
100人中最下層の子供がプロサッカー選手になれた理由 橋本英郎が実践した、成功する選手の共通点とは?
小学生時代は町クラブのエースでお山の大将だった橋本英郎は、中学から図らずもガンバ大阪ジュニアユースに入ることになる。入団当初は100人中で最下層の実力だったという少年はいかにしてプロ入りまでたどり着き、日本代表まで上り詰める選手となったのか? 決して順風満帆とはいえなかった中学・高校時代の試行錯誤の日々と、今だから語れる“秘話”を本人とともに振り返る。
(インタビュー・構成=中林良輔[REAL SPORTS副編集長]、写真提供=橋本英郎)
意図せずガンバ大阪ジュニアユースに入った“意外な”理由
――数多くの日本代表選手を輩出し、今では名門中の名門として知られているガンバ大阪のアカデミーに入られた経緯からお聞かせください。
橋本:小学1年生からサッカーを始め、小6になった時点で進学する予定の中学にはサッカー部がなかったんです。そこで中学進学のタイミングでどこのチームに入るかという話になりました。僕には6つ上の兄がいて、兄は中学時代に釜本FCという日本サッカー界のレジェンドである釜本邦茂さんが立ち上げたチームに所属していました。それがきっかけとなり、「じゃあ、お前も入れ」という流れで僕も釜本FCに行くことになりました。
そんななか「ガンバ大阪というJリーグのチームができる」という話が出てきました。初代監督は釜本さんで、アカデミーを持たないといけないというJリーグの規則もあって、そのタイミングで釜本FCが、ガンバ大阪のジュニアユース(中学生年代、U-15チーム)に変わりました。ちなみにそのタイミングでガンバのユース(高校生年代、U-18チーム)も立ち上がり、その1期生が宮本恒靖さんです。
――もともとは中学から釜本FCというチームに入るはずが、実際に入るタイングになったらガンバ大阪ジュニアユースになっていたと。
橋本:そうなんです。だからセレクションも何も受けてないんです。もともと近所にセレクションが必要な強豪チームもあったのですが、「セレクションを受けても受からんやろう」と思って選択肢には入れていませんでした。
100人中の最下層。チーム内には日本代表も。人生で一番の挫折
――意図せず所属チームがJクラブの下部組織になったときはどういう心境でしたか? 「チャンスだぞ」という思いもあったのですか?
橋本:いえ、なかったです。どちらかといえば、稲本(潤一)だったりうまい選手が多いなという危機感しかなかったです。選手数も最初は100人くらいいて、入団当時の僕の実力は最下層に近かったと思います。うまい選手のなかには関西トレセンが3人、大阪府トレセンが7、8人、地域の選抜も十数人はいたと思います。そういった選手たちに圧倒されて、「こういう人たちがプロになるんだな」と思っちゃった感じです。小学生時代の僕は大阪市の大会でも2回戦くらいで負けるチームに所属していて、地域選抜にも入っていない選手だったので。そこで井の中の蛙を体験して、プロ入りなんて諦めました。サッカー人生で一番大きな挫折です。
――小学生のときの橋本選手はどんな選手だったのですか?
橋本:町クラブで9番を背負ったストライカーで、キャプテンをやっていました。味方がミスをしたら文句を言って、「お前はなんでそんな下手やねん」とか言うような選手でした。ただただ自分がやりたいようにやっていましたね。その後、ジュニアユースに入ったら、完全に文句を言われる側に変わりました(笑)。
――ガンバ大阪ジュニアユースでは、周りのうまい選手たちと比較してどのあたりに一番差を感じましたか?
橋本:技術ですね。技術の差が圧倒的でした。リフティングとか、ロングキックの精度とか、ドリブルとか、もう全部です。唯一僕が通用すると思ったのは足の速さだけでした。みんなの中でも上から数えられるくらいのスピードは持っていたんですけれど、そこだけでした。
――ジュニアユースでそれだけのレベルにある選手たちは、小学校のときから強豪チームで揉まれてきた子どもたちが多かったのでしょうか?
橋本:そうですね。全国大会に出たりするような強豪チームの子もいました。それに、もともと釜本FCの小6にいた藤原将平という選手がU-12の日本代表のFWでキャプテンだったんです。だから当時すでにチーム内に日本代表の子がいたんです。あとは稲本もそうですが、みんなが「あそこの〇〇だ」と言われるような選手たちでした。
――当時を振り返って「小学生の頃にもう少し高いレベルでサッカーをやっておけばよかったな」という思いはありますか?
橋本:それはないですね。小学生の頃はサッカーの練習は月に2回くらいしかなかったんですけど、あまりにも時間があったので、毎日公園で遊んでいました。ドッジボールをやったり、おにごっこをしたり。あとはサッカーのテレビゲームをやってイメージトレーニングをしたり(笑)。姉がやっていたこともあり、小6からはバレーボールもやっていました。そういった経験はジュニアユースでもスピードという一番の武器につながりましたし、体のコーディネーションの部分でも今に生きていると感じています。だから特に後悔とかはないですね。
「ボールを受けるのを嫌がる状態」を救った草サッカーという“逃げ道”
――ガンバ大阪ジュニアユースで周囲のレベルが高くて悩まれている時、ご自身が活躍できるレベル感の公園での草サッカーに積極的に参加されていたとお聞きしました。
橋本:はい。僕と一緒にガンバのジュニアユースに入ったんですけど、すぐにやめてしまった地元の友達が2人いて。その2人と定期的に「一緒にボールを蹴ろう」という話になり、その後、「長居公園で社会人の人たちがサッカーしていて面白いよ」という話を聞いて、僕たちもそこに混じるようになったんです。大人に混じって高校生とかもいましたし、中学生の僕たちが入っても楽しく蹴らせてくれるような優しいお兄ちゃんたちのグループで、それからは毎週末そこでサッカーをやっていました。
――当時のガンバのジュニアユースは、週に何回練習があったのですか?
橋本:平日は火・水・金の3回の練習だったと思います。あとは週末の土日に試合がある、という感じです。
――それに加えて、草サッカーはどのくらいの頻度で参加されていたのですか?
橋本:社会人の人たちの草サッカーには土日に参加していました。試合があっても時間が重ならなければ草サッカーにも行っていました。試合にはそんなに出ていなかったので、朝早くから試合に行って、お昼くらいに家に帰って、自転車で長居公園まで行って、草サッカーをして、夕方に家に帰ってくる。平日の練習のない月・木もだいたい近くの公園で地元の友達とサッカーかサッカーのテレビゲームをしていました。なので中学時代はほぼ毎日サッカーをやっていたイメージがあります。
――週に4、5回ガンバでトレーニングをしながら、草サッカーにも参加し続けたモチベーションはどこにあったのですか?
橋本:ジュニアユースのレベルが高すぎて悩まされていた、というのが一番大きいです。サッカーは好きだし、やりたいけれど、周りからいろいろと言われる。だから、楽しくサッカーができる場所はないのかな?と思っていたところに、「ここにあるじゃん!」と。草サッカーでは、ミスをしても誰からも文句を言われないんです。あの場所で息抜きの仕方を学びました。ガンバのほうの僕は、ミスをしたときにひたすら言われ役のほうになっちゃったので、ボールを受けるのを嫌がるような状態でした。
サッカーがうまくなる楽しみを実感できる場所
――遊びの延長線上ともいえる草サッカーでの経験を経て、一番何を得ましたか?
橋本:何か新しい技をやってみようと常に前向きな挑戦ができる、サッカーがうまくなる楽しみを実感できる場所でした。ガンバのジュニアユースではチャレンジしにくかったとしても、草サッカーではチャレンジができるし、そこで成功したら「ガンバでもやってみようかな」と思えるんです。だからポジティブな動きがどんどん増えていきました。その結果、ジュニアユースのほうでも例えばシザースで抜いたり、シザースしてクロスを上げたりというプレーがだんだん増えてきて、少しずつ自信がついていきましたね。
――息抜きの場でありながら、自主練習の場にもなっていたわけですね。
橋本:そうなんです。草サッカーは大半が大人なので体格も違いますし、フィジカルも強い。そんな相手に対して「どうやったらいいんだろう?」ということを常に考えていました。草サッカーでの経験は、その後のサッカー人生にも生きていると思います。
――周囲のレベルについていけずに悩まれていた当時、ガンバをやめて別のチームに行くという選択肢は考えなかったのですか?
橋本:どれだけやってもうまくならないという状況であればやめていたかもしれません。ただ草サッカーの存在もあって少しずつでも自分の成長は実感できていましたし、ガンバの中でもコーチから言われていることを理解しようと努力し、精一杯頑張ったら、やっぱり成果は出たんです。やれば成果が出るのであれば、やるしかないと考えていました。
今だから話せる本音。本当はセレッソユースに行きたかった?
――その後、ガンバ大阪のユース、トップチームへとステップアップできた理由をご自身ではどのように分析されていますか?
橋本:中3になって自分が一番上の学年になったこともあり、ジュニアユースの3年時はめちゃくちゃ楽しかったんです。全国大会でベスト4まで行ったチームで試合にも出場できていました。ガンバのアカデミーでの6年間で一番楽しかった時期でもありました。稲本など周囲の選手のレベルも高くて、互いに相乗効果も生まれて、「こんなに強いチームでできるのは幸せだな」と思える日々でした。
ただ高校に入るとき、ガンバのユースには行きたくなかったんです。U-17日本代表にも名を連ねていた新井場徹など新たに外部からうまい選手が入ってくるとも聞いていましたし、またジュニアユース入団当初のときと同じことになるだろうと思っていたので。地元からはセレッソ大阪のほうが近かったのでセレッソのユースに行きたいとも考えていました。ただ、そんなことをガンバのコーチに相談するわけにもいかないですし、セレクションの受け方もまったくわからないままで。結局、ガンバのジュニアユースの監督から電話で「お前はユースに上がれるんだから、上がるよな?」と言われて、ユースに上がりました。
――その後、希望することなく入ったユースでの高校3年間はどのような取り組み方をされたのですか?
橋本:「入っちゃったな」という感じでスタートした高校生活でしたが、「それじゃあ、どうしようかな」と切り替えて考えて、「3年生になったときに、関関同立(関西大学、関西学院大学、同志社大学、立命館大学)の推薦をサッカーでもらおう」という目標を自分の中で立てたんです。
一度も考えなかった「プロ入り」。それでも欠かさなかった目標設定
――ユースに昇格できた高1の段階でもプロという選択肢はほぼなかったわけですね。
橋本:まったくなかったです。だって、「また高3になるまでは試合に出られないだろう」と思っていたので。ただ実際にユースに入って、3年間の目標をサッカー推薦での大学進学と設定し、自分のなかでそのためのスモールステップを常に用意して努力を続けていたら、高1の7月に全日本ユースに臨む3年生のチームに呼ばれたんです。その後も高3のチームで高1の僕と藤原が2トップを形成したりもしていました。
藤原、稲本、新井場、町中大輔らを擁して僕たちの世代はゴールデンエイジとも言われていたのですが、チーム内のレベルが高かったことで、上の学年を相手にしても自然と通用しました。彼らは年代別の日本代表などにも入っていて、僕は相変わらず何の肩書もなかったのですが、彼らに追いつこうと必死に努力を続けていたら、気づけばチーム内では彼らと同じグループに入っていたんです。
――ユースで高1の段階から出場機会を得て、その後プロを目指そうと考えたタイミングはいつ頃ですか?
橋本:その後プロを目指そう考えたタイミングは……ないです。
――高3になって、実際にプロ入りの声がかかるまでは選択肢に入っていなかったということですか?
橋本:まったく入っていなかったです。ただ、2種登録(Jリーグのトップチーム公式戦に出場可能なユース選手として登録すること)ってあるじゃないですか? 高2の途中で知らない間に2種登録されていたんです。そのことを知ったときは「ということは、トップの試合に出られるんじゃないか?」とうれしくなったりはしました。あと、その頃からサテライトの練習にも呼ばれるようになっていました。夏休み中はずっとサテライトに帯同したり、プロと交わる機会はありました。けれど、プロになれるという感覚は全然なかったです。実際にプロ入りも練習生契約でのスタートだったので、常にギリギリのラインをなんとか生き抜いてきたという感覚しかないですね。
プロとして成功する選手に共通する2つの共通点
――プロになれる選手となれなかった選手、それぞれに共通点は何かありますか?
橋本:プロになって、さらにその後も成功している選手という意味では2タイプいると思っています。まずは稲本や新井場のように、もともと規格外の素材を持っていて、最初から「こいつはプロになるな」というレベルの選手。あとは吸収力があり、何事にもチャレンジできて、物怖じしない、精神的に強い選手。単純なお山の大将レベルで上がっていっても、お山の大将は毎年入ってくるのでだいたい挫けてしまうんです。僕は中1でお山の大将から引きずり下ろされて、なんとか挫けずに踏ん張り、そこからずっと下積みをやってきたんですが、気がついたらそういうお山の大将たちはいなくなっていました。
――橋本選手はプロ入り後も活躍を続け、日本代表入りも経験。43歳を迎えた今なお現役選手としてプレーされています。
橋本:僕の場合は、指導者との良き出会いもありましたし、同年代のチームメートに追いつこうと必死に努力し、切磋琢磨していたら、たまたまそのチームメートたちがすごすぎたというのもあります。稲本なんてアーセナルに行っちゃうわけですから。さらに僕は稲本がアーセナルに移籍していなくなったことで「ボランチが空いたよ」とトップチームでの出場のチャンスが得られました。
長く現役を続けるという意味で大事なのは、年齢や環境に関係なく、常に成長できると思えるかどうか、というところじゃないですかね。自分の限界を決めてしまうと終わります。そこはもう、一番大事かもしれないですね。
<了>
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[PROFILE]
橋本英郎(はしもと・ひでお)
1979年5月21日生まれ、大阪府出身。関西サッカーリーグ1部・おこしやす京都AC所属。ポジションはMF。ガンバ大阪のアカデミーを経て、1998年にトップ昇格。練習生からプロ契約を勝ち取り、不動のボランチとしてJ1初制覇、アジア制覇などガンバ大阪の黄金期を支えた。その後、2012年にヴィッセル神戸、2015年にセレッソ大阪、2016年にAC長野パルセイロ、2017年に東京ヴェルディ、2019年にFC今治に移籍してプレーし、2022年おこしやす京都ACに選手兼ヘッドコーチとして加入。日本代表としては国際Aマッチ・15試合に出場。現在は現役選手としてプレーする傍ら、Jリーグ解説者、サッカースクール・チーム運営など幅広く活動中。
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