「マイナスさえもはや成功なのかな」 野中生萌が世界トップへ駆け上がった“一流の哲学”
東京五輪で初採用されたスポーツクライミング。その参加資格を懸けて2019年8月、日本・八王子で開催されたIFSCクライミング世界選手権で5位、東京五輪の参加資格を得る日本勢上位2人に入った、野中生萌。
10代の頃から世界を舞台にしてきた彼女は、ただ強くなりたい一心でクライミングを楽しみ、いつしか世界のトップクライマーへと上り詰めていた。だがその半生で、決して壁がなかったわけではない。時につらく、落ち込んだこともあった。彼女はいかにしてその壁を乗り越え、成長と成功を果たしたのだろうか? そこには、一流アスリートならではの“哲学”があった――。
(インタビュー・構成=篠幸彦、撮影=高須力)
クライミングへの意識がだんだん変わってきた
――これまでのキャリアの中で野中選手はどのように目標設定を立ててきましたか?
野中:常に一つ大きな目標を立ててきましたね。それは例えば年間優勝だったり、(IFSCクライミング)ワールドカップでの優勝だったり。ただ、そこにいくまでにいろんなプロセスがあると思います。私だったら保持力があまり強くないので、保持力を高めるトレーニングをしていくとか。持久力にも課題があるので、そこを高めるトレーニングを入れるとか。大きな目標を一つ立てて、そこにたどり着くために自分に必要な要素が何かを逆算してトレーニングするようにしています。
――大きな目標に向かっていくための小さな目標を立てていくイメージでしょうか。
野中:その一つひとつの小さい目標を立てていくというのは絶対に必要なことだと思います。この練習をこなすのが今日の目標、それをこなしていく体力をつけるのが1カ月の目標といったように、そういう小さな目標設定から大きな目標につなげていくことを大切にしていますね。
――そういった小さな目標を立てるときは、自分の弱いところをつぶしていくのが野中選手の成長の描き方ですか?
野中:やはり大会で勝つことが目標なのだとしたら、絶対的に自分の弱みをつぶすことが必要になると思います。その要素は人それぞれだと思いますが、私はその弱みをプラスにしていくようにしていきました。ただ、もちろん自分の強みを伸ばすことも必要だと思います。
――野中選手は高校生の頃からワールドカップに出場してきましたが、“世界”を意識するようになったのはいつ頃からでした?
野中:ワールドカップに出場できる年齢が16歳からなので、私が国際大会で活躍したいと思ったのもその頃からですね。
――その国際大会に出場できるようになった16歳頃からクライミングに対する意識に変化はありました?
野中:ありましたね。クライミングを始めた頃は大会で勝ちたいとか、そういう思いはなくて、単純に楽しくて、ただ単に強くなりたいという思いしかありませんでした。その頃は別に試合で結果が残せなくても特に気にしてはいませんでしたね。ただ、そうした中でも徐々に結果を気にしてきている自分にも気がついていきました。それと同時にクライミングは結果が全てじゃないと思っている自分もいて、その葛藤を抱えている時期はありました。そこからワールドカップを戦っていく中で成績だけを追いかけていくクライミングもそれはそれで難しいし、それで結果を残せている選手はかっこいいと思うようにもなりました。そうやって葛藤しながら徐々に意識は変わっていきましたね。
――野中選手がワールドカップで初めて優勝した2016年シーズンは、高校を卒業してプロの道に進むというタイミングだったと思います。プロになるというところで、この頃にもまた一つ意識の変化はありました?
野中:大学に進学せず、クライミングだけでやっていくと決めたときは、自分にはもうクライミングしかないからそこに全力を注いでいこうと、そういう強い気持ちが芽生えたのはその頃でした。
――では練習に取り組む姿勢とか、そういうところへの変化もありました?
野中:ありました。ただ、何かが特別変わったというより、それまで続けていたことをより意識高く取り組んでいくということですよね。成績がすべてではないけど、でもそこにしっかりと向き合って、失敗してもそこと向き合ってちゃんと受け入れて、結果を残していくために練習に取り組んでいくという姿勢に変わっていきましたね。
「まだチャンスはある」 2019年世界選手権での逆境
――ここまでのキャリアの中で一番大きな壁だと感じた出来事は?
野中:単純な変化でつらかったのは、成長期がきて体の変化があったときに、今までよりも身長とかリーチが伸びて、頭でのイメージと実際のズレがあってうまく登れなかった時期ですね。単純に体重が増えたり、筋力が増えて重く感じたりとか。そういう体の変化からくるスランプみたいなものはありましたね。
――そういう体の変化には実際のところは順応していくしかないと思うのですが、気持ち面ではどう乗り越えていきました?
野中:そのときの気持ちとしてはすごく落ち込んでいたし、焦っていた自分もいました。でも成長期での体の変化というのは男女限らず、誰にでも訪れることなので割り切るしかなかったと思います。そこから根拠のない自信というか、これが過ぎれば大丈夫、私は活躍できると。なんの根拠もないけれど、そこを信じてやるしかなかった。実際に結果が出てきて、その波に乗ることで乗り越えることができました。
――去年の東京五輪選考大会となったIFSCクライミング世界選手権・八王子大会のコンバインド決勝で、第1種目のスピードで思うような順位が取れなかったとき、野中選手は「まだチャンスはある」と自分に言い聞かせていました。それは裏を返すとそう自分に言い聞かせていないとつぶれてしまいそうなプレッシャーを感じていたとも取れると思うのですが、実際にあのときの心境はいかがでした?
野中:まさにおっしゃる通りですね。どっちの思いもありました。実際に諦めてしまったら絶対にそこで終わりだし、逆に諦めなかったら何があるかわからない。それが試合ですよね。だからまだ信じていたい気持ちと、折れてしまったら終わりだという気持ちですね。自分に対してもそうですけど、周りに対してもそうですね。これだけ応援してくれる人がいるのに、自分が諦めてしまったら応援してくれる人たちの気持ちは一つもつなげることができなくなりますから。それだけはしたくない。あの「まだチャンスはある」という言葉にはいろんな思いがありましたね。
――実際にそこで心が折れてしまって第2種目のボルダリング、第3種目のリードで一つでも順位を落としていたら五輪出場枠を得られる日本人上位2人には入れなかったわけです。あそこで諦めなかったことで2枠目に入れた、そこでつかんだものはありましたか?
野中:コンバインドの前の単種目のボルダリング決勝で、肩のけがが再発して腕が上がらないくらい痛めてしまっていました。そのときは棄権も考えました。ただ、そこで諦めずにできることをやったから最後まで出続けることができて、その結果2枠目にも入ることができました。それをもしあのとき諦めていたらと思うと恐ろしいですね。諦めていたら今とは状況も心境もまったく変わっていたと思います。その諦めない気持ちの大切さというのはあらためて実感することができました。
――あのとき諦めていたら今は後悔していたと思いますか?
野中:はい、考えただけでも気持ちが悪くなりそうです(笑)。
――野中選手にとって成功ってなんだと思いますか?
野中:さっき言ったようにいろんな目標があると思うんですけど、一つの大会を目標としてそこで優勝できたらそれは一つの成功だし、単純に今日の練習で難しくて登れなかったけどメンタルを立て直せて気持ち的に良い練習ができたらそれも一つの成功だと思います。それが先につながっていれば成功といえると思いますね。自分のマイナスな部分に気づけたとか、それが成長や成功につながる道なのであれば、マイナスなことさえももはや成功なのかなと思います。
――40歳とか50歳とかかなり先の未来でこうありたいという自分の姿を思い描くことはありますか?
野中:今は自分の好きなことを全力でやって、全力で結果を追い求めてやっているので、その先もたとえクライミングをやめていたとしても自分の好きなこととか、自分のやりたいことに100%の力を注いでやれていたらいいなと思います。
<了>
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PROFILE
野中生萌(のなか・みほう)
1997年5月21日生まれ、東京都豊島区出身。9歳で父親にクライミングジムに連れて行かれたことでクライミングと出会う。2013年、16歳で初めて日本代表入りし、リードワールドカップに出場。2016年、ボルダリングワールドカップ・ムンバイ大会で初優勝、同ミュンヘン大会でも優勝し世界ランキング2位を獲得。同年世界選手権で銀メダル獲得。2018年、年間チャンピオン(ボルダリング)。2019年、ボルダリングジャパンカップ(BJC)、スピードジャパンカップ(SJC)、コンバインドジャパンカップ(CJC)の国内三冠を達成。東京オリンピックで初採用されるスポーツクライミングで史上初の金メダルを目指す。目標は「ただ強いクライマーになること」。
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