
スカウトという職業のイメージを変えた男・向島建が語る「川崎フロンターレにふさわしい選手の見つけ方」
ここ数年でJリーグ屈指の強豪に上り詰めた川崎フロンターレ。そのクラブの躍進を支えたキーマンの一人が、スカウトの向島建だ。東芝サッカー部、清水エスパルスを経て、1997年に川崎フロンターレに加入。2001年に引退後もスタッフとしてクラブに残った向島は、当初指導者を目指しながら、なぜスカウトの道を歩み始めたのか? 本稿では、今年2月に刊行された書籍『愛されて、勝つ 川崎フロンターレ「365日まちクラブ」の作り方』の抜粋を通して、向島スカウトのクラブスタッフとしての試行錯誤の日々を追った。
(文=原田大輔、写真=Getty Images)
引退後、各部署でありとあらゆる業務を経験
ユニフォームからスーツに着替え、毎朝、満員電車に乗りこんだ。
サッカーボールしか蹴ってこなかった自分が、社会を知るためだった。
選手時代は主に車での移動が当たり前だったため、切符の買い方に混乱し、1万円札を入れて回数券を購入してしまったこともある。通勤電車のなかで突然、サポーターに声をかけられて驚いたこともあった。
向島建は身長161センチと小柄ながら、スピードを武器とするFWとして名を馳せた。
清水エスパルス時代はリーグ戦の優勝争いに身を置いたことも、Jリーグヤマザキナビスコカップ(現・JリーグYBCルヴァンカップ)で優勝を経験したこともある。1997年に富士通サッカー部から川崎フロンターレに名称変更したチームに移籍したときは、JFL(ジャパンフットボールリーグ)で「優勝するために自分は呼ばれた」と、自負していた。
3年の年月はかかったが、1999年に川崎フロンターレをJ1リーグ昇格に導いた。
そして、再びJ2リーグでの戦いを強いられることになった2001年をもって現役を引退した。
5年間を過ごした清水エスパルスからは、毎年のように「引退したらコーチとして戻ってきてくれ」と、声をかけてもらっていた。静岡県出身だけに、清水に帰れば、みんなが歓迎してくれることもわかっていた。
それでも向島は、川崎フロンターレで働くことを選択した。2000年末にクラブの社長に就任したのち、次々と改革を行っていた武田信平に告げた。
「フロンターレには自分がやれることが、まだまだいっぱいあると思っています。とはいえ、自分は現役生活が長かったため、クラブがどんな形で成り立っているかを知らない。ゆくゆくは指導者になりたいと考えていますが、クラブのことを勉強する機会をください」
クラブはどういった経営によって成り立っていて、また、どういった人たちのおかげで、選手だった自分はピッチで思いっきりプレーできていたのか。
当時は、それを知ったうえで指導者にならなければ、選手を育成する〝幅〞も、選手を指導する〝奥行き〞も足りないと考えていた。
真っ直ぐな熱意と学びたいという意欲を見抜いた武田社長は、望む機会を与えてくれた。
スーツに身を包んだ向島は、3カ月ごとに各部署を異動し、クラブのありとあらゆる業務に携わった。ときには、本業に近いサッカー教室のコーチとして子どもたちを指導する機会もあったが、スポンサーセールスの営業や、裏方となる試合の運営にも従事した。
それだけではない。地道な活動といわれるビラ配りやポスティング作業も手伝った。とにかく1年間は、事業部で働く社員と同じく、スーツを着て働き、世間を、社会を知ろうと心がけた。
そうした生活も板についてきた2004年のことだった。当時、強化部長を務めていた庄子春男に呼ばれた。
「スカウトをやってみないか?」
川崎フロンターレは4年をかけて、J2リーグで優勝。翌2005年からは再びJ1リーグを主戦場に戦うことが決まっていた。
J1リーグから二度と降格しないチームを築く。それを目標に掲げていたクラブは、よりチーム強化に力を入れるべく、スカウトにも専門のポストを置こうと考えていた。指導者への未練を完全に断ち切れていたわけではなかったが、「クラブから必要とされるならば」と、引き受けることにした。
スカウトのグレーなイメージを変えたい
しかし、当時の川崎フロンターレには、前任者がいたわけではなかった。
選手を引退して、社会人になったときと同じく、すべてが手探りだった。ノウハウも、情報も持ち合わせていない。その都度、庄子に聞き、教えてもらうところから始めた。
「九州で学生の大会があるから、行ってみたらどうだ」
庄子に言われるがまま、九州へと出張したが、居合わせた他クラブのスカウトからは、「ここは君が来るような場所じゃないよ」と、指導者になることを勧められた。
スカウト担当に就いたとき、ノウハウや業務内容について調べようがなかったように、スカウトという仕事はどこか不透明で、グレーなイメージもつきまとう。実際、向島が目にした当時のスカウトの多くは、学校やチームの監督、さらには選手の親を接待し、当事者である選手の意向とは関係のないところで話が進んでいるケースが散見された。
「自分がスカウトをやるのであれば、今までのイメージを変えて、みんながやりたくなる、就きたくなるような仕事にしたい」
青臭いと冷笑する人もいるかもしれない。そんなに甘い世界ではないとあざ笑う人もいるかもしれない。それでも向島は、外堀を埋めるのではなく、選手本人に「なぜ君が必要なのか」を説明し、本人の〝意思〞でチームに入ってもらいたいと、考えた。
なにより、川崎フロンターレには、自分の意思でこのユニフォームに袖を通し、自分の意思でクラブのためにプレーできる選手が必要だと思っていた。
なぜなら、創設したばかりのチームに加入した自分がそうだったから――。
Jリーグの強豪の一つだった清水エスパルスから、1997年に川崎フロンターレに移籍したとき、チームにはまだ富士通の社員選手が半数近く在籍していた。向島自身、JリーグからJFLというカテゴリーに移籍することで、環境の変化への不安や影響はかなりあったが、Jリーグに昇格するために呼ばれた、という明確な使命があったから、そうした過酷な状況でも受け入れてプレーする覚悟はできていた。
ただ、チームの半数近い富士通の社員選手が、そうした自分を受け入れてくれるかどうか、不安があった。だから、自分たちがJリーガーの感覚そのままで振る舞ってしまえば、チームはうまく機能せず、仲間に受け入れてもらうこともできないと考えていた。たとえ自分にJリーグでの経験値があったとしても、謙虚に接することを意識した。
「ピッチではプレーで違いを見せるのは当然のこと。これまで経験してきたことを伝え、見せることは最年長としての役目でもありました。また、30歳を越えていた自分にとっては、トレーニングで手を抜けることはありませんでした」
向島自身が、JSL(日本サッカーリーグ)だった東芝サッカー部(北海道コンサドーレ札幌の前身)でプレーしていたときに、アマチュアからプロに転向した選手だった。そうした経験があるだけにプロとアマチュア、両者の気持ちは誰よりも理解できたのである。
また、一緒にプレーする選手たちの多くが、次第に応援されることへの喜びを見出し、地域への感謝やファン・サポーターへの感謝を感じるようになっていた。
「ファン・サポーター、地域への感謝を持ちながら、技術の向上を目指していく選手こそが、フロンターレのカラー」
それはスカウト業に就いて18年が経った今も変わらぬ、向島の確固たる指針となった。
思い切って、庄子にもその旨を伝えた。すると、強く賛同してくれた。もし、庄子が異なる考えや、向島が感じていたグレーなイメージを〝よし〞とする上司であったならば、その方向性は大いに異なるものになっていただろう。
「お前が思う、そのやり方で間違っていないと思う。自分がいいと思うやり方で、いいと思う選手を連れてきてくれ」
〝川崎フロンターレのスカウト〞として、〝川崎フロンターレにふさわしい選手〞を見る基準が定まった瞬間だった。
頭のなかでフロンターレのユニフォームを着せてみる
スカウトになって間もないころは、前任者がいなかったように、クラブや自身が独自に確立したルートは皆無だった。
また、川崎フロンターレ自体が、J1リーグに昇格して間もないチームで、決して強豪ではなかったため、その時代の高校サッカー界ナンバーワンや、大学サッカー界ナンバーワンといった名の知れた選手を獲得できる状況にはなかった。
当時は、高卒ルーキーながら鹿島アントラーズ加入1年目にして、開幕スタメンの座を勝ち取った内田篤人に声をかけたこともあった。「よくよく考えると、当時のうちが獲得できる選手では到底なかった」と、向島は笑う。
「この選手だったら、他のクラブとは競合しないだろうなという感覚は、実際にやりながら身につけていくしかなかった」
熟考の末、たどりついたのが、やはり「川崎フロンターレに合う選手」になるのだが、向島が、まずポイントとしたのは、「特徴を持っている選手」だった。
「プロでやっていくサッカー選手として、基礎となるベースは必要ですが、Jリーグでプレーしていた自分から見ると、高校生、大学生は足りないところだらけに見えてしまう。でも、その足りないところばかりを見てしまうと、獲得する候補者がほとんどいなくなってしまいます。なので、同世代である他の選手にはない、突出した〝なにか〞を持っているかどうかを見るようになりました」
パスでも、シュートでも、ドリブルでも、スピードや高さでもいい。それこそ守備でも、他の選手にはない光るものがあるかどうかが、まず基準になる。
「そのうえで、自分の頭のなかで、フロンターレのユニフォームを着させてみて、うちのチームにマッチするかを想像してみるんです」
高校や大学では、周りの環境やレベルはさまざまだ。注目した個人がよくても、周りが一定のレベルに達していないがゆえに、パスが出てこない、もしくはマークが集中してしまうケースは往々にしてある。だから、向島は頭のなかで、サックスブルーのユニフォームを着せて、想像を巡らせるのである。
「うちのメンバーのなかに入れば、ここではパスが出てきて、きっとチャンスになるな」
「あの選手と組めば、ここではシュートまで持ちこめるだろうな」
向島が想像する思考の琴線に触れるかどうか。
感覚的に聞こえるかもしれないが、その感覚こそが、多くの新卒選手が川崎フロンターレで大成している最大のポイントだった。
いわゆる〝うちのチーム〞でフィットしそうなことがわかり、気になって何回も試合を見ていると、向島はその選手に期待を抱くようになる。
それが合図のようなものかもしれない。試合会場に向かう足取りが、仕事ではなく、ファン・サポーターと同じくワクワク感に変わっていく。
「自分が見たい選手=チームが獲りたい選手になっていく」
熱を帯びた向島が力説する。
「極論を言うと、みんながお金を払ってまで、その選手のプレーを見たいかどうかだと思います。チームとしては、試合に勝ちたい、優勝したいという目標はありますが、それ以前に応援したい選手であるかどうか。その選手のプレーが見たくて、ワクワクしながらスタジアムに向かうような選手でなければ、うちに連れてくる意味はない。近年は力のある選手たちが加入してくれていますが、応援したい選手という意味のなかには人間性も含まれています。そこも含めて、まずは自分が応援したくなるような選手に声をかけています」
(本記事は小学館クリエイティブ刊の書籍『愛されて、勝つ 川崎フロンターレ「365日まちクラブ」の作り方』より一部転載)
<了>
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[PROFILE]
向島建(むこうじま・たつる)
1966年1月9日生まれ、静岡県出身。川崎フロンターレ強化部スカウト担当部長。スピードあふれるドリブルが武器のFWとして、1997 年に清水エスパルスから当時JFLの川崎フロンターレに加入。2001 年に現役を引退後もスタッフとしてクラブに残り、さまざまな部署を経て2005 年より強化部にてスカウトを担当する。
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