世界陸上で日本男子マラソン復権へ。山下、其田、西山、5大会ぶり入賞目指す日本人トリオの強さとは?
ハンガリーのブダペストで開催中の世界陸上2023は、最終日の8月27日にマラソン競技の男子の部が行われる。日本は山下一貴、其田健也、西山和弥が出場。日本人として2013年モスクワ大会以来、5大会ぶりとなる入賞を狙う。圧倒的な強さを見せるアフリカ勢に食らいつき、最後までレースを盛り上げることができるか。3人の強さと可能性、勝負のポイントに迫った。
(文=佐藤俊、写真=西村尚己/アフロスポーツ)
山下一貴は「安定感」が魅力。自身初の入賞を狙う
ブダペスト世界陸上の最終日、いよいよ男子マラソンがスタートを迎える。
日本勢は、山下一貴、其田健也、西山和弥の3選手がエントリーしている。この3人に共通しているのは、いずれも箱根駅伝の経験者であり、10月15日のマラソングランドチャンピオンシップ(MGC)に出場する選手であるということだ。
8月末のブダペスト世界陸上のマラソンを経て、10月15日のMGC(パリ五輪選考レース)を戦うのは、肉体的に相当厳しいのではないかという声に対して、彼らはいずれも「マイナスにならない」とポジティブな姿勢を見せている。ブダペスト経由パリ行きを実現したい彼らだけに、このレースで結果はもちろん、MGCにつながる42.195キロにしたいと考えているはずだ。
山下一貴は、3月の東京マラソンで大迫傑や其田に競り勝ち、2時間5分51秒の日本歴代3位、日本人トップ、総合7位の成績を収めた。
昨年、学生駅伝3冠を達成した駒澤大学出身で、箱根駅伝では2年生から4年生まで3年連続で2区を走った。卒業後、地元九州の三菱重工に入社し、井上大仁の背中を追って、オリンピックと世界陸上を目標にマラソンをスタートした。
山下が一躍脚光を浴びたのは、2022年の大阪マラソンだった。優勝した星岳、浦野雄平と3人でトップグループを形成、日本人2位でゴールし、2度目のマラソンながら2時間7分42秒のタイムを出して、オレゴン世界陸上のマラソンの派遣記録を突破した。残念ながらオレゴンに行けなかったが、その悔しさを胸に、「5000m、1万mで自己ベストを出して、1キロの余裕度を高めていきたい。3分を切るペースで余裕がないとマラソンでは勝てないですし、そこを練習して、自分の前にいる選手に勝てるようにやっていきたい」と自らの課題に向き合ってきた。その成果が出たのが、今年の東京マラソン2023だった。外国人選手に加え、大迫、其田とともにトップ集団に位置し、35キロ以降に仕掛けて前に出た。1年間の取り組みがそのままレースに反映された内容だった。
山下がマラソンで重視しているのは、「安定感」だ。「コンスタントに安定した結果を出していくことが選考レースの結果にも影響する。そもそも僕はとんでもないタイムをドカーンと出すことができないタイプなので、安定感で勝負していこうと思っています」と語る。日本代表として世界で戦うために、ラストの2分50秒程度のペースアップに対応すべくスピード強化をしてきた。「安定して強いと言われるマラソンランナー」になるべく、自身初の世陸で上位入賞を狙っていく。
「コツコツ練習通りに」。其田健也は粘りのレースで上位に食らいつく
其田健也は、駒澤大学で山下の先輩に当たる。
東京マラソン2023では、2時間5分59秒と、目標の5分台を出したが、「日本人トップをとれず、後輩(山下)に負けたのは悔しい」と微妙な表情を見せていたのが印象的だった。駒澤大学時代も其田は強い上の代と下の代に挟まれ、悔しい思いをしてきた。上の代は村山謙太、中村匠吾、下の世代では西山雄介らがおり、2年時の出雲駅伝では其田の学年はひとりもエントリーされなかった。そのため、其田の代は「谷間の世代」と呼ばれた。それでも、2年時に其田は箱根駅伝10区を走り、3年では9区3位、4年は主将として1区を任された。
大学時代に影響を受けたのが、前回MGCで優勝し、東京五輪のマラソンに出場した先輩の中村匠吾だ。1年生の時に中村と同部屋で、常に補強トレーニングをしている姿を見て、「本当に強い選手は誰も見ていないところでしっかりやっている」とその姿勢に感銘を受け、其田も補強を始めた。
卒業後は、JR東日本に入社し、2年後に初マラソンに挑戦、昨年の東京マラソンでは5分台を目指したが2時間7分23秒に終わり、それでも日本人2位になり、MGCをつかんだ。このレースでは鈴木健吾の飛び出しについていけなかった。「自分の弱さを痛感したレースでした。2分58秒で練習して、仕上がりも良かったので自信もあったんですけど、勝負できなかった。最後のスタミナが足りなかった」と悔しさを噛みしめた。それからポイント練習を1キロ2分55秒から58秒のペースに設定し、ジョグも毎日30キロを走り、月間走行距離は1000キロを超えた。その成果が3月の東京マラソンでの粘りのある走りにつながった。
タイプ的には山下に似て、「一発を狙おうとせず、コツコツ練習通りにレースをするタイプ」だ。すでに世界の速さは、ベルリンマラソンで経験済みで、ラスト5キロのペースアップは「異次元の世界だった」という。そこについていかなければ世界では戦えない。それを知る其田だけにブダペストでもペース変化に柔軟に対応し、最後まで上位に食らいついていく粘りのあるレースをみせてくれるはずだ。
西山和弥は自身2度目のマラソンで世界に初挑戦
西山和弥は、今年2月、自身初のマラソンとなる大阪マラソンで2時間6分45秒のタイムを出し、日本人トップ、総合5位でMGC出場権を獲得、今回の世界陸上の切符を手にした。
西山が彗星のように表舞台に登場してきたのは、東洋大学時代だった。1年時から3年連続で箱根駅伝1区を走り、1年、2年時は区間賞を獲得、どの大学も1区の西山を警戒するようになった。だが、いい時ばかりではなく、大学3年の時は恥骨の剥離骨折を経験し、4年も万全ではない状態のまま走り、7区12位に終わった。大学で影響を受けたのが、相澤晃だった。相澤が卒業する際、他の選手に渡される予定だった愛用のテーブルを譲り受け、「お前ならもっとやれる」と叱咤激励された。3、4年時は苦しんだが、相澤らを間近に見て競技できたことが財産になった。
トヨタに入社後、マラソンを本格的に取り組むようになったのは1年目に同期の星岳が大阪マラソン2022で日本人トップの結果を出したことが影響している。その激走を見て、「すごく刺激になって、マラソンをやるなら早いほうがいい」と思い、すぐにマラソンに取り組んだ。大阪マラソン2023では、目標タイムを2時間8分台に設定していたが、30キロ以降も足が動き、池田燿平と競り合う中、最後は突き放して日本人トップでフィニッシュした。MGCとブダペスト世界陸上のチケットを同時に得たが、両方にチャレンジすることに躊躇はなかった。西山は「2本勝負できる経験は今しかできないですし、この経験が仮に五輪の切符が取れなくても絶対にこの先につながると思うので、世陸で勝負し、MGCもただの経験で終わらないようにしっかり走りたい」と語る。
ブタペストではスローなどいろんなレースを想定しつつ、高速にも対応できるように1キロ2分57秒ぐらいに上げてポイント練習をこなし、スピードの余裕度を増してきた。世界の大舞台の厳しさは、東京五輪を走った同じチームの服部勇馬から聞いている。世界大会はかかる重圧が他のレースの比ではない。その舞台に立った人にしかわからない世界を見るために、西山はブダペストで自身2度目のマラソンに挑む。
勝負どころは30キロ以降。勝負のトリガー引くアフリカ勢
ブダペストのマラソンコースは、1周10キロのコースを4周する周回コースだ。ドナウ川にまたがるセーチェーニ鎖橋を越える際が唯一といえる坂道で、暑さなど気象コンディション次第だが、それほど難コースではないとみられる。競歩20キロでは、今季世界最高記録が出たが、マラソンもロンドンマラソンでケルヴィン・ピクタム(ケニア)が出した今季最高記録の2時間01分25秒は難しいにしても、ティモシー・キプラガット(ケニア)がロッテルダムマラソンで出した2時間03分50秒あたりが優勝の目安になるかもしれない。
レース展開は、最近の国際レースのセオリー通り30キロ以降が勝負になるだろう。
注目すべきは、誰が、どこでスパートをかけるのか。東京オリンピックでは30キロ過ぎにエリウド・キプチョゲ(ケニア)がロングスパートをかけて金メダルを獲得した。今回は東京マラソン2023で優勝したデソ・ゲルミサ(エチオピア)、オレゴン世界選手権で優勝したタミラト・トラ(エチオピア)、東京マラソン2023で3位のタイタス・キプルト(ケニア)をはじめ、ティモシー・キプラガット(ケニア)ら強いアフリカ勢がそろっており、彼らが勝負のトリガーを引くのは間違いないだろう。
日本人選手にとってやっかいなのは超ハイペースの展開もそうだが、国際レースに見られる小刻みなペース変化だ。西山雄介は昨年のオレゴン世界陸上のマラソンで、数百メートル単位でペースが変わるレースを初めて経験し、こんなに短い距離でペースが激変するのかと驚き、それに対応する難しさを感じたという。これは経験してみなくては分からないもので、まだアジアの経験しかない山下と世界初挑戦の西山は今回、その洗礼を浴びることになる。小刻みなペース変化に苦慮し、そこでスタミナを失ってしまうと後半の勝負所で力を発揮できなくなる。そのペース変化に惑わされず、いかに省エネで35キロ地点を迎えられるか。そこからレースが動き、「よーいドン」の勝負になる可能性もあるが、3人ともスピードを磨いてきており、できるだけ前で勝負したい。ゴール前、アフリカ勢とのスプリント勝負にならなければ勝機はある。
世界陸上の男子マラソンは、2013年のモスクワ大会で中本健太郎が5位に入って以来、入賞者が出ていない。メダルに至っては2005年のヘルシンキ大会で尾方剛が銅メダルを獲得してから18年間、メダリストが誕生していない。マラソンは世界との差が開きつつあると言われているが、3人が個々の力を発揮して最後まで先頭集団で粘り続けることができれば、ブダペストのマラソンは腰を浮かせてくれるような胸熱のレースになるに違いない。
<了>
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