サニブラウンは本当に「急に」速くなったのか? 9秒台連発の“走り”を紐解く
9秒台の争いに突入すると注目を浴びた陸上の日本選手権・男子100m。決勝は、今季2度、9秒台を出している現日本記録保持者、サニブラウン・ハキーム(フロリダ大)が勝利。
“日本最速”どころか、さらなる進化を期待させる走りを見せた。サニブラウンはなぜ急に記録を連発するようになったのか? ライバルたちと何が違うのか? 理論派ランニングコーチ、細野史晃氏に「走りのメカニズム」という観点から聞いた。
(構成=大塚一樹[REAL SPORTS編集部]、写真=Getty Images)
「急に」でも「驚き」でもないサニブラウンの9秒連発
「記録という意味では『急激に』と、その成長過程に驚くかもしれませんが、ポテンシャルと技術の変遷、走り方の変化を細かく見ていけば、今季の結果は『急に』でも『驚き』でもありません」
連載『理系のお父さん・お母さんのためのかけっこ講座』でもお馴染みのランニングコーチ、細野史晃氏は、5月に9秒99のタイムを叩き出して10秒の壁を破り、6月には9秒97の日本記録を樹立したサニブラウン・ハキームの成長をこう語る。
「188㎝の長身ということもあって体格に注目が集まりがちですけど、サニブラウン選手はもともと技術で走るタイプ。パワーや体格、ストライドといった目に見える要素ではなく、そこで得た加速力、推進力を効率よくスピードに変換する動きにその良さが集約されています。身体的成長も落ち着いたところで、本来の持っていた“重心移動の上手さ”が加速力につながった。9秒台への突入はフォームや動き方の変化の賜物です」
サニブラウンが、『速く走れる理由』は技術にある。アメリカでの科学的トレーニングで一気に開花したとする説もすでに見られるが、細野氏は体格や環境の変化に加え、技術的な成長がサニブラウンを「9秒台は出て当たり前」の選手に変貌させたという。
6月末に行われた日本選手権では、9秒台こそ出なかったが、桐生祥秀(日本生命)、小池祐貴(住友電工)を抑えて貫禄の優勝。200mでも、2018年のアジア大会を制した小池、桐生を従え、見事短距離二冠を達成した。
日本選手権での走り、ライバルである桐生や小池と比較しながら、サニブラウンのスピードの源、走りのメカニズムについて詳しく見ていこう。
終盤加速の秘密は“ゆったり”としたスタートに
「日本選手権の“勝敗”だけにフォーカスするなら、サニブラウン選手が自分の走りに徹することができたのに対して、桐生選手は走りにズレが生じてしまった。そこを修正できたのは素晴らしいのですが、その分遅れをとってしまいました」
サニブラウンの勝因について“走り方”に焦点を当てて決勝を分析すると、「スタートで焦らずにゆったり、しっかりと加速した」ことに尽きるという。
100m、約10秒という距離と時間のなかで、「ゆったり」は奇異なワードにも思えるが、たしかにサニブラウンの走りは、周囲よりゆったりとして見えた。
「スタートから10mまでは桐生選手、小池選手の方が先行していました。ここまでは、懸命に手足を動かす両選手に勝機ありと見た人もいるかもしれません。しかし、ゆったりとした動きでスタートできたことが、結果的に終盤のサニブラウン選手の加速につながっていたのです」
その後も40m地点までは三者横並び。しかし、距離が進むにつれてサニブラウンの加速力が他を圧倒することになる。ライバルである「日本人初の9秒台ランナー」桐生は、走法の違いを考慮してもスタート時から「速く動こう」という意識が強すぎて効率的な走りができなかったと細野氏は指摘する。
「速く動くこと、手足を速く動かすことが必ずしも“速さ”に直結しないのが走るという運動の難しいところ。スタート後の各選手の姿勢を見てもらうとわかりますが、桐生選手、小池選手はスタートから比較的早く上体が起き上がっています。一方のサニブラウン選手は、スタートから40mを過ぎても上体を起こすことなく、“頭を前に落としながら”進めています」
「頭を前に落としながら」とは独特の表現だが、「走ること=自分の重心を前に移動させる運動」のことである以上、効率よく加速するためには絶えず進行方向に体重移動を続けるのが速く走るために必要な動きになる。
細野氏は、「筋肉で手足を素早く動かす力より、頭の重さを使って推進力を得る方が加速においては重要だ」と解説する。
「桐生選手はスタート時に手足を早く動かす意識が強すぎて上半身、つまり頭がいつもより早く浮き上がってしまいました。手足が早く動いている分、見た目には速く走れそうに見えるのですが、そこで生まれたエネルギーは生まれた先からどんどん減っていきます。一方、サニブラウン選手はスタート時から頭の重さを推進力に変えられる位置にキープし、終盤の加速につなげていました」
ゆったりした動きで体重移動をうまく使ったサニブラウンと、回転数を上げることを意識しすぎて物理的なエネルギーを得られなくなった桐生。
「前半は下手をしたら『重そう』に見えるサニブラウン選手が、レース終盤では誰よりも軽やかに走っています。桐生選手にメンタル的な意味での『焦り』だけでなく、物理的にも『速く動きたいという焦り』が見えたことが終盤の加速の差、レースの結果、0秒14というタイム差になって表れました」
身長、体格、ストライドの差だけではないサニブラウンの可能性
サニブラウンの速さを科学的に分析するという話になると、身長188㎝の体格を活かした大きなストライド、一歩の歩幅と歩数が話題に上る。門外漢にも納得しやすいサニブラウンのアドバンテージのような気がするが、細野氏によれば、「一歩が大きいから速く走れる」という単純な話ではないという。
「歩幅、歩数についても結果的にそうなっているというのが正しいですね。身長が高くて足が長いから速く走れる、という話ではもちろんありません。サニブラウン選手は、スタートからの加速時に足ではなく、上半身の体重移動を効果的に使って推進力を生み、その力のロスを終盤まで最小限に抑えてスピードを持続しているのです」
速く走るための力学的なメカニズムについては、細野氏の連載を参照していただきたいが、重心の移動に関して、もっとも理に適った動きをしているのがサニブラウンだと細野氏はいう。
「これまでのサニブラウン選手の走りを見てきたなかでは、2015年、世界ユース選手権の100m、200mを制したときの走りが体重移動という観点から、もっとも素晴らしい走りでした。実際200mの記録は(ウサイン・)ボルト氏の持つ大会記録を上回ったわけですから、タイムにも表れていますよね。
その後、体格の変化、成長、筋力の増加など出力に関するバランスが変わり続け、フォームも大きく変わっていきます。2018シーズンは、ケガの影響でほとんどレースに出ていませんでしたが、ケガが癒え、体格や成長にフォームがアジャストしたことで、『いまの自分がもっともスムーズに体重移動を行える感覚』が身に付きつつあるのではと推測します」
サニブラウンはどこまで速くなるのか? 本人も語っているように「まだまだもっといい記録が出る」という手応えも、自分の感覚と結果、タイムが連動してきている証拠なのかもしれない。
「9秒97の日本新記録を出したときは、本人も『もうちょっと速く走れたかなと思っていた』と語っていましたよね。あのときは、“走り方”だけを見れば、手足に近いところで速く動いているなと感じました。ゴール手前で伸び切れていないのにあの記録ですからね。走りとしてはタイムで劣る今回の日本選手権の決勝の方が良かったと思います」
サニブラウンと「走り」について会話を交わしたことがあるという細野氏によれば、サニブラウンは「こう走りたい」という理想があるというより、速く走るためにどうするかを考えられる選手、優れた感覚を持ちながら理論も理解できるタイプだという。
「9秒8は確実、9秒7台も視野に入る。ドーハで行われる世界選手権でも記録と結果、両方を期待してもいい」
サニブラウンには日本やアジアという枠を飛び越え、女子走幅跳の金メダリスト、ティアナ・バートレッタ、三段跳で世界新を狙うクリスチャン・テイラーらのフロリダ大学の先輩、100m9秒74の記録を持つジャスティン・ガトリンら世界中の一流アスリートがそのポテンシャルを認め、大きな期待を持ってその成長を見守っている。
「なぜ急に結果を出せるようになったのか?」と驚いている場合ではない。実は、先月の日本選手権200mで優勝したサニブラウンのタイムは、15歳で世界ユースを制した際の記録より0.01秒遅い。
サニブラウンは「急に」速くなったのではなく、もともと驚異的なポテンシャルを持っていて、それはまだまだ十分に活かされているとは言い難いのが実情だ。つまり、私たちはこれから、サニブラウンの本当の実力を目撃することになるのだ。
「理に適った重心移動でスムーズに走りつつ、まだまだ荒削りなところも見える。20歳という年齢と、彼の探究心からいって、まだまだ大きな変化、進化を遂げるのは間違いないでしょう。当然その先には100m、200mでのメダルも見えてくるはずです」
<了>
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PROFILE
細野史晃(ほその・ふみあき)
Sun Light History代表、脳梗塞リハビリセンター顧問。解剖学、心理学、コーチングを学び、それらを元に 「楽RUNメソッド」を開発。『マラソンは上半身が9割』をはじめ著書多数。子ども向けのかけっこ教室も展開。科学的側面からランニングフォームの分析を行うランニングコーチとして定評がある。
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