
ワリエワ・ドーピング騒動に求められるのは“1つ”だけ。ロシアに魅せられてきた者として、心から願うこと
北京五輪が開幕したころまで、カミラ・ワリエワはフィギュアスケート女子シングルの主役になると目されていた。いまだ決着の見えないドーピング問題により、その立場は急転した。真相は解明されておらず、これから彼女にどのような裁定が下るのか、そして、彼女が今後どんなスケート人生を歩んでいくことになるのか、それは誰にも分からない。だが、どんな事実であろうとも、切に願うことがある。フィギュアスケートが誰かを不幸にするものであってはいけない。関わる者を幸せにするものであってほしいと――。
(文=沢田聡子、写真=Getty Images)
ジュニア時代から類いまれなる才能の持ち主として知られる逸材だった
フリープログラム『ボレロ』を滑り終えたカミラ・ワリエワは、鬱屈(うっくつ)した感情を吐き出すように右手を投げ出した。
卓越した才能で主役になるはずだった15歳のワリエワは、見ているのが苦しくなるようなフリーを最後に、北京五輪から去っている。一般的には今回のドーピング問題により名を知られることになったワリエワだが、フィギュアスケートの世界では類いまれな才能の持ち主としてジュニア時代から広く知られる逸材だった。2018-19シーズンと2019-20シーズン、12~13歳のジュニアスケーターだったワリエワが滑っていたショート『鏡の中の鏡』は、パブロ・ピカソの名画『玉乗りの曲芸師』をイメージして振り付けられたプログラムだ。まだ幼かったワリエワが長い手足を生かしてプログラムの初めと終わりに見せるポーズは、絵画のように美しかった。
ワリエワは個人戦に先立って行われた団体戦でショートとフリーに出場し、両方で1位となる期待通りの演技で、ROC(ロシア・オリンピック委員会)の金メダル獲得に貢献している。今季シニアに上がってから何度も世界最高得点を更新し、負け知らずのままオリンピックに登場したワリエワだが、さすがにフィギュア大国ロシアの威信を背負う戦いは重圧だっただろう。フリーの後には、唯一のミスである後半の4回転での転倒を悔やんでか、しばらくうずくまっていた。だが点数が表示された後は、ロシアチームのメンバーと共にはしゃぎ、喜ぶ様子を見せている。
肩を振るわせて泣き崩れる姿に心を痛めた
しかしその後、彼女の運命は一気に暗転する。世界反ドーピング機関(WADA)が、昨年12月25日のロシア選手権で採取したワリエワの検体から禁止薬物「トリメタジジン」が検出されたという分析結果をロシア反ドーピング機関(RUSADA)に報告。RUSADAは、北京五輪団体でROCが優勝した翌日となる2月8日、ワリエワに対して暫定資格停止の処分を科したものの、ワリエワ側の異議申し立てによりこの処分は9日に解除された。この処分解除を不服として国際オリンピック委員会(IOC)、国際スケート連盟(ISU)、WADAがスポーツ仲裁裁判所(CAS)に提訴したものの、14日に棄却されている。ワリエワの個人戦出場の可否は、ショートが行われる15日の前日にようやく決まったことになる。
ショートでのワリエワは、今までの試合でも時折ミスがあったトリプルアクセルで着氷が乱れたものの、他の要素には高い出来栄え点(GOE)がついて首位に立つ。CASによる公聴会が13日午後9時半ごろから14日午前3時過ぎまでオンラインで行われたと報道されており、心身共に疲労があったと想像される中で持ちこたえたといえる演技だった。
しかし、フリーではワリエワが抱えていたものが一気に噴出する。冒頭の4回転サルコウはなんとか降りたものの、続くトリプルアクセルでステップアウト。3本目のジャンプは4回転トウループ+3回転トウループの予定だったが、4回転トウループの着氷が乱れ、とっさに構成を変えて無理につけようとした3回転サルコウで転倒。後半に入ってからも4回転トウループで転倒、本来なら簡単に跳ぶであろう3回転ルッツ+3回転トウループのセカンドジャンプの着氷でバランスを崩す。いつもであればジャンプを決めた後で強さの念押しとなるようなステップシークエンスも、切れ味を欠く。演技を終えたワリエワはいら立たしげに腕を振り下ろし、顔を覆った後、悲しげな表情であいさつをした。キス・アンド・クライで総合4位という結果を知ったワリエワは、肩を振るわせて泣き崩れている。北京五輪が始まる前、誰がこんなワリエワの姿を想像しただろう。心が痛くなるような、信じたくない光景だった。
いまだ決着のついていないドーピング騒動。検出された3つの薬物
いまだに、ワリエワのドーピング疑惑には決着がついていない。ワリエワ側の言い分は、心臓病を患う祖父が「トリメタジジン」を服用しており、同じグラスを使ったためワリエワの体内に入ったというものだ。一方、CASが公開した文書を根拠に、ワリエワの検体から禁止されていない心臓の薬「ハイポクセン」「L―カルニチン」も検出されたことが報道されている。
CNNによれば、「ハイポクセン」については、2017年に米反ドーピング機関(USADA)が競技能力を向上させる効果があるとして禁止を主張していたという。さらにCNNは、USADAトップのトラビス・タイガート氏によるCASの文書についての見解も報じている。その要旨は、
(1)検出された濃度は痕跡レベルとはいえず、意図的な使用をうかがわせる
(2)ワリエワ本人に、薬物を使う知識・資金があったとは思えないと強調
(3)3種類の薬物を使った事実は、持久力の強化や息切れ・疲労感の抑制などの効果を得るための方法を試そうとした意図を示す
というものだ。(CNN.co.jp『ワリエワ選手のドーピング問題、検体から3種類の薬物』より)
これらの事実に加え、ロシアはIOCによって2014年ソチ五輪で組織的なドーピングを行ったと認定されており、そのため北京五輪にはROCとして参加していた。総合的に見て、現在ワリエワがグレーな領域にいる選手であることは間違いない。
疑念を感じずに見ることは不可能となった。真相から目をそらすことはできない
ワリエワはロシアに戻り、歓迎を受けたようだ。練習も再開していることが伝えられ、世界選手権(3月21日~27日、フランス・モンペリエ)への参加の可能性を報じるロシアメディアもあった。しかし3月1日、ISUはロシアのウクライナ侵攻に伴うIOCの除外勧告を受け、ロシア・ベラルーシの選手が世界選手権を含む国際大会へ参加することを無期限で認めないと発表した。
私見では、ワリエワは今までに知る中でも屈指の才能を持つスケーターだ。15歳とはいえ、ジャンプに優れるだけでなく美しいスケーティングと所作、さらに情感も持ち合わせるワリエワには、今後の成長を見守りたいと思わせる魅力がある。しかし、その演技が禁止薬物によって可能になったハードなトレーニングで培われていたのかもしれないと思うと、率直にいって恐ろしい。見る者にとっては、ワリエワの演技が完璧で美しいほどその背景についての疑念が湧く。余計な思惑なしに観戦することは、到底不可能だといっていい。
芸術スポーツに魅力を感じて取材してきた者として、アーティスティックスイミングや新体操も含め、常にロシアの演技は憧れだった。技術だけでなく芸術性も高いレベルにあるロシアの選手は、垣間見えるストイックさとバレエの伝統に基づく素養を持っており、理想でもあった。過去にロシアのフィギュアスケートでドーピング問題が持ち上がった際も、他の競技と異なりドーピングの効果は薄いと信じてきた。しかし事ここに至っては、ロシアの闇から目をそらすわけにはいかないだろう。さらにウクライナ侵攻が起こった今、ロシアのスケーターがいつ競技会に復帰できるかは不透明だ。
今求められている、たった一つのこと
ワリエワが15歳であることも、重苦しさに拍車を掛ける。ドーピングが事実だとしても、前述したUSADAによる指摘通り、その年齢の少女が率先して禁止薬物を摂取するとは思えない。浮かんでくるのは、周囲の思惑によって翻弄(ほんろう)されている少女の姿だ。以前よりフィギュアスケート・女子シングル、特にロシアの選手については低年齢化が指摘されていたが、自分の意志を持つには若過ぎる年齢でしかトップスケーターになれないのだとしたら、それもワリエワをめぐる問題の原因の一つだろう。
オリンピックの金メダルは、特にロシアにおいては付加価値が高過ぎるものになっている。手段を選ばず頂上を目指した結果として有望な若いスケーターの健康がむしばまれたのだとしたら、この問題を放置することは許されない。
真相が明らかにならなければ、ワリエワがどんなに美しい演技を見せても、その滑りは称賛の対象にはなり得ない。「トリメタジジン」は、どんな経緯でワリエワの体の中に入ったのか。今求められているのは、真実だ。
<了>
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