松永成立が語る、辞任後の胸中。横浜F・マリノスと歩んだ40年、GKコーチを辞しても揺るがぬクラブ愛

Career
2025.09.12

2025年5月30日、この男の辞任はサッカー界に衝撃を与えた。19年にわたり、横浜F・マリノスのGKコーチを務めてきたレジェンドによる、突然の決断だった。チームが降格圏で苦しむこの時期に、なぜ現場を離れることを選んだのか。インタビューは辞任から3カ月が経った、残暑厳しい8月末、横浜で行われた。40年間のサッカー人生の重みと、それでも消えることのない情熱が垣間見えた。

(インタビュー・構成=鈴木智之、撮影=大木雄介)

日産からマリノスへ40年――松永成立が下した決断

松永成立、63歳。

松永は、よく通る低音でインタビューに応じてくれた。

「この歳になって健康も気にしなければいけないから、スポーツジムを契約してね。日々のルーティーンのように通っています。たまにマリノスのファン・サポーターの方に声をかけられるんですよ。『何してるんですか?』と聞かれます(笑)。」

長くサッカーと共に生きてきた。1985年に横浜F・マリノスの前身である日産自動車サッカー部に入ってから、今年で40年になる。ボールを触らない生活には、新鮮さと戸惑いが入り混じっているという。

「ボールを蹴らない生活も3カ月が経ちました。人生で初めてのことなので、どういう生活になるのか、まったく想像ができませんでした。でも今はのんびりと、自分のためだけに時間を使えていることに新鮮味を感じています。ただ、こういう時間をもう少し有効活用していかないといけない。これからどうしようか、クラブとともに模索しているところです」

流れる時間の早さは、数カ月前とは違ったものになった。とはいえ週末が近づくにつれて、否が応にも気になることがある。

「もちろん試合は見ています」

チームは降格圏で苦しんでいた。松永の心境は複雑だった。

「まずは残留のため、安全圏に持っていってほしい。とにかくJ1に残ってもらって、その状況でマリノスとしてのあるべき姿、立つべき場所を、再確認する機会にしてほしいと思っています」

これは元コーチとしての思いでもあり、日産自動車サッカー部から連なるOBとしての偽らざる本音でもあった。

「心配をかけたのは間違いない」ずっと伝えたかった胸中

一方で、チームをこの順位にしてしまったことについて、悔恨の念もある。チームを離れることが決まっていた5月25日の鹿島アントラーズ戦。試合後、ファン・サポーターのもとへ挨拶に行きたかったが、低迷するチーム状況ゆえ、それも叶わなかった。

「この取材の場で、顔を見ずにサポーターの皆さんに話をするのは失礼だと思っています。でも、この場を借りて謝りたいことがあります」

松永は言葉を選びながら続けた。

「どんな理由があっても、チームが苦しい時に現場を離れたのは事実です。それで心配をかけてしまった。長くサッカー界にいると、色々な方から話を聞きます。『サポーターが心配している』と。(辞任につながる)内部のことは言えませんが、心配をかけたのは間違いない。それは謝りたいと思っています」

その後、言葉をこう重ねる。

「ただ、一つだけ信じてほしいことがあります。クラブを嫌いになったわけでも、サッカーを嫌いになったわけでもない。後付けの言い訳だと取られても構いません。でも、これが私の本心です。それだけは、ぜひ伝えたい」

松永がクラブに別れを告げたわけでも、クラブから別れを告げられたわけでもない。「白黒はっきりつけたい性格」という松永にとって、現状は歯がゆいだろうが、一つ言えるのは、いまもなお横浜F・マリノスの一員であるということだ。

「現場のGKコーチからは退きましたが、それ以外の形で関わってほしいという話になっています。ただ、具体的に何をするかは、まだ決まっていません。今はお互いに模索している段階です」

さらに松永は付け加える。

「クラブとしても、私個人としても、焦ってはいません。双方にとって良い方向に進めればと思っています」

現場から一歩引いた今だからこそ、見えるものもある。

「この立場になって、色々な方の意見を聞く機会が増えました。現場にいる時は、そういう時間がなかなか取れませんでした。その意味では良かった面もあります。私個人に対する、厳しい意見を言ってくれる人もいます」

松永と付き合いのある人は、裏表がなく、物事をはっきり言う人が多いという。

「『今までやってきたことは正解だった』と言ってくれる人もいれば、この歳になっても、『お前のここがよくない。直せるのであれば直したほうがいい』と言ってくれる人もいる。今は、すべての意見を素直に聞ける自分がいます」

もともと「自分の意見を曲げない性格」だった松永にとって、意外な変化だという。「自分でも不思議に思うんですよ」と、柔らかな笑みを浮かべる。

クラブと一緒に喜んでくれるファン・サポーターがいてこそ

横浜F・マリノスの前身は、日産自動車サッカー部だ。1972年に神奈川県2部リーグからスタートし、1979年に日本サッカーリーグ(JSL)1部リーグに昇格。1985年に加入した松永は当時の加茂周監督のもと、木村和司、金田喜稔、水沼貴史といった名選手たちとともに、横浜F・マリノスの礎を築いた。

「今の選手や若いファン・サポーターの方には、日産自動車がどれほどのチームだったか、知らない方も多いかもしれません。私は恵まれていて、日産とマリノス、両方のクラブに関わることができました。日産自動車サッカー部の立ち上げに関わった人たちとも、まだ付き合いがあります」

今や知る人も少なくなった、日産自動車から始まる横浜F・マリノスの歴史。松永はそれを自身の存在で証明し続ける、生き字引でもある。

「歴史や伝統と言われますが、それは長くトップカテゴリーにいただけではなく、数々のトロフィーやタイトルを獲得したことが大きいと思います。タイトルを獲得して、その場にいるファン・サポーターの皆さんが喜んでいる姿を見る、声を聞く。これが一番の喜びです。歴史や伝統は、私たちだけが築いたわけじゃない。クラブと一緒に喜んでくれるファン・サポーターがいてこそ。その瞬間、瞬間が、歴史や伝統の1ページなんです。常に一体なんですよ、クラブとファン・サポーターは」

今シーズン、苦しい状況の中でもファン・サポーターは声を枯らして声援を送っている。それがどれほど選手の力になっているか、松永は身をもって感じていた。

「去年までもファン・サポーターの声援は、ものすごく力になっていました。でも今年、この苦しい状況でわかったことがあります。ファン・サポーターの声が、予想以上に選手の力になっているんです。これは間違いありません」

特に印象深かったのは、5月25日のホーム鹿島戦だ。

「鹿島戦の時、ホテルからバスでスタジアムに向かう途中、ものすごい数のサポーターがチャントを歌ってくれていました。あの試合は、間違いなくサポーターが勝たせてくれた試合です。それは私が言うまでもなく、選手が一番わかっていることです。間違いなく、サポーターの皆さんの勝利だったんです」

当時、チームはリーグ戦7連敗中。最下位と首位の対決に、3万人を超える観客が集まった。

誇りに思えるクラブ、それがマリノス

首位撃破の鹿島戦後、FC町田ゼルビアとのアウェイゲームにも快勝。連勝を飾ったが、6月に入ると3連敗。7月、8月と勝点を積み上げてきたが、降格レースを抜け出すには至っていない。

現在の状況について、松永は「クラブ全体の責任」だと考えている。

「今の現状は、フロントだけの責任ではないと思っています。選手やスタッフだけの責任でもない。クラブ全体の責任です。この問題を真摯に受け止めないと、スタジアムに足を運んでくれる皆さん、画面越しで見てくれている皆さんに対して、ステータスや誇りを持ってもらうことはできません」

松永はインタビュー中、何度もステータス、誇りといった言葉を口にした。

「ステータス、価値観、ブランドはものすごく大切なもので、一朝一夕にできるものではありません。(1988年度、89年度の)連続3冠から始まって、アジアのタイトルも獲った。俺たちのクラブは、ここまですごいんだと誇りに思えるクラブ、それがマリノスなんです」

では、ブランド価値を取り戻すために、何が必要なのか。松永は熱を込めて語る。

「この状況になってしまったことを、クラブとして、色々な部署の方も、現場の人間も選手も含めて、問題点をしっかりと抽出し、改善していけば、必ずまた皆が『マリノスは俺のチームだ』『俺たちの地域のチームだ』と、誇りに思えるクラブになれる。それが本来のマリノスの姿であり、立ち位置だと思います」

現場を離れてから、松永には多くのことを考える時間があった。

「チームが降格圏にいる中で辞めたことについて、『途中でそっぽを向いた』『逃げた』という人もいるでしょう。色々な人の考えや意見があるので、それは否定しません。そういう意見もあって当然だと思います」

その上で「日産とマリノス、両方に関わったOBとして、こういう状況に対する不満もあります」と言葉を絞り出す。

そして最後に、こう締めくくった。

「今、チームに対して何ができるかは、はっきりとは言えません。でも、マリノスが元の立ち位置に戻る中で手助けができるなら、ぜひさせてほしい。それはしなければいけない、義務だと思っています。マリノスが頂点に立つため、本当にあるべき姿に戻るため―――。そのためには100%力を貸します。これは断言できます」

インタビューは2時間に及んだ。話はこの後、19年間のコーチ生活について(連載中編)、GKの選手育成について(連載後編)へとつながっていく。

クラブへの愛情と責任感。情熱。そしてまだ見ぬ未来への希望。彼の中で、すべてが複雑に絡み合っている。日産自動車時代から数えて40年。松永成立と横浜F・マリノスの物語に、終章はまだ書かれていない。

<了>

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[PROFILE]
松永成立(まつなが・しげたつ)
1962年8月12日生まれ、静岡県出身。元サッカー日本代表。浜名高校、愛知学院大学を経て、1985年に日産自動車サッカー部(現横浜F・マリノス)に加入。横浜マリノスへとチームが名称変更後も不動の守護神として活躍し、1993年のJリーグ開幕戦にも正GKとして出場。その後、1995年より鳥栖フューチャーズ(現サガン鳥栖)、1997年にブランメル仙台(現ベガルタ仙台)、同年8月に京都パープルサンガ(現京都サンガF.C.)でプレー。2000年に現役引退。日本代表には1987年に初選出。日本の守護神としてダイナスティカップ、アジアカップ優勝に貢献。1993年のFIFAワールドカップ予選、最終予選ベスト11に選出。現役引退後、2001年に京都パープルサンガのGKコーチに就任。2007年からは横浜F・マリノスでGKコーチを19年間にわたって務め、2025年5月30日に辞任を発表。

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