107年ぶり甲子園優勝を支えた「3本指」と「笑顔」。慶應義塾高校野球部、2つの成功の哲学
勝つことだけがすべてではない。100年以上続く高校野球の世界で、「勝利至上主義」に一石を投じた指導者がいる。慶應義塾高校野球部監督・森林貴彦。2023年、同校を107年ぶりの夏の甲子園優勝へ導いた名将が、いま伝えたいのは「成長こそがチームの本質」という信念だ。負けにも意味を見出し、結果よりもプロセスを重んじる――。書籍『成長至上主義のチームデザイン――成長こそが慶應の野球』の抜粋を通して、勝ち負けを超えた“学びのある野球”のあり方を紐解く。今回は、野球における「考える時間」と「心を整える」重要性について。
(文=森林貴彦、吉岡眞司、写真=スポーツ報知/アフロ)
「3本指」と「笑顔」の秘密
ヒットで出塁したとき、ピンチのとき、またはチャンスのとき、慶應義塾高校野球部の選手が、3本の指を立てる姿はメディアでも何度も取り上げられたので、記憶されている人もいるかもしれません。
種明かしをすると、あのポーズの由来は以前在籍していた学生コーチが数字の3を示すとき、通常の人差し指、中指、薬指ではなく、親指、人差し指、中指を掲げていたのを面白がった部員たちが真似をするようになったというもので、残念ながらそのポーズ自体に魔法の力があるわけではありません。
しかし、彼らは自分たちで決めた3本指のポーズを「脳をナンバーワンの状態に導く(目標と目的を想起させ、さらにプラスの感情を呼び起こす)合図」として活用し、部内の共通言語として浸透させ、甲子園の舞台でもそれをうまく活用して見せたのです。
もう一つ、多くの人のイメージにある高校野球との対比で話題になったのが、「笑顔」でした。
部活中に「白い歯を見せて笑うな」というのは、かなり以前の価値観だと思いますが、それでも試合中に笑うことは、「真剣にやっていないんじゃないか?」「ヘラヘラしている」と受け取られがちです。
慶應義塾高校野球部では心・技・体の心の部分、メンタルについても早くから着目してさまざまな取り組みをしてきました。「3本指ポーズ」や「笑顔」は、メンタルトレーニングへの取り組みを象徴する代表的な例だったのです。
メンタルコーチ・吉岡さんとの出会い
目に見える技術や体力の向上だけでなく、「心を整える」アプローチの必要性を感じて協力をお願いしたのが、慶應義塾高校野球部のメンタルコーチをお願いしている吉岡眞司さんです。吉岡さんとの最初の出会いは、吉岡さんがメンタルコーチとして指導に当たっていた札幌日本大学高校との練習試合でした。同校の森本琢朗監督を介してご紹介いただいたのですが、二度目にお目にかかったときにバックネット裏でご挨拶させていただき、そのときに慶應義塾大学の出身だということも知りました。
数年後、特にコロナ禍によって、練習が制限される中で、部員同士やスタッフとのコミュニケーションが難しくなったことを契機に、「心を整える」トレーニングの必要性を強く感じるようになり、当時慶應義塾大学野球部の指導もされていた吉岡さんに相談したのです。
「考える時間」をどう使うかが重要、切り替えが大切とわかっていても、選手たちにそのことをそのまま伝えても事態は好転しません。実際にミスが起きた後の野球の試合のベンチでは「声出していこう」「切り替えていこう」という声が上がりますが、心の切り替え方や、次に向かうための準備、具体的にどうすればいいかを誰も理解していないことが多くありました。
練習でも同じですが、選手に具体的な方法を伝えず、何も準備させないまま「考えろ」と言うのは乱暴な話です。何を考えたらいいのか、考えるための材料を提示し、考え方の基本、考えるために必要なスキルを身に付けるステップを示す必要があります。
例えば、吉岡さんに指導をお願いしてからチームに定着したものに「3秒ルール」があります。エラーや三振、ミスが起きても、自分や周囲に影響を与えず、短い時間、「3秒」を目安にパッと気持ちを切り替えるためのルールです。野球では、ワンプレーを終えてから次のプレーが始まるまでだいたい15秒ほどのインターバルがあります。この15秒のうち、3秒で前向きな気持ちに切り替えて次のプレーに集中すればいいのです。
「3秒ルール」を知り、習慣づけることができれば、ミスをしたときに落ち込むのではなく、「よし、次だ」と前向きな気持ちに切り替えることができ、次に何をすべきか考える態勢にいち早く入ることができるようになります。
2つの成功をつかむメンタルトレーニングのメソッド
吉岡眞司さんには2021年8月から正式にメンタルコーチとして指導をお願いしています。現在は、人財育成・メンタルコーチとして勝敗だけ、野球だけに留まらない、心のもちよう、整え方について選手に関わっていただいています。
慶應義塾高校野球部として吉岡さんを招いて本格的にメンタルトレーニングを始めた2021年は、コロナ禍の影響が大きく、吉岡さんと選手のコンタクトも限定的で、消化不良、不完全燃焼の面もありました。2023年に夏の甲子園で優勝したチームは、立ち上げ時から吉岡さんの本格的な指導を受け、接点を多くもてるようになった最初のチームでした。
ここからは、吉岡さんの言葉で、メンタルトレーニングの基本的な理論、慶應義塾高校野球部の取り組みについてお話しいただこうと思います。
メンタルコーチ(人財教育家)吉岡眞司先生の言葉
■2つの成功をつかむ(吉岡先生執筆パート)
読者のみなさんは、私が慶應義塾高校野球部にどんな魔法をかけたのか、どんな変化をもたらしたかに興味をおもちだと思います。しかし、どんな優れた理論も完璧な方法論も、それを実行する人の取り組みや姿勢によって、うまくいったりうまくいかなかったりします。
私が指導の柱に置いているSBT(スーパーブレイントレーニング)とは、日本のイメージトレーニング研究・指導のパイオニアと称される西田文郎先生が
20年の歳月をかけてつくられた大脳生理学と心理学に裏付けられたメンタルトレーニング理論です。その特徴は、感情をセルフコントロールし、ここぞという場面でもパフォーマンスをしっかり発揮できる状態をつくるための、脳から心を鍛えるトレーニングプログラムであり、勝負に勝つことを目的につくられたものではなく、「真の成功」をつかむための人として成長するためにつくられたトレーニングプログラムなのです。
SBTの定義する「真の成功」とは、「社会的成功」と「人間的成功」の2つの成功を同時につかむことで達成されます。1つ目の成功「社会的成功」とは、収入や地位、肩書きといった可視化が可能な成果を得ることを指すことが多く、野球部で言えば「試合での勝利」「甲子園出場」「日本一」といった自分たちの目標を達成したときに得られるものです。成し遂げたときに周囲から「おめでとう」と声をかけられます。
もう1つの「人間的成功」とは、使命感や志が達成したときや何のために目標を実現させようとするのかという目的が果たされたときに得られるもので、周囲から「ありがとう」と声をかけられます。言い換えると、どれだけ組織やチーム、周囲の幸福に貢献できたかに焦点が当たるものです。慶應義塾高校野球部の「社会的成功」は、「KEIO日本一」という目標が実現したときに、「人間的成功」は、チーム目標を実現させる目的、「恩返し&常識を覆す」を達成するために、部員一人ひとりが各々の立場に応じて、いかに貢献するかを考え、その役割を果たしたときに得られるものなのです。レギュラーとして試合に出場し、活躍して日本一に貢献する選手もいれば、ベンチで精神的にチームを支える選手、バッティングピッチャーやマネージャーとして、陰でチームを支える人など、部員全員が対象になるのです。
「日本一になるため」や「優勝を目指して」という「社会的成功」を目標にするだけでなく、チームがその目標を達成するために自分は何をすべきかを考えて行動する「人間的成功」の両方を目指すのが「真の成功」というわけです。
■「真の成功」とセルフコントロール(吉岡先生執筆パート)
高校野球における甲子園は華やかな舞台ですが、たとえそこに立てなかったとしても、それぞれの役割でチームをサポートすることで、「人間的成功」は果たされます。野球に関わらず、すべてのことは、表に立つ人だけで成し遂げられるものではなく、裏方として支える人、表には見えづらいけど確実に必要で有用な役割を果たす人も一体となって成り立ちます。
優勝したスポーツチームのレギュラー選手たちが、控えのメンバーや、ベンチメンバーから外れた選手に「お前たちのお陰だ」と、感謝するシーンをよく見かけます。あの感謝の言葉は、それぞれが役割を全うしたからこそチームが一枚岩になり日本一を勝ち取れたという心からの思いを表した言葉なのです。つまり、部員全員が「社会的成功」と、「人間的成功」の両方を得たという証なのです。
「社会的成功」と「人間的成功」の両方をつかむためには、逆境や困難な局面に何度も直面するものです。目標や目的が高ければ高いほど、実現するまでにいろいろと苦しいことにぶつかることでしょう。しかし、そこでくじけてしまったら真の成功はつかめません。
そんな時に、パフォーマンスを最大限発揮できるようにするには、脳の状態を整え、感情をセルフコントロールする必要があります。それを実現する術として、私がお伝えしているのが、SBTという脳から心を鍛えるメンタルトレーニング理論なのです。
(本記事は東洋館出版社刊の書籍『成長至上主義のチームデザイン――成長こそが慶應の野球』から一部転載)
【第1回連載】勝利至上主義を超えて。慶應義塾高校野球部・森林貴彦監督が実践する新しい指導哲学「成長至上主義」
【第2回連載】「高校野球は誰のものか?」慶應義塾高・森林貴彦監督が挑む“監督依存”からの脱出
【第4回連載】高校野球の「勝ち」を「価値」に。慶應義塾が体現する、困難を乗り越えた先にある“成長至上主義”
【第5回連載】監督が口を出さない“考えるチームづくり”。慶應義塾高校野球部が実践する「選手だけのミーティング」
<了>
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[PROFILE]
森林貴彦(もりばやし・たかひこ)
1973年生まれ、東京都出身。慶應義塾高校野球部監督。慶應義塾幼稚舎教諭。慶應義塾大学卒。大学では慶應義塾高校の大学生コーチを務める。卒業後、NTT勤務を経て、指導者を志し筑波大学大学院にてコーチングを学ぶ。慶應義塾幼稚舎教員をしながら、慶應義塾高校野球部コーチ、助監督を経て、2015年8月から同校監督に就任。2018年春、9年ぶりにセンバツ出場、同年夏10年ぶりに甲子園(夏)出場。2023年春、センバツ出場、同年夏に107年ぶりとなる甲子園(夏)の優勝を果たす。
[PROFILE]
吉岡眞司(よしおか・しんじ)
盛和塾と前職日本航空にて稲盛和夫氏に師事し学んだ人間学を基に、大脳生理学と心理学に基づいて確立された、脳から心を鍛える『SBTスーパーブレイントレーニング』や怒りの感情に向き合い対処する『アンガーマネジメント』などをミックスさせ、独自のプログラム『WIN Program』を確立。大手企業等国内外支店での社員教育・研修をはじめ、本番で能力を最大限に発揮するメンタル形成と目標達成に燃える個人や組織・チームの指導を、お客様のニーズに合わせて、コーチングスタイルにて伝える指導スタイルに定評がある。慶應義塾高等学校野球部では、2021年8月から、メンタルコーチを務め、現在は慶應義塾体育会野球部、慶應義塾高等学校野球部の人財育成・メンタルコーチとしてチームに深く関わる。慶應義塾体育会野球部の全日本大学野球選手権大会優勝、明治神宮野球大会(大学の部)優勝のほか、箕面自由学園高等学校チアリーダー部のJAPAN CUP チアリーディング日本選手権大会6年連続25回目の日本一、中村学園女子高等学校剣道部の全国高等学校総合体育大会剣道大会団体戦2年連続8回目の日本一など実績多数。慶應義塾大卒。一般社団法人能力開発向上フォーラム代表理事、SBTアスリートメンタルコーチ&1級メンタルコーチ。
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