
久保建英も被害にあった「アジア系差別」。未払い、沈黙を選ぶ選手…FIFPROが描く変革の道筋
広大なアジア・オセアニア地域を横断する選手の声に耳を傾け、制度の空白を埋めていく──。2024年10月、FIFPRO(国際サッカー選手会)アジア・オセアニア支部の事務総長に就任した辻翔子氏は、地域専用SNSの立ち上げ、各国選手会との対話、関係機関との連携という3つの優先事項に同時に着手した。報酬未払い、代表機会の欠如、権利意識の希薄さなど、多様な課題が複雑に絡み合うこの地域で、選手が声を上げにくい構造そのものに向き合いながら、差別是正という困難なテーマにも取り組む。アジア・オセアニアの実情と制度改革の課題について、辻氏に聞いた。
(インタビュー・構成=松原渓[REAL SPORTS編集部]、写真=なかしまだいすけ/アフロ)
事務総長就任直後に着手した3つの優先事項
――辻さんが2024年10月にFIFPRO(国際サッカー選手会)アジア・オセアニア地域の事務総長に就任した際、最初に取り組んだことは何でしたか?
辻:広い地域なので、当初は何から手をつけるべきか分からないような状況でしたが、まずはFIFPROの存在意義や使命を多くの選手に知ってもらうことが最初のミッションでした。最初に行ったのは、アジア・オセアニア地域専用のSNSアカウントを立ち上げることです。それまでは、全地域をカバーするグローバルアカウントに頼っていたため、有名選手のインタビューでなければ取り上げにくく、他地域とのバランス調整も必要でした。独自のプラットフォームがあれば、アジア・オセアニアに特化した情報を発信できますし、困っている選手が気軽に連絡できるような環境を整えることもできます。加えて、運営・管理体制の構築にも着手しました。
2つ目は、各国の選手会の代表者と個別に話すことです。思い込みで物事を進めるのが最も危険だと思っていたので、FIFPROアジア・オセアニアとして何が本当に求められているか、実際に確認するところから始めました。
3つ目は、AFC(アジアサッカー連盟)やOFC(オセアニアサッカー連盟)といったステークホルダーとの関係構築です。これまでこの地域ではそうした関係がほとんどなかったため、就任後すぐに挨拶状を送り、AFCとは2回、OFCとは1回、対面でのミーティングを行いました。
――この8カ月あまりで、3つの重要なタスクを同時並行で進めてきたのですね。本部勤務時代と比べて、かなり多忙になったのでは?
辻:そうですね。各国の選手会や選手のサポートに加えて、ステークホルダーやメディアとの対話も増え、業務量は格段に増えました。でも、その分やりがいも感じています。本部にいた頃は、各国の選手からの問い合わせ対応とミーティングで日々が埋まり、カバーするエリアが広すぎたため、こちらから戦略的に動く機会はあまりありませんでした。今のポジションでは、特定の地域に集中して取り組むことができ、選手の声を聞きながら、こちらが主体的に動けているという実感があります。
選手の声が映し出す、アジア・オセアニアの実情
――現在、FIFPROが把握しているアジア・オセアニア地域の主な課題には、どのようなものがありますか?
辻:国や地域によって、また男女によっても直面している問題は異なります。例えば日本では、J1からJ3、WEリーグに至るまで、給与の未払いは基本的にありません。しかし、アジアカップ出場国の中には、見かけ上は環境が整っていても、実際には未払い問題を抱える国も存在します。
南アジアサッカー連盟(SAFF)の女子選手を対象に行ったアンケートでは、「今の状況を改善するとしたら何が一番いいか?」という質問に、9割の選手が「代表活動ができるようになりたい」と回答しました。これはマッチメイクの問題ではなく、FIFAのインターナショナルマッチウィンドウが活用されておらず、そもそも女子選手の代表活動の機会が確保されていないという現実があります。
代表活動が確保されていても、試合を行う環境が提供されていないケースもあります。例えば、今年4月に予定されていた台湾対ニュージーランドの女子代表親善試合は、両チームが現地に到着した後、ピッチコンディションがあまりに悪く、結局2試合とも中止となりました。アジアカップを控える台湾にとって、極めて貴重な機会だったにもかかわらず、です。
また、日本やニュージーランドでは、海外クラブでプレーする選手が増えており、代表活動のたびに長距離移動が必要になることで、ケガのリスクも高まります。
――国による格差も見られるのですね。アジア全体で見られる傾向としてはいかがですか?
辻:まず、選手が「自分に権利がある」ことを知らないケースが非常に多いと感じています。特に東アジアでは、教育や文化的背景も関係していると思いますが、プロになってからも理不尽な状況に耐えることが当たり前になっていて、自分の権利を主張したり、労働組合に関わるという発想が根づきにくく、意識を変えるのも難しいと感じます。
さらに、「声を上げるのが怖い」という傾向もアジア・オセアニア全体で見られます。代表選出から外されることを恐れて、問題があっても沈黙を選ぶ選手が少なくありません。これは、この地域ならではの難しさだと感じます。日本ではJPFA(日本プロサッカー選手会)は、JFA(日本サッカー協会)や各リーグと良好な関係を築けていると思いますが、なかには自国選手会をステークホルダーとして認めていない協会やリーグも存在します。
プロに必要な環境からの逆算
――サッカー選手が職業として成り立つ環境を整えるために、アジア地域で特に必要な施策は何だと思いますか?
辻:やはり、まずはペイ(報酬)の改善が最も重要だと考えています。そのために、アジア最高峰の大会である女子アジアカップで賞金を増額することによって、「代表選手としてアジアカップに出場すれば、これだけの報酬が得られる」という具体的な指標が生まれます。これは、女子サッカー選手がキャリアとして成り立つことを示す手段ですし、次世代の選手たちがサッカーを職業として捉えるための土台にもなります。
実際に選手からは、「賞金が欲しい」というより、「その資金をサッカーの自己投資に充てたい」という声が多く聞かれます。例えば、個人的にフィジカルコーチや栄養士、マッサージ師を雇うといった、男子のトップカテゴリーの選手では一般的となっていることが、多くの女子選手にはまだ難しいのが現状だと思います。よりプロフェッショナルなキャリアを築くためにも、最初に取り組むべきはペイの改善だと考えています。
――近年、ヨーロッパを中心に女子サッカーのレベルや興行面での発展が見られますが、アジアでも同様に、成長に伴ってビジネス面での機会が広がる可能性があります。FIFPROとして後押ししていきたい部分はありますか?
辻:人気向上に必要なことや改善点についての質問で、女子選手から「マーケティングの改善」を求める声が多く寄せられたのが印象的でした。男子も女子も、賞金や給料だけでなく、機会やマーケティングに関するリソースなども含めて、イコーリティ(平等)を目指すべきだと考えています。そういった意味でも、選手の声に共感しています。
FIFPROとして、リーグやクラブに対してマーケティングに特化した施策を要請することはほとんどありませんが、例えばSNS運用において、男子だけでなく女子にも、質の高い写真や映像を撮影できるスタッフなどのリソースが必要です。そうした支援は選手のPRにもつながるので、私たちとしては全力で後押ししたいと考えています。
見えにくい差別にどう立ち向かうか──FIFPROが示す道筋
――FIFPROアジア・オセアニア総会では、「アジア系差別是正への取り組み」も大きなテーマとして取り上げられました。辻さんご自身、どのような思いでこの問題と向き合ってこられたのでしょうか?
辻:この問題の深刻さに気づいたのは、大学卒業後にスペインで暮らしていた時です。日常生活の中でも差別的な言葉を投げかけられることがありましたし、スタジアムではさらに露骨な形で目にするようになりました。実際、知り合いの選手からも被害の話を聞くことが増えていきました。FIFPROの総会で登壇してくれた山本摩也選手も、スペインでプレーしていた時の自身の体験を共有してくれましたが、特にコロナ禍以降は、こうした差別がチーム内でも深刻化していると感じています。
――クラブハウスやロッカールームの内側は、選手が声を上げなければ問題が表面化しにくい場ですが、スタジアムでの出来事についてはファンやサポーターからの報告が大半を占めているそうですね。
辻:はい。実際、報告の99%はファンやサポーターからのもので、選手が自ら声を上げるのはごくわずかです。特に欧州では黒人差別への関心が高い一方で、アジア人に対する差別は注目されにくく、実際に起きていても見過ごされがちです。この課題にフォーカスした団体はほとんどなく、私たち自身がゼロからコンテンツをつくる必要がありました。
まずは「そういう差別が存在する」ことを知ってもらうことが大切です。ソン・フンミン選手や久保建英選手の事例からも分かるように、すでに当事者になった選手もいます。今後、そうしたケースが繰り返されないようにすることはもちろん、万が一起きてしまった際に備える体制づくりも重要だと考えています。
――FIFPROとしては、どのような対策を講じているのでしょうか?
辻:例えば、差別に悩む選手に対して「こういうリソースがあります」「こうしたアクションを取れます」といった情報を伝え、安全な環境を提供するための体制を整えています。また、何気ないジェスチャーが実は差別的な意味を持つこともありますので、それに気づいてもらうことも大切だと考えています。そのために、クラブやリーグ、メンタルヘルスや法的な専門家と連携を図っています。
――実際に、この取り組みを始めてから、声を上げる選手は増えてきましたか?
辻:はい。インスタグラムで発信したコンテンツは、想像以上に多くの人に共有されました。代表選手の中には「ずっと待っていた」と書き込んでくれた人もいれば、「これまで気づかなかったけど、あれは差別だったんだと気づいた」というフィードバックもありました。
――発信できる場があることは大きいですね。
辻:そう思います。ただ、特にこのテーマはデリケートな内容なので、最初は体験談を語ってくれる選手を見つけるのも大変でした。知らない選手にいきなり声をかけるのは難しいため、まずはスペインで以前から発信していた選手に相談し、協力をお願いしたり、他の選手を紹介してもらう形でネットワークを広げていきました。山本摩也選手のように、すでにメディアで発信している選手の協力も大変貴重でした。
【連載前編】アジア初の女性事務総長が誕生。FIFPRO・辻翔子が語る、サッカー界の制度改革最前線
【連載後編】将来の経済状況「不安」が過半数。Jリーグ、WEリーグ選手の声を可視化し、データが導くFIFPROの変革シナリオ
<了>
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[PROFILE]
辻翔子(つじ・しょうこ)
1988年8月12日、神奈川県出身。父親の仕事の関係で小学校3年生までオランダで育ち、高校1年生(16歳)からサッカーを始めた(国際基督大学高等学校)。早稲田大学ア式サッカー部女子部で3、4年時に全日本大学女子サッカー選手権大会連覇を達成。2011年の大学卒業後はスペインに渡り、マドリードの大学院でスポーツジャーナリズムを専攻。その後、現地のコーディネート会社でラ・リーガの現地取材や中継を担当。2016年にFIFAが運営する大学院「FIFAマスター」に進学し、修了。卒業後、ライブ配信会社などサッカー関連企業での勤務を経て、2022年にFIFPROに入社。2024年10月に、アジア人女性として初めてアジア・オセアニア支部の事務総長に就任した。アムステルダム(オランダ)在住。
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