
ネイサン・チェン、圧巻の世界3連覇の原点。“永久に忘れない失敗”から学ぶ聡明さ
圧巻だった。場の空気を支配するかのように、全てを凌駕した。世界選手権3連覇という結果以上の衝撃を世界に見せつけた。
ネイサン・チェンは、なぜこれほどまでに強いのか? その原点は、自身が「永久に忘れることがない」と回顧する出来事にあった――。
(文=沢田聡子、写真=Getty Images)
世界選手権フリーで見せつけた“完璧な4分間”
静かに流れ始めた旋律に乗り、冒頭で決めた美しい4回転ルッツが、圧巻のフリーの幕開けだった。現状試合で組み込まれているジャンプの中で一番難しいとされている4回転ルッツを、ネイサン・チェンはこの2021年世界選手権(スウェーデン・ストックホルム)のショート、また全米選手権のフリーでも失敗している。しかしショート3位と出遅れた今季最も重要な大舞台のフリーで、チェンはそのジャンプを軽々と跳び、余裕を持って着氷した。3.94の加点を得た跳躍から始まった『フィリップ・グラス セレクション』は、世界選手権3連覇を果たすことになるチェンのすごみが凝縮されたプログラムとなる。
2つ目のジャンプとなる4回転フリップ―3回転トウループもきれいに決めたチェンは、3回転ルッツをまるでステップのように楽々と跳び、4回転サルコウも成功させる。いずれもレベル4を獲得した2つのスピンとステップシークエンスを挟み、勝負を決める後半のジャンプに入っていく。
まず4回転トウループ―シングルオイラー―3回転フリップ、続いて4回転トウループ―3回転トウループを決める。当日の朝に行われた公式練習の曲かけでチェンが唯一転倒したのが、最後のジャンプとなるトリプルアクセルだった。しかしそのトリプルアクセルを加点のつく出来栄えで成功させると、チェンはいつもの冷静さとは裏腹に感情をむき出しにする。
熱い表情で入ったコレオシークエンスは、音楽の高まりと相まって、見る者を引き込む迫力に満ちたものとなった。黒の衣装に包まれた脚で空気を切り裂くような鋭いステップを踏み、スピンをシャープに回り切ったチェンは、両手を上げて完璧な4分間を終えている。
ショートで崩れるも前向きな発言「失敗は起こるもの」
この世界選手権のショートプログラムで、チェンは珍しく脆さを見せた。冒頭の4回転ルッツで転倒すると心なしか失速したようになり、スピンでもレベルを取りこぼす。しかし、その後に予定していた4回転トウループを4回転フリップに変え、後ろに3回転トウループをつけて成功させたのは、チェンにしかできないリカバリーかもしれない。絶対の自信を持っていなければ、ショートで欠かせないコンビネーションのファーストジャンプとして、しかも演技後半に4回転フリップを跳ぶことはできないだろう。
演技後、チェンはコロナ禍により国際大会が大幅に少なくなった今季、今大会に出場できる喜びとともに、久々の国際大会だからこその難しさも語っている。
「国際大会に出場することは挑戦的なことです。移動や時差ぼけなど、国内の大会とは違うことがたくさんあります」
しかしチェンは彼らしく「何も不満はありません。このような機会を得られたことはとても幸運で、恵まれています」と大会に出場できた感謝を重ねて強調し、前向きにショートを振り返った。
「プログラム自体については、残念な結果でした。出だしで大きな失敗をしてしまいました。これは異例とまではいいませんが、普段の自分にはないことです。その直後にどうやって巻き返すか考え出さなければならず、プログラムの出だしとしては理想的ではありませんでした。しかし失敗は起こるものですし、そこから学んで前進する機会を得られたことをうれしく思います」
「あんな経験はもう二度としたくない」。精神面の成長の理由
現在は圧倒的に強い印象があるチェンだが、18歳でメダルを期待されて臨んだ2018年平昌五輪のショートでミスをし、17位と出遅れたことはよく知られている。しかし、新しい一日だと思って滑ったというフリーでは1位となる会心の滑りを見せ、総合でも5位まで巻き返した。その約1カ月後に行われた世界選手権(イタリア・ミラノ)でショート・フリーとも1位となり完全優勝を果たしたチェンは、平昌で学んだことを語っている。
「五輪のショートの経験は、永久に忘れることがないと思います。あんな演技はもう二度としたくないですし、たくさんのことを学びました。でも、もし五輪のショートでそれなりの演技をしていたら、きっと気付かないままスケーター人生を終えていたことがたくさんあったでしょう。僕のスケート人生で一番の衝撃の演技でした。あの経験のおかげで、ミラノの世界選手権では何事にも左右されずに自分に集中し、コントロールすることができました。試合前には何をしたらダメか、どんな考え方をするべきか、といった経験を生かしました。この経験は、永遠に僕の力になっていくことと信じています」(キャノン・ワールドフィギュアスケートウェブより)
体操で身に付けた体幹の強さや、バレエで培った美しい体の線など、チェンの強さはさまざまな長所に支えられているが、精神的な面では失敗から学ぶ賢さが成長を促していることは間違いないだろう。チェンにとり、ミスはそこから教訓を得て前進するまたとない機会なのだ。
2年前の世界選手権で発揮されていた、チェンの強さ
2019年世界選手権(日本・さいたま)では、チェンが身に付けた強さが発揮された。ショートで首位発進したチェンのフリーでの滑走順は、羽生結弦の直後だった。ショート3位と出遅れたもののフリーで渾身(こんしん)の演技を見せた羽生には、さいたまスーパーアリーナを埋め尽くした大観衆から歓声が降り注いだ。リンクはファンが投げ込んだプーさんでいっぱいになり、回収するフラワーガールが右往左往している。そんな中に登場したチェンだが、この状況にも心構えができていた。羽生が生み出した熱狂にのまれることなく、4本の4回転をクールに決め、クリーンなプログラムを滑り切って完全優勝を成し遂げたのだ。
2019年世界選手権のメダリスト会見で中央に座ったチェンは、フリーでリンクに入った時のことを振り返っている。
「日本で結弦とこの場所に一緒にいられることは、とても光栄です。彼が会場を盛り上げ、みんなを立ち上がらせ、クレイジーな雰囲気にすることを期待していました。そして、まさにその通りになりました。幸い、プーさんたちはリンクの片側にいたので、私は中央で滑ることができました。全てが片側に集中していました。観客が私たちを気に掛けてくれていること、そしてスケートを心から愛してくれていることに驚きを感じます。氷がプーさんで埋め尽くされていたことは、観客がどれほどスケートに情熱を注いでいるかを表していました。彼には大きな反響があって、その後、私が滑った時も、それよりは少なかったかもしれませんが、同じように応援してくれました。これは本当に素晴らしい感覚です。それが、私がスケートを愛する理由なのです」
これから演技を行うリンクを埋めた無数のぬいぐるみを、観客のスケートへの愛情としてプラスに捉えられるのは、チェンの人徳であると同時に強さでもある。失敗から学んで身に付けたメンタルコントロールが、2年後の世界選手権3連覇につながったのだ。
北京五輪で悲願の金メダルへ、さらなる進化
21歳で迎えた2021年世界選手権で優勝したチェンは、あらためてコロナ禍のシーズンに世界選手権に出場できたことへの喜びを口にしている。
「前例のない1年を経て、この世界大会に参加できたことは、とても幸せなことです。今はとても興奮しています」
「ここにいることを楽しもうと、自分に言い聞かせるようにしました。あと何回世界大会に出られるか分からないということを……この瞬間を抱きしめて、忘れないようにしました」
チェンは、「また4回転ルッツを失敗したくなかった」「『ルッツを成功させて、次に進もう』と思っていました」と述べている。
「アスリートとして、私は常に学び、向上しようとしています。(3位の)羽生結弦選手のようなベテランでスケート界のアイコン的存在であるレジェンドからも、(2位の)鍵山優真選手のような新進気鋭の選手からも、学べることはたくさんあります」
イェール大学に通う優秀な学生でもある(現在は休学)チェンのスケーターとしての強さは、どんな状況も学びの機会として前向きに捉える賢明さから生まれている。
「オリンピックシーズンがどのようなものになるかは分かりませんが、楽しみです」
優勝候補として臨む2022年北京五輪は、チェンにとって平昌五輪での学びを生かす最高の舞台となるはずだ。
<了>
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