16歳の新王者・小田凱人が国枝慎吾から受け取った銀杯。車いすテニスの聖地・飯塚で礎を築いた功労者たち
国際舞台で数々の記録を打ち立て、国民栄誉賞を受けた国枝慎吾さん。17歳にして男子世界2位に付け、最年少1位を視野に捕らえる小田凱人。女子世界最高位1位、現在2位の上地結衣――。綺羅星のごとくトップ選手を揃える日本は、今や車いすテニス強国だと言える。その原点を探るべく時の流れを遡ると、見えてくるのは、今年4月に39回目の開催を迎えた「飯塚国際車いすテニス大会」。まだパラリンピック競技に加わっていなかった当時から、車いすテニスの魅力を広めるべく尽力した大会創設者や功労者の証言から、競技発展の歴史を紐解く。
(文=内田暁、写真=SportsPressJP/アフロ)
16歳の新チャンピオンが誕生
「まだ、トロフィー持ち慣れてないからな~」
トロフィープレゼンテーターをつとめた国枝慎吾さんは、ややぎこちなく賜杯を掲げ写真撮影に応じる優勝者を見て、いたずらっぽい笑みをこぼした。
“飯塚国際車いすテニス大会・ジャンパンオープン”、男子シングルスの表彰式――。
16歳(当時)の新チャンピオン・小田凱人が初々しくも誇らしげに掲げる銀杯には、“天皇杯”の碑が刻まれている。
今年39回目の開催を迎えた飯塚国際車いすテニス大会は、2018年から“天皇杯・皇后杯”の名も冠する晴れの舞台だ。同大会が天皇杯・皇后杯を賜ったのは、平成天皇(現在は上皇)退位前年のこと。その天皇杯・皇后杯としての2回目大会優勝者が、去る1月に引退を表明し、3月には国民栄誉賞を受賞した国枝さんだ。
「国枝さん、あなたが走り回り、あなたの汗が染みこんだコートに、お帰りなさい」
日本車いすテニス協会の前田惠理会長は、表彰式の席で国枝さんを眩しそうに見ながら、温かな言葉を贈った。
地元でテニスに打ち込んだ前田さんは、この飯塚国際を創設時から知る、大会の功労者にして歴史の証人である。飯塚国際車いすテニス大会の第1回目が開催されたのが、1985年。パラリンピック競技に加わっていなかった当時の車いすテニスは、まだまだ “リハビリ”や“社会福祉”として捉えられがちだった。
「そうではない、車いすテニスはすごく魅力ある競技。だから多くの人に見てもらい、スポーツとして好きになってほしい」
そのような思いを長く抱いてきた前田さんは、観客で膨らむスタンドを眺めながら、「やっと、ここを満杯にできるようになりましたよ」と、感慨深げにつぶやいた。
脊髄損傷治療機関がテニス文化発祥の核に
福岡県飯塚市におけるテニス文化発祥の核は、1979年にこの地に誕生した“総合せき損センター”だったと、前田さんは述懐する。“総合せき損センター”は、脊髄脊椎疾患患者を対象に、治療からリハビリテーション・社会復帰までを支援する医療機関。そのような施設が生まれた機運には、この地が古くは”炭鉱の町“として栄えた歴史的背景があるかもしれない。
以下、前田さんの証言。
「確かに、総合せき損センターは患者さんの治療から社会復帰までを目指していましたが、当時の飯塚や日本では、まだまだ『手厚い看護をするから、この施設で余生を送りなさいね』という感じでした。その中で、海外の現状を見てきた方が、『いやいや、海外ではもう40年ほど前から、若い人が車いす利用者になっても、そこからもう一度社会復帰しようという雰囲気だよ。スポーツだってやっているんだよ』という知識を持って帰ってきた。そこで、飯塚のせき損センターでも何かスポーツをしようということで、テニスが始まったんですね。
やるからには大会もやりたいねということで、1985年に第1回目が開かれました。『海外には車いすですごくテニスの上手い選手が居る』とも聞いたので、『そんなに上手なら、呼んでどれほど上手いか見てみようよ』ということで、最初から国際大会として始めたんです」。
脊髄損傷治療機関が、障がい者スポーツ発祥の地となる構図は、パラリンピックの起源が英国の“ストーク・マンデビル病院競技会”であることにも重なる。ただ、いくら崇高な理念や人々の情熱があっても、それを形にするのは容易ではない。その意味では幸運にも、飯塚の町には、理念を具現化する因子が幾つもそろっていた。
一つはもちろん、せき損センターの存在。飯塚駐屯地の自衛隊員の協力も、スムーズな大会運営に大きく寄与しただろう。
“パイオニア”たちを育んだテニススクール
加えてこの町は、後に内閣総理大臣も輩出する名家・麻生一族のお膝元である。車いすテニスの国際大会創設に際しては、麻生グループが大きな後ろ盾ともなった。とりわけ、時の“麻生セメント”社長の麻生泰氏は、1986年に九州車いすテニス協会を立ち上げ、自ら会長に就任するほどにコミットする。
その麻生泰氏は、飯塚国際の第2回大会に、吉田宗弘という名の友人一家を招待した。吉田氏は千葉県柏市の旧家の出自で、地元でテニスクラブを経営するなどテニスとの関わりも深い。しかも吉田氏の伴侶は、1975年にウィンブルドン女子ダブルスで頂点に立った、伝説的テニスプレーヤーの旧姓沢松和子さんである。
吉田夫妻が飯塚国際車いすテニス大会を訪れた時のことを、前田会長は、今もビビッドに記憶していると言った。
「吉田夫妻が飯塚に来ることになった時、私、麻生(泰)さんに『吉田さんの相手してね』って言われたんです。私は学生でテニスをしていたので、もう沢松和子さんは憧れの的だったんですよ! 『えー! あのウィンブルドン優勝者が⁉』という感じでびっくりして。ここの会場もまだこんなに立派じゃなかったんですけど、お見えになってね。
それでご夫妻で車いすテニスを見られた時、吉田(宗弘)さんが『これは良いね。世界に羽ばたいていける選手を育てるというのも、やるべきことだよね』とおっしゃったんです。大会には関東からの選手も何人か参戦していたので、吉田さんはそういう選手たちと話をしていました。その時に、なかなか関東ではコートを使わせてもらえないとか、指導者もいないという話を聞き、『だったら自分たちが千葉でやろう』と一念発起されたようです」
実際に吉田夫妻は千葉に戻ると、当時既に建設に着手していた新たなテニスセンターに、車いす用の設計やカリキュラムを盛り込んでいった。そうして1988創設、1990年に正式にオープンしたのが、国枝さんも少年時代から引退の日まで拠点とした、吉田記念テニス研修センターである。
“TTC(Tennis Training Center)の愛称で知られるこの施設は、国枝さんよりも年長の”パイオニア“たちを育んだ、恐らくは日本で最初の”車いすテニスレッスン“を備えた大型テニススクールだ。
ちなみに、1986年に吉田弘宗・和子両氏が初めて飯塚国際を観戦した時、夫妻の男児も一緒に会場を訪れていた。それが、現在TTCの代表理事を務める吉田好彦氏である。
弘宗氏が飯塚から持ち返った種は柏市で萌芽し、次世代も水やりをする中で花を咲かせ、そうして実った新たな種子は、やがて日本各地で芽吹くのだった――。
【後編はこちら】車いすテニスが灯し続ける「トーチ」。齋田悟司、国枝慎吾らを輩出した大会は世界の登竜門へ
<了>
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