の前になったらアピールでちょっと靴を擦る選手もいるとは聞きます。

――じゃあ、本部前になったら「ちょっと擦っとこうか」みたいなことですか?

森岡:そうですね。ジャッジに不安がある場合、そういったアピールも考えながら歩いている選手もいます。「擦ってますよ」「飛んでないですよ」みたいな。

――ジャッジから見えないように、他選手の影に隠れる戦略も?

森岡:審判から見えづらい位置はあるので、不安な選手は戦略上、隠れることもなくはないと思います。でも、ずっとその動きを続ける、他選手に隠れるポジションを取り続けるのはほぼ不可能。それを意識し過ぎることで逆に自分の動きが崩れてしまうケースにつながるので、得策ではありません。

――もともとのフォームを改善したほうがよっぽど楽だろうっていう話ですね。

森岡:そうですね(笑)

――靴、すぐ履きつぶしそうですよね?

森岡:50kmのトップ選手だと、年間30~40足履く選手もいます。10日ぐらいで履き替えたりしますね。

嫌な思いをしたことはない。どちらかというと「何あれ?」

競歩といえば、あの特徴的な動きである。骨盤をうまく使い、正確な歩形をキープしながら過酷なレースを戦い切る。その姿は美しいが、ともすれば、滑稽に思う人もいるかもしれない。実際、冗談半分で真似した結果、選手になった人さえいる。その“クネクネしている”姿に関して、いわれなき迫害を受けたことはあるのだろうか。

――競歩選手はなぜその競技を選ぶのでしょうか?

森岡:長距離から入るケースが多いですね。負傷して競歩をやってみたら予想以上に速かったとか、長距離トレーニングの一環として競歩を取り入れている学校も多いので、そこから動きの器用さや適性があり選手になるケースが多いです。

――最近は鈴木選手や森岡選手の貢献があり競歩の認知度も上がってきました。昔はカッコよくないなど、揶揄されたりしたのでしょうか?

森岡:カッコ悪いというより、「何なのこれ」という目で見られたりはしました。知名度が低い頃は「なんだろうこの種目」「何やってるんだろう」みたいに、不思議がられることはありましたね。近年は、テレビに出る機会も増えて、小さな子どもたちから「あれ競歩だよ」と言われたり、昔より大きく知名度は変わった印象です。

――では、嫌な思いをしたことはない?

森岡:どこかで言われていることもあるかもしれませんが、私自身はないです。ただ、正直に言うと、競歩の真似をしている人の、クネクネした動きがカッコいいかと言われると、私個人は思いません。上手な人もたまにはいますが、あの動き=競歩ではないという認識です。

――改めて、競歩の魅力とはなんでしょう?

森岡:個人的には“高い技術を持つ選手の動きは美しい”のが魅力です。エクアドルの元選手で、世界チャンピオンにもなったジェファーソン・ペレス選手などは、強さと速さと美しさを兼ねた選手でした。“こういう動きをするのが望ましい”と、世界に広めた人物だと思います。今は国内でも、鈴木選手や荒井広宙選手を見習いましょうとか、世界でお手本になる選手がいるので、見てみてください。

競歩には、“物分かりのいい選手”が向いている?

最大50kmの距離を歩く競歩。当然、性格の適正もあるだろう。例えば、信号が変わる前から走って渡ってしまうような、せっかちな人には向いていないはずだ。果たして、競歩界にはどんな性格の選手が多いのだろうか。

――近年、日本人選手が世界トップレベルの実力を持つようになりました。その要因は?

森岡:トレーニングの流れや成功例が共有され、より洗練されたのが大きいと思います。強化を進める中で、効果があったもの・ないものが明確になり、取捨選択が洗練された。結果的に、ある一定レベルからトップにいくプロセスが直線的になったと感じます。競歩ブロックの日本代表は一緒にトレーニングする機会も多く、多くの選手で成功例を共有しているのです。

――選手たちが連携して、レベルの底上げをしてきたということですね。

森岡:コンディショニングに関しても医科学サポートとの連携が強く、気温や給水方法もコーチや選手・スタッフの方々からフィードバックされるので、密に連携ができていると思います。

大会で最初に歩いた選手のフィードバックが、他選手に生きたケースもありますね。例えば昨年のドーハ世界陸上はかなりの高温多湿で、50kmの鈴木選手のレース前には、深部体温を下げるため「中からも外からも冷やしたほうがいい」との情報があった。彼は給水を非常に冷たくして飲んでいたのですが、その結果、内臓の負担が大きくなり、トイレに行く頻度が増えた。

むしろ冷やすのは外からで、常温での水分補給・エネルギー補給・電解質補給を行う、クーリングと給水のバランスを考えたほうがいいとのフィードバックが得られた。結果、20km男子女子のメダル獲得や入賞につながった。選手同士、コーチ、医科学スタッフの連携がうまくいった例だと思います。

――性格的にこういう選手に向いているみたいなものはありますか?

森岡:我慢強くないとできないのは、ありますね。基礎的なものとしては、「立位で膝が伸びている」こと。膝が伸びなければいけない競技なので、伸びない(曲がってしまう)人は明らかに難しいと思います。

後天的に考えると、「言語化されたもの・感覚的なものを体で表現できる人」は高いレベルに行きやすい。競歩はルールにのっとって歩く、あくまでも他者からの評価でジャッジされる競技。自分がいくら「膝は伸びている」と言っても、それが表現できなければ成立しません。「こうやって歩くんだよ」と言われたものを積み重ねられる。腕をまっすぐ振りなさいと言って、まっすぐ振れる人。そういう強さを持つ人が、競歩に向いていると思います。

――すごく平易に言うと、物分かりの良い選手ということですか?

森岡:あー、そうですね、はい(笑)。理解するのが早い人ということです。

ルールだけは覚えてきましょう(一般には求めない)

この機会に、ずっと疑問に思っていたことを聞いてみたい。マイナー競技では見られがちな光景だが、大会優勝者に「競技のルールを教えてもらえますか?」と、場違いとも思われる質問をするメディアがいる。競技を知らない人に、その魅力を伝えるための行動だろうが、選手として嫌ではないのか。最後に長年の疑問をぶつけた。

――日本だと石川県が盛んだと聞きますが、本当ですか?

森岡:石川県、長野県、富山県あたりの、北信越地方が盛んですね。私よりずっと上の世代の方たちが、就職や所属の関係で、そこから普及させて根づいたのだと思います。今では、指導者と選手がノウハウを求めて、その地方に集まってきています。

――外国でも盛んな国があるんですよね?

森岡:メキシコや南米諸国で人気があります。後はヨーロッパ発祥の競技なので、スペインやイタリアは早い段階からハイレベルな選手たちが出てきます。アジア圏だと中国は、どの種目も国家プロジェクトで選手を育成しているので強いです。

――日本選手権などの大きな大会で、優勝者に「競歩のルールは?」など初歩的な質問をされることがありますよね。個人的には選手に失礼じゃないかなと思う時もあるのですが、嫌ではありませんか?

森岡:最近はかなり稀になりましたけどね。ルールに関しては、正直に言うとすぐにネットでも出てくるので、取材される方ならルールは知ってレースを見てほしいな、というのはあります。ルールを踏まえて、結果がどうなったかもレースの大事な要素なので。もちろん、一般の方には求めせんので、楽しく気軽に見てもらえればうれしいですね。

たくさんの方に見ていただける東京五輪では、ここまでの実績や記録面含めて、メダルのチャンスは本当に大きいと思います。もういつでも戦えるという選手ばかりですし、日本代表に選ばれた選手全員に可能性を感じているので、競技に関わるものとして本当に楽しみにしています。

<了>

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