楢崎智亜が世界王者になっても「一番強い」と言えない理由 世界最強を証明する挑戦の物語
8月に行われたIFSCクライミング・世界選手権2019の結果を受け、2020年東京五輪のスポーツクライミング男子日本代表第1号に楢崎智亜が内定した。誰もが代表枠争いの行方に注目する中、楢崎は大会前から一人見ている先が違った。
「代表枠ではなく、世界一を狙いにいく」
楢崎が大会前にあえて五輪代表ではなく世界一と口にした意味。そして東京五輪での金メダル獲得で掴み取りたいものとは。楢崎のその頂への挑戦の物語を紡いだ。
(文=篠幸彦、写真=Getty Images)
誰に聞いても一番強いのは楢崎智亜だと言われたい
「世界選手権では日本人の最上位選手が五輪代表枠をもらえるという話ですが、僕は代表枠というより世界一を狙って大会に臨みたいと思っています」
東京五輪の出場権が懸かったIFSCクライミング・世界選手権2019の前日記者会見での一幕だ。野口啓代と並んで登壇した楢崎智亜は、その冒頭で自信に満ちた視線を満員の会見場に向けながらそう宣言した。それはじつに楢崎らしい言葉だった。
東京五輪の追加種目にスポーツクライミングの採用が決まった2016年。当時20歳の楢崎は日本人男子初のボルダリングワールドカップ年間総合優勝と、日本人初の世界選手権ボルダリング種目優勝の2冠を達成した。それは野口でさえ未だ成し得ていない日本人選手にとって前人未到の快挙だった。しかもこの時、楢崎は国内タイトルをまだ一度も取ったことがなかった。
筆者が初めて楢崎を見たのは、そんな快挙を達成した直後に収録されたテレビ番組のインタビューだった。そのインタビューでこれからどんなクライマーになっていきたいかを聞かれ、楢崎はこう答えていた。
「誰に聞いても一番強いのは楢崎智亜だと言われるようなクライマーになりたいですね」
名も無い選手ではなく、2つの世界一を極めたばかりの選手の口から“一番強いと言われたい”という言葉が出てきたのだから面白い。“自分が世界で一番強い”と息巻いても誰も文句は言わないし、否定もされないのではないか。それとも2つの世界一を取ってもクライミングにはそう言わせない何かがあるのだろうか。世界王者のなんとも純粋で無垢なアスリートとしての欲求に強く興味を引かれた。そして次の言葉でその理由がわかる。
「今、その質問をしても違う選手の名前が出てくると思います」
楢崎は“違う選手”の顔をしっかりと頭の中に描きながら答えていた。2つの世界一を取ってもなお、そう言わせない存在が。たまたまつけたその番組を気がつけば食い入るように見ていた。
「いつか、世界で一番強いクライマーになりたいですね」
まるでまだ何も成し得ていない20歳の若者のように、楢崎は照れ臭そうに笑いながらインタビューを締めくくった。近い将来、照れ笑いではなく、確信を持った目で“世界一”を口にする日がくる。テレビ画面の楢崎を見ながらそう確信めいたものを感じた。その“いつか”をこの目で見るため、楢崎の世界一強いクライマーへの挑戦を追い始めた。
ボロボロに負けて芽生えた新たなモチベーション
2017年、当然ながら楢崎の注目度は非常に高まった。1月末に開催された第12回ボルダリングジャパンカップの会場には多くのメディアや観客が押し寄せ、世界王者凱旋の期待値の高さがうかがえた。楢崎と年間総合優勝を最後まで争い、前回大会王者である藤井快との対決は大会の目玉だった。
しかし、そんな周囲の期待は楢崎の準決勝敗退という形であっさりと裏切られる。さらに4月のボルダリングワールドカップ第1戦・マイリンゲン(スイス)では21位で2年ぶりの予選敗退。期待とは裏腹にどこか歯車が噛み合っていなかった。それでも中国ラウンドの第2戦・重慶、第3戦・南京、地元開催の第4戦・八王子で続けざまに2位を獲得し、序盤の失敗を見事に取り返した。
最終的に韓国のチョン・ジョンウォンに総合優勝を明け渡したが、総合2位と実力を示すことはできた。ただ、課題の傾向が楢崎のスタイルにあまりマッチしなかったこともあり、シーズンを通して優勝は一度もない。楢崎自身が満足するシーズンではなかった。後に楢崎はこのシーズンをこう振り返っている。
「前年にボルダリングワールドカップ年間総合優勝と、世界選手権優勝というこれまで目標にしてきた2つを達成してしまって、どうしても気持ちの面で抜けてしまっていた。正直に言うと気合いの入っていなかった大会もあって、そういう時はやっぱり負けていましたね」
タイトルを守ることの難しさはどんな競技においてもある。王者となって追われる立場となった途端に研究され、思うようなパフォーマンスが出せないことは珍しい話ではない。ただ、対人ではないクライミングにおいてそのケースは当てはまらない。
やはりモチベーションの維持に楢崎も苦しんでいたのだ。それまで国内のタイトルすら取ったことがなかった楢崎が、いきなり世界のトップを2つも獲得すれば無理もない。しかもこの年、結果が出なければプロとしての活動を諦めようとも考えていた。その覚悟が大きいぶん、反動もまた強かった。
2020年に東京五輪という大きな目標が控えてはいる。けれどその過程となる目の前の目標をどこに置けばいいのかを見失っていたのかもしれない。そういった意味で、このシーズンは楢崎にとって大きなものだったことは次の言葉からもわかる。
「チョン選手にボロボロに負けて、またクライミングが楽しくなってきましたね」
自分にはまだまだ弱点があり、やるべきこともあると。なにより楢崎は強い相手がいるほどワクワクし、そういう相手に勝って優勝してこそかっこいい、そういう選手だった。2017年は楢崎にとって新たなモチベーションを得る重要なシーズンとなった。
泥臭くても勝ったほうがかっこいい
2018年は再び世界選手権イヤーである。さらに翌年に日本での世界選手権開催が決定し、2020年の東京五輪を併せると3年連続でビッグタイトルが続く。そしてこの年から東京五輪を目指す選手たちは本格的に3種目複合“コンバインド”に取り組むことになる。なぜならコンバインドジャパンカップが新設され、世界選手権で初めてコンバインド種目が採用されるからだ。
楢崎もシーズンオフに「ボルダリング1つに絞らず、リードやスピードのトレーニングもやってきた」と、3種目のトレーニングに励んだ。そしてシーズン始めのボルダリングジャパンカップの予選を終えた楢崎からは取り戻したモチベーションの高さがうかがえた。
「去年は冬の登り込みが少なくて登りの感覚がよくなかった。だから今回は例年以上に登り込んで準備をしてきました」
そのボルダリングジャパンカップで3位、翌月の日本選手権リード競技大会では2位と国内大会の2種目で表彰台に立った。そしてボルダリングワールドカップ第1戦・マイリンゲンで2位、第2戦・モスクワ(ロシア)で優勝と、前年躓いた序盤でも結果を出し、昨シーズンとは違う姿を披露した。
しかし、得意だったはずの中国ラウンドの第3戦・重慶で11位、第4戦・泰安で8位と2戦連続で決勝進出を逃した。
「第1戦、第2戦で、感覚的に自分が一番強いということを確認できました。ただそれで少し気が抜けてしまった。中国ラウンドが得意ということもあって、気合いの入り方が甘かったと思います」
楢崎はこのメンタルのムラが一番の弱点だった。乗った時は驚異的な強さを発揮するが、そうでない大会では脆いという諸刃の刃。野生的で、本能的な登りが楢崎の魅力だが、逆にそれはうまくコントロールが効かなかった。
「2戦連続で決勝に残れなくて、本当に自分は強いのかと。かなり落ち込みましたね」
中国ラウンドから帰国後、楢崎が取り組んだのはメンタルの復調だった。課題となった動きのトレーニングを一通り終えると、あとはひたすら自分の最も得意とする動きを繰り返した。自分が世界チャンピオンだということを思い出すまでひたすら登り込んでいった。
そうして臨んだ第5戦・八王子で2位、第6戦・ベイル(アメリカ)で3位を獲得した。さらに第1回コンバインドジャパンカップの初代優勝をものにし、自信を取り戻しつつあった。それでも年間総合は2位で王者返り咲きは叶わなかった。
そしてこの年最大の目標である世界選手権を迎える。再び己が世界一だということを証明するために臨んだが、ボルダリング単種目ではまさかの準決勝敗退。五輪フォーマットのコンバインドでも5位で表彰台を逃す結果となった。コンバインドで致命的となるミスはあったが、コンディションに問題はなく、調子も決して悪くなかった。メダル獲得の準備は十分にして臨み、その自信もあったはずだった。
それでも何かが違った。それはライバルたちの執念だった。目の前の一手にかける執念、メダルへの執念、泥臭く勝ちにこだわるライバルたちの執念溢れる姿に楢崎は圧倒されていた。
昔から楢崎は泥臭く登るのが性に合わなかった。自分らしい魅せるスタイルで勝つのが一番かっこいいと思っていた。そんな楢崎に「かっこつけて負けるより、泥臭くても勝ったほうがかっこいい」と、そう説いたのは野口啓代だった。そして野心に溢れ、無我夢中で登ったあの2年前から徐々に勝ちにこだわることへメンタルがシフトしてきていた。しかし、まだ不十分だった。この大会で楢崎は、自分に一番欠けているものを見せつけられたのだ。
「あの負けは今シーズンの調子に大きく影響を与えていると思っています」
後にこの大会の負けをそう振り返る。東京五輪の出場権が懸かった運命のシーズンに向け、楢崎はもう一皮剥けようとしていた。
世界一になるため、越えなければいけない壁
2019年に入り、楢崎の快進撃は凄まじかった。ボルダリングジャパンカップとリードジャパンカップで準優勝すると、世界選手権への調整のためにボルダリングワールドカップの参戦数を4大会に絞った中で、優勝1回・準優勝3回と表彰台を外さなかった。そして2016年以来の年間総合優勝に返り咲き、コンバインドジャパンカップも連覇した。
明らかにこれまでのシーズンにはない安定感があった。その理由を楢崎はこう話した。
「今シーズンはメンタル面がうまくいっている手応えがあります。これまでは周りの選手や課題にメンタルが影響されてしまっていました。今シーズンはどんな状況でも自分が自然体でいられること、何にもとらわれないことを意識しています」
何にもとらわれず、どんな状況でも自分のベストの登りをすることにフォーカスすればいい。周りは関係ない、自分と課題に集中することが何よりも大事なのだ。楢崎はその境地にいた。それから2冠を取った2016年をこう振り返る。
「あの時は本当に実力があって優勝できたとは思っていないんですよね。なんていうか、勢いで勝てたと思っています」
その上で世界選手権の前日記者会見では“五輪代表枠ではなく、世界一を狙う”と宣言した。その言葉の真意を聞くとこう答えた。
「だって、やるからには世界一を目指したほうがワクワクするじゃないですか」
そこには自然体でいながら自信を纏った楢崎がいた。
そして開幕した世界選手権で、楢崎の強さは圧倒的だった。ボルダリング単種目の決勝、他のファイナリストが一つも完登できない中、楢崎は1人だけ2完登を刻んだ。文句なしの優勝で年間総合優勝に続いて、ボルダリング単種目のタイトルも奪還した。けれど楢崎に浮かれる様子はない。
「今回はコンバインドがメインでの単種目の優勝なので、まだそこまで喜べないですね」
上位7人に東京五輪の出場枠が与えられるコンバインドが、今大会のメインターゲットだった。リード単種目で4位、スピード単種目で12位を獲得(いずれもコンバインドのエントリー選手内での順位)した楢崎は総合1位となり、危なげなくコンバインドの予選ラウンドに駒を進めた。
コンバインド予選に進出した20人には、おおむね想定通りの選手たちが名を連ねた。その中に楢崎があのインタビューで“違う選手”として思い浮かべたチェコのアダム・オンドラもいた。
アダムは岩場で数々の記録を打ち立てながらインドアのスポーツクライミングでも世界選手権やワールドカップの優勝経験を持つ。岩場かインドアのどちらかがトップレベルの選手は数多くいる。けれど、その両方で世界トップを極めたアダムは唯一無二の存在であり、最強クライマーと言われるゆえんである。
前回の世界選手権のコンバインドでも準優勝し、今大会の楢崎の優勝を阻む最有力の一人がアダムだった。しかし、そのアダムがコンバインド予選で姿を消すこととなる。得意のリードで3位を獲得したかに思われたが、金具を踏む反則で19位まで順位を落とし、総合18位で敗退となった。
「最後に1位を争うことになるのはアダムだと思っていたから驚きました」
世界一になるには必ず越えなければいけない壁となるはずだった。思わぬ形で好敵手がいなくなり、世界一はより楢崎に近づいた。そしてコンバインド決勝ではスピード2位、ボルダリング1位、リード2位と圧倒的だった。完全勝利といってもいいほど、楢崎は頭一つ抜けて金メダルを手にした。決勝直後の取材で楢崎は報道陣に向けてこう言った。
「こんなにうまくいくとは思わなかったですね。でも感覚的に優勝できると思っていた中での優勝でした」
前日会見の言葉は、ハッタリでも、ビッグマウスでもない。シーズンを通して、自信が確信となってあの言葉を言わせたのだ。そしてその強さに異論を唱える者はいない。今なら自信を持って「一番強いクライマーは誰か」と聞いて回れるのではないだろうか。
楢崎にそう聞こうと思った時、やはり何かが足りない。その思いは拭えなかった。今大会の金メダルの価値が薄れることは微塵もないが、楢崎自身も最後はアダムを越えなければ世界一は取れないと思っていたのだ。
それならば、この質問をするのは今ではない。来年の東京五輪の出場権をアダムも間違いなく獲得するはずである。オリンピックというこれ以上ない舞台でアダムに真っ向勝負で勝ち、もう一度世界一を証明してもらいたい。
その時、改めて楢崎に聞こうと思う。いや、その場にいる人たちに聞くべきである。
「一番強いクライマーは誰だと思う?」
<了>
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