神村学園・有村圭一郎監督が気づいた“高校サッカーの勝ち方” 「最初の3年間は『足りない』ばかり言っていた」

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2023.12.29

12月28日、第102回を迎える全国高校サッカー選手権大会が幕を開ける。本年度も高円宮杯 JFA U-18サッカープレミアリーグを制した青森山田(青森県)、この夏にインターハイを制した明秀日立高校(茨城県)を筆頭に全国の強豪高校が名を連ねる。そこで本稿では、長年、高校年代の取材を続けてきた土屋雅史氏の著書『高校サッカー 新時代を戦う監督たち』の抜粋を通して、高校サッカー界の最前線で戦い続ける名将へのインタビューを公開。今回は、2014年に神村学園高等部(鹿児島県)の監督に就任し、近年は福田師王、大迫塁、名和田我空ら年代別代表選手を続々と輩出する有村圭一郎監督の指導哲学をひも解く。

(インタビュー・構成=土屋雅史、写真=アフロスポーツ)

最初の3年間は「足りない」ことばかりを考えていた

――2014年に神村学園高等部の監督に就任されて、そこから3年間は全国大会に出られなかったと思うんですね。特に選手権は3年続けて決勝で鹿児島城西に負けています。もちろん神村学園のスタンスとしては「勝てばいい」というだけではなかったと思うんですけど、この3年間は苦しい時期というイメージですか?

有村:いやあ、だいぶ苦しかったですね。結局、「高校サッカーの勝ち方」がわからなかったんですよ。もちろん負けようと思ってやっているわけではないので、どうやったら勝てるのかなということは探りながらやるんですけど、人間って勝つために必要なものを考えていったら、足りないものだらけなんです。「アレも足りない」「コレも足りない」みたいに不安要素ばかりが出てきて、そういうふうになると自分から先にその不安要素を削ろうとするんですよ。その3年間は「足りない、足りない」ということばかり言っていた気がします。「チーム力が足りないからああしよう、こうしよう」「人も足りないからああしよう、こうしよう」って。でも、実際は「足りない」と言っても仕方ないんだから、足りているもので戦えば良かったんですよ。それに気づいたのが監督になって3年目の橘田(健人)たちの年ですね。

 最後に選手権の決勝で城西に負けて、全国には出られなかったんですけど、あの時のチームは本当に良いチームで、どんな試合になっても勝つと思っていましたから。でも、選手権が始まる直前にボランチの選手がケガをして、そこを埋めるのにいろいろ動かしてコンバートしなくてはいけなくなって、その年は城西に全然負けてなかったんですけど、その決勝だけ1点がどうしても取れなくて、バーやポストに当たったシュートも何本もあって、結局カウンターを食らって0−1で負けたんです。

 ボランチのヤツがケガでいなくなった時に、僕が不安に感じてしまって、そこを埋めるために誰を使うかを迷ってコンバートしたりしていたので、やっぱりその時点で負けていますよね。だって、僕が感じていることなんて相手は知らないわけで、そのまま堂々と戦えば良かったのに、いろいろとやり方を変えたりして。

 結局は僕が不安に思っていることが、選手たちにも伝わっていたんじゃないかなって。選手の立場からすれば、僕が「十分やれるから頑張って来いよ」と言うだけで全然違ったでしょうし、そういうふうに言葉として伝えていっているつもりの自分が、全然子どものことを信頼し切れていなかったんだなということを、その時に感じたんです。

 保護者の方々もこっちがやりたいと言ったことを本当にバックアップしてくれましたし、実際は「足りない」なんてことはまったくなくて、「足りすぎる」ぐらいにいろいろなことをやってくれたのに、料理で言えば「どんな食材を渡されても、シェフの自分に腕がないから何も作れないんじゃないか」と。みんなが足りないものを渡してくれようとしているのに、「結局ダメだったのはシェフ1人かよ……」と。それに気づけたことは大きかったですね。

「今あるものだけで戦えばいいんだ」

有村:でも、そのために犠牲になった子どもたちも保護者もおるわけだし、それに対してはもうずっと懺悔の気持ちがありますけど、実はそこから少し楽になったんです。「今あるものだけで戦えばいいんだ」ということに気づいて、それなら今あるものを最大限に出すしかないわけで、そうなるとやることもより整理されて、そこからは選手権も6連覇できましたからね。もちろんその間も足りないものはあるんですけど、シェフとしての腕が少しずつ上がってきたのかもしれないですし、足りないところのカバーの仕方もわかってきたのかなと。

 城西の新田(祐輔監督)とか鹿実の森下(和哉監督)も今は苦しんでいるじゃないですか。だから、彼らにはその話をしますよ。「オマエ、何で交代させたの?」「何でこういうシステムで来たの?」と聞いたら、「こうだと思いました」と答

えるので、僕は「先にオマエが動いたから、オレは『ああ、不安に感じているんだな』と思ったよ。でも、オマエがその不安そうな空気を出さなければ、オレはわからんし」と。

 それこそ初先発のヤツが出てきたら、こっちは「コイツ、やるんじゃないか?」「隠し玉持ってたんじゃないか?」と思うわけで、「でも、そういうヤツを信用し切れずに、焦って動いたりして代えてしまったら、結局は良い方に出んよね」という話をするんです。

 僕は自分たちだけが勝てばいいなんて思っていなくて、鹿児島のサッカーが強くなるためにお互いライバル心を持っていければいいと考えているので、そういう意味では最初の3年間でいろいろなことを学ばせてもらいました。その3年間の城西の監督は小久保(悟)先生で、退任された次の年にはPK戦で勝ちましたけど、小久保先生がいるうちに1回は勝ちたかったなとは思います。そ

こは心残りですね。

 勝つためにはどんなことも平気でやり切れてしまう先生なので、そういう意味では監督としての経験の差もそうですし、力量の差もそうですし、それをさんざん見せつけられました。「勝つってこんなに難しいのか」と。それまではそんなことなんて思ったこともなかったんですけどね。

アイツらが帰ってこられる場所を残しておきたい

――とはいえ、有村さんの監督就任4年目からの神村学園は、インターハイも選手権も一度も全国を逃していないというのも凄いことですよね。

有村:それはたまたまやけど、あの3年目みたいな苦しみは選手たちに味わわせたくないですよね。でも、選手たちはその頃を知らないので、こっちが必死に言っても伝わらないというか、それこそ「あの苦しみを1回味わってみろ」と言いたいけど(笑)、味わったらオシマイですし、あの頃は苦しかったなあ……。「結局ダメだったのはオレかよ」と思った時は、もうどうやってみんなにお詫びをしようかと思いましたから。うん、苦しかったです。

――今だからようやく振り返られることでしょうか。

有村:そうですね。あの時に僕の中では時間が1回止まっているんです。たまたま今はその代から橘田が活躍してくれているので、また時間が動き出してはいるんですけど、今でも複雑な気持ちはずっとあります。僕だけ前に進んでいて、アイツらをそこに残してきてしまったような感覚で、「オマエが負けさせといて、オマエだけ来年もあるのかよ」というふうに自分で思ってしまうんです。

 だから、あの時は「もう自分が退いた方がいいのかな」と思いましたけど、生き恥をさらしてでもアイツらが帰ってこられる場所として、ここを残していく方がいいのかなとも思ったんです。そこから逃げてしまうのは簡単ですけど、そのプレッシャーの中で、苦しいかもしれないけれど、アイツらが「元気にやってますよ」と帰ってきた時に、そういう場所がある方が大事なのかなとも思ったので、「自分も続けなくては」と。あの時の選手たちは本当にかわいそうでしたね。

――その時のことを思い出されたりするんですね。

有村:思い出しますね。「すいません……」って泣きながら帰ってきたからね。たぶんアイツらも負けると思っていなかったんですよ。その年は1回も城西に負けていなくて、結構圧倒して勝っていたので、負ける要素は何もなかったはずなのに、最後の選手権だけ、ね。

その瞬間瞬間を見逃さず選手の良さを伸ばしていく

――それこそ去年は福田(師王)選手や大迫(塁)選手がいて、今も西丸(道人)選手や名和田(我空)選手、吉永(夢希)選手のように国内でも名前を知られる選手が出てきていますし、神村学園のスタイルややりたいことも認知されていると思うんですけど、今の神村学園を取り巻く環境に関して、有村さんはどう感じていますか?

有村:こういうふうになろうと思ってなれるものではないと思うので、そう思ってもらえることは凄くありがたいことです。僕らとしてはやっぱり勝利というところに振れすぎずに、世の中が認知してくれるような良い選手を輩出していきながら、必然的に勝っていけることがベストだと思いますね。

「こういうふうに指導したから、こういう選手になったんですよ」なんてものはもちろんなくて、僕は高校生の間はその子のストロングをとにかく伸ばしてあげたいなと思うので、「こんなこともできないんじゃダメだよ」ということではなくて、その選手の良さだけをまずは伸ばしてあげたいんです。

 そういうことをしてきたから、今注目されているような選手たちが出てきたんじゃないかなとも思うんですよね。粗さもありますし、ダメなところもあるんですけど、そこって自分が消そうと思った時に消していけるんです。でも、良さを伸ばすことって、その瞬間でしかできないことだと思うので、自分のダメなところはやる気になった時に消しにかかればいいのかなって。そんな感じの選手とのやり取りはしているつもりですね。それがたまたまいい感じに見られているのかもしれないです。

 だって、完璧な選手なんていないですから。でも、強みを持っている選手ほど目を引くわけで、それは振れ幅も大きいというか、「アイツはこれだけダメなところもあるけど、これだけ良いところも持っておるぞ」みたいな。でも、「これだけ良い」は評価されると思うんですよね。「これだけダメ」はあとで消せばいいのかなという気はするので、だからウチは勝てなかったりするんですよ(笑)。

(本記事は東洋館出版社刊の書籍『高校サッカー 新時代を戦う監督たち』より一部転載)

<了>

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[PROFILE]
有村圭一郎(ありむら・けいいちろう)
1977年、鹿児島県生まれ。鹿児島実業高校時代に全国高校サッカー選手権大会で日本一を経験。教員も視野に入れて福岡教育大学に進学。卒業後は神村学園中等部男子サッカー部の監督を務めた。2014年に同高等部男子サッカー部監督に就任。当初3年間は勝てなかったがブレずにスタイル構築に努めると、インターハイや全国高校サッカー選手権大会の全国常連に。指揮4年目以降は全国行きを逃していない。福田師王(現ボルシアMG Ⅱ)ら全国に名を轟かせる有望選手を続々と輩出中。

[PROFILE]
土屋雅史(つちや・まさし)
1979年8月18日生まれ。群馬県出身。群馬県立高崎高校3年時には全国総体でベスト8に入り、大会優秀選手に選出。早稲田大学在学中は稲穂キッカーズに所属し、大学同好会日本一も経験している。2003年に株式会社ジェイ・スカイ・スポーツ(現ジェイ・スポーツ)へ入社。学生時代からヘビーな視聴者だった「Foot!」ではAD、ディレクター、プロデューサーとすべてを経験。2021年からフリーランスとして活動中。著書に『蹴球ヒストリア 「サッカーに魅入られた同志たち」の幸せな来歴』(ソル・メディア)がある。

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