400mリレーのバトンミスはなぜ起きた? 専門家が分析、史上最速の日本短距離陣を蝕んだ“惨敗”の深層
名実ともに「史上最速」の布陣で臨んだ陸上男子短距離陣だが、個人種目では100、200mに出場した6人全員が予選敗退。捲土(けんど)重来を期した400mリレーでも、バトンミスで途中棄権という結果に終わった。物理や解剖学、生化学などの観点からランニングフォームを科学的に解析しているランニングコーチ、細野史晃氏は、このバトンミスの背景には「男子短距離陣の不調」があり、金メダル以外は狙わないという賭けに出た結果だったと語る。単なる「ミス」で片付けられないバトンミスはなぜ起きたのか?
(解説=細野史晃、構成=大塚一樹[REAL SPORTS編集部])
正確無比、バトンワークで金メダルを目指した日本がなぜ?
真新しいトラックで白熱のレースが進む中、日本の第3走者・桐生祥秀と第4走者の小池祐貴は、ライバルたちが通過していく様子をただ眺めるしかなかった。
パーソナルベストに9秒台を持つ実走メンバーは3人。山縣亮太、飯塚翔太、桐生祥秀、ケンブリッジ飛鳥で挑んだリオ五輪時に40秒52だったシーズンベストの合計も、今大会では40秒21。躍進目覚ましい男子短距離陣は、リオで得た銀メダル以上の成果を求めてレースに臨んだはずだった。
タイムの上では間違いなく史上最速の布陣で臨んだ男子400mリレー決勝は、バトンミスでリレー終了というなんとも不完全燃焼な結果に終わった。
日本の400mリレーのバトン技術の高さはすでに世界にとどろいている。2000年のシドニー五輪で6位に入ると、アテネ五輪では4位、北京五輪では銀メダル、ロンドン五輪4位、リオ五輪では再び銀メダルと、5大会連続で好成績を残し、その間、世界とはまだ開きのある持ちタイム合計の差を埋めるべく、バトンの技術、利得タイムを伸ばすためにギリギリを攻めながら、バトンミスなしという正確性を培ってきた。
史上最速メンバーで挑んだはずの今回、なぜミスは起きたのか? 科学的視点からフォームを分析するランニングコーチ、細野史晃氏は今回のバトンミスは、誰かの過失による「ミス」ではなく、「北京とリオ以上の金メダルを狙ったがゆえのチャレンジングな設定、100mをはじめとして、日本短距離陣が思うような結果を残せなかったことによる心理的要因、さらに、実際の決勝では、多田選手、山縣選手ともに、自分たちが思っていたよりも速かった」ことなどが複層的に重なった結果起きてしまったものだという。
リオ五輪前、リレーメンバーのシーズンベスト、パーソナルベスト
山縣亮太 10秒05
飯塚将太 10秒36 10秒22
桐生祥秀 10秒01
ケンブリッジ飛鳥 10秒10
合計 40秒52
東京五輪前、リレーメンバーのシーズンベスト、パーソナルベスト
山縣亮太 9秒95
桐生祥秀 10秒12 9秒98=2017年
小池祐貴 10秒13 9秒98=2019年
多田修平 10秒01
合計 40秒21
日本が採用するアンダーハンドパスのメリットは安全性と加速力
「これまで日本の400mリレーがバトンミスなく、オリンピックなどの大会で好結果を出してこられたのは、リレーメンバーがバトンの練度を高めるために合宿などで数をこなし、あうんの呼吸をつかんだり、各種のデータに基づいて選手の最高速度を引き出すマーク位置を算出したりと、他の国がやらないような努力を積み重ねてきた結果でした」
日本と世界の違いでいうと、日本は世界でも少数派のアンダーハンドパス、中でも独自に進化させたバトンシステムで4人の単純な100mの合計記録以上の結果を出し続けてきた。
渡し手と受け手が腕を目いっぱい伸ばすことで距離を稼ぐオーバーハンドパスに対して、日本が採用するアンダーハンドパスは、互いの距離を詰めてバトンを受け渡す。
前者には距離を稼げるというメリットが、後者には受け手がバトンをもらった後にスムーズに加速できるというメリットがあるという。またオーバーハンドパスはお互いの距離が遠い分、一度ミスをしたら修正は利かず、一方のアンダーハンドパスは最初のタイミングが合わなかったとしても、2回目のチャンスでバトンを渡せる可能性がある。
「この二つのバトンパスは一長一短なのですが、流れるようにスムーズなパスで減速を限りなく抑え、次走の加速につなげていくバトンパスは、世界からまねしたくてもそう簡単にまねできない技術と称賛されていたのです。2019年の世界リレーでは、3走・小池、4走・桐生のところでミスが起きていますが、逆にこれが驚かれるくらいミスが少なかった」
比較的ミスの可能性が低く、修正も利くアンダーハンドパス、しかも日本が練りに練った「伝家の宝刀」であるバトンパスがなぜミスになり、バトンをつなぐことができなかったのか?
「勝負」どころか「賭け」の領域にあったマーク位置
「一つは、すでに多くの人が指摘しているように、マークの位置の変更にあると推測できます。リレー種目では、自分の足の長さ(シューズの縦幅)をものさしにして、『前走の選手がここを通過したらスタートを切る』という位置にテープを貼ります。これを『マーク』と呼んでいるのですが、このマークの位置の調整は、通常、自分やチームメンバーの調子によって、あらかじめ決めた基準の一歩、半歩分など微妙な調整をしていくのです」
この歩数によるマーク調整は、データによって導かれた基準点から、安全策、勝負をしなければいけないときの位置の歩数など数パターンあるが、今回日本チームが共通して選択したのが、勝負以上の「金メダルを狙う賭け」に近いマークだった可能性があるという。
「リオ五輪でも、日本選手たちのマークは、『勝負にいった』といえるものだったはずです。その証拠に、山縣→飯塚の1走、2走間では、ヒヤッとする場面がありました。この時は、なんとかバトンを受け渡すことができたのですが、今回はそれ以上に攻めたマークにしていたのかもしれません」
マーク位置の調整については本人たちに確認しないとわからないが、山縣はレース後に「勝負にいった結果」と語り、桐生も「攻めてこうなった」、小池は「優勝を目指していくためには攻めたバトンでつなげばいけるという気持ちで決勝に臨んだ」と振り返っているだけに、自分たちでも限界を超えるようなカリカリのセッティングでマーク位置を決めたのは間違いないだろう。
遠かった二人の距離「切り取り」で責任は語れない
「ギリギリを攻めるということにもつながるのですが、今回のミスが起きた受け渡しを見てみると、『お互いに近い位置で確実性を高めた上でバトンパスができる』というアンダーハンドパスの利点を犠牲にして、距離を遠ざけたままバトンパスを行おうとする意図が感じられました」
細野氏が挙げるもう一つの要因は、多田と山縣のバトンパス実行の際の距離にある。報道で配信された写真をもとに、『どちらのせいだ』という議論も起こっているが、瞬間を切り取って、タイミングや腕の高低で責任を語るのは無理がある。アンダーハンドパスはある程度の修正と再チャレンジが可能な方法だが、少しでも距離を稼ぐために、遠くで受け渡そうとしたために、この修正や再チャレンジが難しくなったというのが、結果的にバトンが途切れてしまった要因というわけだ。
想定外に調子が良かった多田と、「速すぎた」山縣
この多田と山縣の距離感の問題は、次に細野氏が挙げた要因とも関わってくる。
「個人で戦った100m、リレーの予選を通じて、日本の選手たちは、自分たちの調子がパーソナルベストはおろか、シーズンベストにも遠いことを自覚したはずです。だからこそのマーク位置のギャンブル、距離を離してでも金メダルをというマインドになったと思うのですが、1走の多田選手は、明らかに速かった。多田選手らしい低いスタートから、スムーズに加速できていました」
多田の好スタートがどんな誤算を生んだのか?
「マーク位置の決め方でも、自分とチームメイトの調子を判断して決めると言いましたが、リレーでは、前走の調子やタイムを想定することも重要なのです。山縣選手にしてみれば多田選手が思ったより速かった。そのことで賭けのセッティングでも安心してスタートを切れたんだと思います」
多田が速い分には、ギャンブルともいえるマークが生きる。山縣にとって誤算だったのは、「自分はその多田よりさらに速かった」ことではないかと、細野氏は指摘する。
「走り出しからバトンミスまでの短い距離ですが、山縣選手の走りは、100mの時とは比べものにならないくらいのいい状態でした。もともと、大会期間の中でレースを重ねて調子をつかんでいくタイプの選手ではありますが、多田選手の想定よりも、さらに自分の想定よりもさらに速かったのではないかと思います」
細野氏の分析では、100mでの山縣の走りも決して悪くはなかった。力強くダイナミックなフォームがつくりだす加速力も十分発揮できていたが、スタート時にわずかに重心が後ろに下がってしまいその分タイムが出なかった。とはいえ、10秒15は、通常なら準決勝に進んでいてもおかしくない記録。今年6月の布勢スプリントで9秒95の日本記録をたたき出した好調さは維持されていたのかもしれない。
9秒台をそろえ、世界への挑戦権を得たはずが……
記録で勝負する陸上競技にも、「流れ」がある。今回のバトンミスは、単なるバトンの受け渡しのミスではなく、サニブラウン・アブデル・ハキームも加えれば4人の9秒台選手を並べて必勝態勢で臨んだこと、個人種目ではその実力がまったくといっていいほど発揮できなかったことなどが布石となって、生まれたものだったといえる。
「個人種目に関しては、世界のレベルが上がっていることを差し引いても、日本選手の決勝進出は夢物語じゃなかった。それでも、すべての選手がパーソナルベストを出せるような状態で臨まなければ結果を得られないのがオリンピックの舞台です」
計画的に狙ったタイムで準決勝に進出し、会心の走りで決勝に。この5年間、それぞれの選手がそれぞれのタイミングでその可能性を感じさせるような走りを見せたことはあったが、東京五輪にそのピークを持ってくることはできなかった。代表選考会となった日本選手権でそれぞれ5位と6位に終わり、出場権を得られなかった桐生とサニブラウンが象徴するように、9秒台ランナーが増えたことで、国内の争いが激化、コロナ禍の難しい状況の中、複数のピークをつくることが求められた。
リオ五輪前は、9秒台で走れる選手が一人もいなかったことを考えると、確実に近づいていると思われた400mリレーの金メダルだったが、レベルが上がったことが、決勝の舞台でバトンミスが起きた遠因になっていた。
「選手のピーキングも含めて、賭けに出なければいけない状態になってしまった、そしてその賭に負けてしまったということではありますが、現時点で金メダルにチャレンジする方法をみんなで考えて出した答え。多田選手、山縣選手の好調ぶりを見ていると、あのバトンが成功すれば実際に金メダルもあり得たのではないかとも思います」
世界と戦える「絶対値の速さ」は複数の選手が手に入れた。次の課題は、パーソナルベストに近い記録を安定して出せるようになること。個人戦でもリレーでも、決勝を見据えた「勝負」ができるようになること。
この課題を克服する上で、今回の個人戦の惨敗、400mリレーでの「チャレンジした上での」バトンミスは、大いに役立つはず。
夢のまた夢だった9秒台への突入からの日本短距離陣の活躍は目を見張るものがあった。この悔しい経験が、世界と勝負するという、タイムの先にある新しい次元へのチケットになる可能性は十分にある。
<了>
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