セメンヤは“公平”のために薬で男性ホルモンを下げるべき?「私たちを薬漬けにはできない」

Opinion
2019.06.25

女子陸上界において輝かしい実績を持つキャスター・セメンヤは現在、国際陸上競技連盟(IAAF、国際陸連)との長い闘いの最中にいる。
2018年4月、国際陸連が「テストステロン値が高い女性の出場資格を制限する」「参加する場合は薬などでテストステロンを人為的に下げること」という新規定を導入すると発表。これに対しセメンヤはスポーツ仲裁裁判所(CAS)に上訴し、CASはその訴えを棄却。迎えた今年5月、セメンヤはスイス連邦最高裁判所に上訴し、同最高裁は裁定が下るまで薬投与による制限を一時保留とする判断を下した。
この一連の騒動で世界中から注目を集める彼女が抱く、「自分の存在を否定させないための闘い」について考える。

(文=小林恭子 写真=Getty Images)

(2019年6月28日)一部、配慮に欠ける表現があり、該当箇所を削除しました。

輝かしい記録と「公平ではない」との烙印

南アフリカ出身の陸上選手キャスター・セメンヤは、女子800mで五輪2連覇(2012年ロンドン、2016年リオデジャネイロ)の輝かしい記録を持つ。世界陸上選手権では2009年にベルリン、2011年に韓国・大邱、2017年にロンドンでそれぞれ金メダルを獲得。世界でもトップ中のトップと言えるだろう。

しかし、ここ10年ほど、セメンヤは選手として達成した記録以上に世界中で大きな注目の的となった。それは、彼女のテストステロン値が平均的な女性の何倍にも上り、「他の女性選手に公平ではない」という理由から、これを抑制するようさまざまな圧力がかけられているためだ。

五輪や世界陸上などいわゆる「エリート・スポーツ」と呼ばれる競技では、あらゆる合法的な手段を講じて他者と差をつけるためにしのぎを削る世界だ。そんな世界に「他の選手と公平になるように」という理由から抑制を求められること自体が異例とも言えるが、これまでは常識とされてきた、男性と女性に分かれてそれぞれが競うことの自明性が問われている。さらに、広くは、一体どこからどこまでが男性で、どこからが女性と言えるのかについて、私たちは考えざるを得なくなった。

女性として育ってきたセメンヤ

これまでの経緯を簡単に振り返ってみよう。

セメンヤは1991年、ボツワナとの国境に近い南アフリカ・リンポポ州の村で生まれた。5人兄弟のうちの一人で、女性として生まれ育ったものの男の兄弟たちと戸外で遊ぶことを好んだという。

子どものころからスポーツに抜群の才能を見せ、世界的にその存在が知られるようになったのは、2009年7月。当時18歳で、アフリカ陸上ジュニア選手権の女子800mで自己記録を塗り替えてトップの座に立った。

その後世界陸上選手権に出て女子800mで金メダルを獲得するが、主催者の国際陸上競技連盟(IAAF、国際陸連)は通常のドーピング検査と称してセメンヤに性別検査も行っていた。

国際陸連は検査の結果を正式には発表していないが、セメンヤは「インターセックス(性分化疾患とも呼ばれる)」で、平均的な男性と比べて3倍以上のテストステロン(男性ホルモンの一種)を分泌しているという。今後もセメンヤが女性として競技に参加できるかどうかが危ぶまれた。セメンヤにとって、このような検査が自分に告げられずに行われていたとは、さぞや衝撃だったに違いない。

しかし、2010年7月、国際陸連はセメンヤに女性枠の中での競技参加を正式に認め、ひとまずは一件落着に見えた。

人為的にテストステロン値を下げるように言われて

しかし、国際陸連がテストステロン値の高い女性に対しその姿勢を寛容にしたわけでもなかった。2015年には18歳のディティ・チャンドのテストステロン値が高すぎるという理由で競技への参加を禁止している(チャンドの控訴により、禁止はのちに撤回)。

2017年、国際陸連は「ジャーナル・オブ・スポーツ・メディシン」という雑誌にテストステロン値の高い女性選手は「競技上の優位性を持っている」とする調査を寄稿した。値の低い女性選手と比較して、高い選手は1.8%から4.5%の優位性を持つという。この優位性が発揮される競技として、400m、400mハードル、800m、そして棒高跳びが挙げられた。

2018年4月、セメンヤにとって屈辱的なニュースが待っていた。国際陸連が、「テストステロン値が高い女性の出場資格を制限する」という内容の新規定を11月から導入する、と発表したのである。規定の対象者は400mから1マイル(約1500m)を走る選手で、まるでセメンヤを特定したかのようにも見えた。競技に参加する場合は、競技開催の半年前から薬などでテストステロンを人為的に下げることが義務付けられた。

筆者はこれを聞いて、英国の数学者アラン・チューリング(1912~1954年)を思い出した。チューリングは第2次大戦中にドイツ軍の暗号エニグマを解読し、対独戦争を勝利に導いた人物である。当時、違法であった同性愛行為を行ったとして有罪となったチューリングは、入獄か保護観察かの選択を迫られ、後者を選択。性欲を抑えるためにホルモン注射をしなければならなくなった。1954年6月、自宅で死亡。死因審問は自殺という判断を示した。
セメンヤのテストステロン値の高さに、競合する女性選手が不当感を感じる点については、筆者自身も理解できないわけではないが、持って生まれた自分の体や性を自分の意思に反して「薬などで抑制する」のはどうなのか。筆者は人権擁護の立場から、割り切れない思いがする。

2018年6月、セメンヤと南アフリカ陸連は、規定の無効を求めて、スポーツ仲裁裁判所(CAS)に訴えた。

今年5月1日、CASは、国際陸連の新規定を容認し、セメンヤらの訴えを棄却した。

しかし、セメンヤがスイス連邦最高裁判所に上訴し、6月3日、スイス最高裁は当面の間、男性ホルモンのテストステロン値を人為的に下げなくても競技に参加できることを認める仮決定を下した。国際陸連はあきらめず、最高裁に対しその判断を覆すよう求めたが、13日、最高裁はこの訴えを却下した。

セメンヤは、「国際陸連の新規定に女性たちは屈服させられるべきではない。すべての女性が自由に走ることができるまで、自分が800mの競技には参加しない選択肢を随分と考えてみた。でも、今は、国際陸連に対し、私たちを薬漬けにはできないこと示すために走りたい」と述べている。

<了>

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