
ラグビー山中亮平を形づくった“空白の2年間”。意図せず禁止薬物を摂取も、遠回りでも必要な経験
何度でもどん底から立ち上がり、決して諦めず、前進し続けるアスリートの姿は胸を打つ。学生日本一、2年間の資格停止処分、日本代表落選、ワールドカップ出場……。ジャパンラグビー リーグワンのコベルコ神戸スティーラーズに所属する山中亮平もまた激動のラグビー人生を強い信念を持って乗り越えてきたアスリートの一人だ。そこで本稿では山中亮平の著書『それでも諦めない』の抜粋を通して、“何度でも立ち上がる男”の紆余曲折の人生を振り返る。今回は、ラグビーから離れて会社員生活を余儀なくされた「空白の2年間」について。
(文=山中亮平、写真=長田洋平/アフロスポーツ)
2年の資格停止と退部、新入社員に
2011年8月に入ってすぐ、運命の日はやって来た。そのときはもう出場停止は覚悟していて、なんとか1年くらいにならんかなという気持ちだった。
IRB(国際ラグビー機構)の決定を聞くため、再び秩父宮のラグビー協会に一人で向かった。
「2年です」
IRBはドーピング目的で使用したものではないことは認めてくれたが、違反者に定められている2年間の資格停止処分を軽減する理由はないという結論を下した。
資格停止期間は、ホテルで禁止薬物検出を伝えられた日から2年後の2013年4月27日まで。東京駅に向かうタクシーの中で「終わった」と一人泣いた。タクシーを降りてからどうやって帰ってきたか、実家への帰り道はどんな気持ちだったかはまったく記憶がない。目の前が真っ暗になるというが、まさにそんな感じ。2013年4月が先すぎて、しばらくは何も考えられそうになかった。
4月から神戸製鋼所属になっていたわけだから、このままというわけにはいかなかった。日本協会から正式に発表になる前に、平尾さんと会って今後のことについて話した。
「お前は絶対に未来があるから、この2年は我慢をして、しっかりやっていけばいいんじゃないか」
平尾さんの提案は、プロで入っているけれど、社員に戻って停止期間を過ごして、2年後に再びラグビーをやればいいというものだった。ありがたい言葉だし、入ったばかりのプロ契約の選手が、社員として入社させてもらえるなんて前代未聞だろう。
平尾さんと話す前は、例えばリーグラグビーとか、何とか他の環境でラグビーを続ける選択肢はないかと考えていた。リーグラグビーで2年間、スーパーリーグかオーストラリアでプレーして、また戻ってくればラグビーの感覚を失わずプレーも続けられるんじゃないか? 平尾さんにもその考えを話したが、事件の時効のように海外でリーグラグビーをプレーしている間は資格停止期間が止まり、たとえ2年リーグラグビーをやっても、そこからまた2年は出場停止になるという説明を受けた。
いっそのこと、ラグビー関係なく留学でもしようかなと思ったが会社にも迷惑をかけているし、退部して社員になることで話がまとまった。
8月9日付けでラグビー部を退部。翌日の10日には、日本協会から資格停止処分が正式に発表された。春から代表合宿に行ってしまったため、神戸製鋼コベルコスティーラーズの一員として活動したのは、「山ちゃんと呼んでください」と学生ノリであいさつしてひんしゅくを買った最初の自己紹介のときくらい。その年の9月からは、神戸製鋼所総務部の新入社員としての生活が始まった。
それまでバイトすらしたことがなかったから、最初は戸惑うことだらけだった。配属先の総務部では、2年後に完成する本社新社屋のプロジェクトに入って、エントランスに掲示する「神戸製鋼の歴史・沿革」の写真を選んだり、文言を考えたりもした。新社屋のロッカーはここ、デスクはここに置いて、通路の幅は何ミリでみたいなレイアウトも総務部が担当していたからそういうこともやった。日々の業務で雑用的なこともやった。
仕事をしてトレーニングをする毎日
パソコンは大学時代に普通に使っていたから困ることはなかったが、電話は苦手だった。緊急の新入社員だから、新人研修も受けていなくて、そもそもビジネスマナーがわかっていない。電話を取っても「なんて言えばいいんやろ?」という状態だった。
仕事はちゃんとやっていた。9時から17時30分まで仕事をして、定時になったらすぐにパソコンをパタンと閉じて、17時37分の電車に乗って途中でおにぎりを食べて、一般のトレーニングジムでトレーニングをしていた。当時は本社に社員食堂がなく、弁当では量が足りなかったので、近くのサイゼリヤに行って食べていた。その甲斐あって、体はしっかりとキープできていた。
この期間はほぼ遊びに行くこともなく、21時頃までトレーニングしたら、寮に帰って寝る規則正しい生活を送っていた。
資格停止期間中は、ラグビーに関わることが許されなかった。グラウンドはもちろん、クラブハウスも含めてラグビー部の施設は使用禁止。当然ジムも使えず、ラグビー部の活動時間に選手やスタッフに関わるのさえ控えるようにしていた。
禁止されなくても、自分からラグビーに積極的に関わりたいとも思っていなかった。どうせできないし、下手に触れるとラグビーが遠くに感じてしまいそうで、テレビですら試合を見ることはなかった。
この期間も、抜き打ちでドーピング検査があった。国際大会やオリンピックに出るようなアスリートは、1時間ごとに自分がどこにいるか報告する必要がある。報告した場所に合わせてJADAの検査員がやってくる。だいたい早朝に来ることが多くて、朝の6時頃に寮長が「来たよ」と部屋に来て、尿を採取して帰っていく。痛くもない腹を探られているようでイヤな気持ちはあったが、アスリートなら誰でもやらなければいけない義務でもある。気にしないようにしていたが、ストレスで急性胃腸炎になって会社を休んだりしたから、ラグビーから離れたことで、本来持っていた繊細な部分が出たのかもしれない。
体力維持のためのトレーニングと同級生の支え
2年後に復帰すると決めてはいたが、これまで大きなケガや不調期間もなくずっとその世代のトップでプレーしてきた。2年もブランクがあって大丈夫なのかという不安は付きまとった。周囲からも「山中は戻ってこれないんじゃ?」「戻ってきてもトップレベルでやるのは難しい」という見方はあったと思う。でも何もせずに2年を過ごしたらそのまま消えていくことは、俺が一番わかっていた。
ラグビーボールに触ることさえ注意されそうな雰囲気の中で、どうやって体力を維持するか。毎日欠かさずトレーニングをしていたのは、何かしていないと不安になるというのが大きかった。自己流やジムのトレーナーに聞きかじったメニューをこなすだけでは不十分なこともわかっていた。
そこでラグビー選手を始め、日本のトップアスリートが肉体改造、身体能力強化のために足を運んでいるジム、竹田塾(ピークパフォーマンスラボラトリー)に通うことにした。主宰の竹田和正さんは、大型のマシンを使わず、自重を活用しながら筋力やアジリティー、バランストといったアスリートに必要な能力を向上させる独自の理論で数々の実績を残していた。
竹田塾は神奈川にある。会社員として働いている以上、行くとしたら週末になる。プロ契約を解除されて、神戸製鋼所の社員としての給与しかもらっていなかったから、毎週末通うには金銭的余裕がなかった。2週間に1回、土曜と日曜に神戸から通うことに決めた。
問題は宿泊先だ。2週に1度とはいえ、毎回ホテルに泊まるのもキツい。東京で一人暮らしをしてるヤツがいれば、泊めてくれないかな? と、考えてすぐに頭に浮かんだのが、早稲田大学ラグビー部の同期、井村達朗だった。当時目白で一人暮らしをしていた井村に、「2週に1回行くからよろしく」とお願いして、本当に停止期間ずっと2週間に1回泊めてもらった。鍵の置き場所を教えてもらっていたので、井村がいなくても勝手に入って部屋を使わせてもらうこともあった。俺の事情や状況もわかっているし、実は繊細な性格も理解してくれていた。1年半くらいだったと思うが、面と向かって資格停止を話題にすることはなく、トレーニング前後に遊びに連れ出してくれたり、あいつなりに気遣ってくれていたんだと思う。
あるとき、井村の部屋でメモ書きみたいな紙を見つけたことがあった。なんとなく目に入ったので、気になって何が書いてあるか見ると「山ちゃんを絶対に日本代表に戻す。そのために俺は協力する」という内容のことが書いてあった。
口には出さないけど、そんな決意を持って協力してくれたんだと思うとうれしかった。井村なりの決意表明だったのかもしれないが、何か見てはいけないものを見てしまったような、気恥ずかしいような、井村のためにもがんばらないとと思えた。
結果として、2週間に1度東京に行くことが気分転換になっていた。しっかりトレーニングもするので、遊んでしまった罪悪感もなかった。復帰に向けてのモチベーションを保つうえで、あの時間と井村はなくてはならない存在だった。
どんなときもかっこいい平尾誠二さんの励まし
会社では順調に“総務部の山中”として仕事をこなしていたが、ふとした瞬間に「俺は何をやってるんだ」と焦ることはあった。そんなとき、絶妙のタイミングで顔を見せてくれたのが、平尾さんだった。
「どうや山中、いまからランチ食いにいこうか?」
昼メシを食べながら、ラグビーの話をするわけでもなく「どうや、最近は調子どうや?」とさりげなく聞いてくれる。気にかけてくれていることがうれしかった。
たまに夜の街にも連れ出してくれた。平尾さんはどんなときでもとにかく大人でかっこいい。何がと聞かれると困るけど、存在そのものがかっこ良かった。別れ際にはいつも「我慢やぞ」と、励ましてくれた。
山中亮平を形づくった“空白の2年間”
このときのことは別に自分の中でタブーではないし、聞かれれば話しているから「初めて語った」というわけではない。ただ復帰から何年も経って、日本のトップリーグで結果を出して、日本代表にも復帰して、実績やプレー内容で他にも語ることがたくさんあるはずなのに、「山中亮平といえば……」みたいな感じで、必ず資格停止について触れるメディアにいらついていた時期はあった。
「もうええやろ。なんで毎回セットで書かれなあかんねん」
そんな気持ちも今ではまったくなくなった。悪意を持って書かれたらムカつくだろうが、まだそこで情報が止まっている人がいるならそれも仕方ない。それより今の俺を見て評価してくれる人が増えるようにがんばろうと思えるようになった。
まったく意図せず禁止薬物を摂取してしまい、それが検出された。ルールはルールということは理解できていても、「なぜ俺が?」「俺ばっかり」という気持ちはずっとあった。
ただこの期間は、今となっては自分のキャリアに必要な経験だったと思っている。
復帰した頃、昔からの友達に「この2年間で顔が変わったね」と言われたことがあった。その友達が言うには、顔が優しくなったという。高校生のときは目がつり上がっていて、怖かった。大学生になって少し柔らかくなったけど、まだトゲトゲしたオーラはあって、目もつり上がり気味だった。でも今は、全体的に顔が優しくなったのだという。
社業に携わることで、社会勉強ができたこともそうだが、なぜ自分たちがラグビーに専念できているのか、ラグビーができることの幸せを知ることもできた。ラグビーができないからこそ、もっとやりたくなった。あのときの2年間がなかったら、確実にもっと早く引退していた。
起きてしまったことは変えられない。だからそれをプラスにしていくしかないというのもあるが、あの“空白の2年間”の経験があったからこそ、36歳になった今もラグビー選手・山中亮平としてブレずにプレーを続けられている。
(本記事は東洋館出版社刊の書籍『それでも諦めない』から一部転載)
<了>
【第4回連載】「ドーピング検査で陽性が…」山中亮平を襲った身に覚えのない禁止薬物反応。日本代表離脱、実家で過ごす日々
【第3回連載】「キサンッ、何しようとや、そん髪!」「これを食え」山中亮平が受けた衝撃。早稲田大学ラグビー部4年生の薫陶
【第2回連載】高校ラグビー最強チーム“2006年の仰星”の舞台裏。「有言実行の優勝」を山中亮平が振り返る
【第1回連載】「やるかやらんか」2027年への決意。ラグビー山中亮平が経験した、まさかの落選、まさかの追加招集
ラグビー欧州組が日本代表にもたらすものとは? 齋藤直人が示す「主導権を握る」ロールモデル
[PROFILE]
山中亮平(やまなか・りょうへい)
1988年6月22日生まれ、大阪府出身。中学1年の終わりからラグビーをはじめ、東海大学付属仰星高校(現・東海大学付属大阪仰星高校)では攻撃的なSO/スタンドオフで“ファンタジスタ”とも呼ばれ、3年時には全国高校ラグビー大会で優勝した。早稲田大学に進学後はすぐに頭角を現し、1年・2年次に全国制覇を経験。大学4年の春には日本代表初キャップを獲得した。大学卒業後に神戸製鋼コベルコスティーラーズ(現・コベルコ神戸スティーラーズ)に入団。2018-2019シーズンにはトップリーグで15年ぶり、日本選手権で18年ぶりの日本一を果たした。その翌年に開催されたラグビーワールドカップ2019日本大会では全5試合に出場し、日本・アジアラグビー史上初の8強進出に大きく貢献した。2021年以降も継続して日本代表に選出されるが、ラグビーワールドカップ2023フランス大会の直前ではまさかの落選。しかし、大会期間中に追加招集され、2大会連続のワールドカップ出場を果たした。日本代表は30キャップ。
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