ジャンルイジ・ブッフォンが語る「GKとしての原点」。困難を乗り越える“レジリエンス”の重要性
“世界最高峰のGK”として君臨し続けたプロ生活28年――。17歳でプロデビューを果たし、史上最多10度のセリエA制覇を成し遂げ、45歳まで現役を貫いたジャンルイジ・ブッフォン。イタリア代表では史上最多キャップを誇り、2006年にワールドカップ優勝を成し遂げた。その輝かしいキャリアの裏には、無数の失敗、敗北、葛藤、そして“立ち上がる力”があった。本稿では『ジャンルイジ・ブッフォン自伝 何度でも立ち上がる』の抜粋を通して、“ジジ”自身が初めて語る挑戦の物語をひも解く。今回は、毎日泥にまみれながら成長を遂げたGKとしての原点について。
(文=ジャンルイジ・ブッフォン、訳=片野道郎、写真=Insidefoto/アフロ)
母の教えと父の直感。「サッカーを始めた当初はMFだった」
自己紹介しよう。私はジャンルイジ・ブッフォン。45歳までサッカーを続け、プロとして28年プレーした。その間、地面に倒れ込んだ回数は億千万にも上るだろう。私はいつ、どのように倒れるべきかを知っている。それはボールの蹴り方を覚えるのと同じようにして身につける技術であり、それを学ばずにこの仕事はできない。私は誰もがそうであるように、1人の人間だ。喪失、敗北、失敗、移転、別離。人間は誰でも転ぶ。しかし常にそこから起き上がるとは限らない。
今日それは「レジリエンス」と呼ばれる。衝撃、ストレス、外傷に耐え、前向きな精神でそれを乗り越える力のことだ。
スポーツの世界において、逆境に直面した後に自らを取り戻す力は、きわめて重要な資質だ。陸上競技のチャンピオンを家族に持ったことが、私のレジリエンスを形成する上で大きな助けになったのは間違いない。円盤投げは古代ギリシャのオリンピックから続く由緒ある競技のひとつであり、スポーツやアスリートの身体を思い描く時、人はミュロンの『円盤投げの像』という完璧な彫像を思い浮かべる。
私の母、マリア・ステッラ(円盤投げのイタリアチャンピオンに3度輝いた)は、向上のためには忍耐が不可欠であることを私に教えてくれた。少しずつゆっくりと、時には目に見えないほどの一歩を積み重ねながら、常に前に進んで行かなければならないこと。そして、なかなか到達できないという困難がもたらすフラストレーションには注意しなければならないということも。なぜなら、そのフラストレーションは人を諦めに導く危険をはらんでいるからだ。親愛なるマンマ。私はあなたが教えてくれた通り、同じシーズン、同じ試合、時には同じプレーの中で何度も倒れては立ち上がり、戦い続けてきた。転び、膝をすりむき、そして立ち上がる。すべてはその繰り返しの中に込められている。
私はGKとしてプレーしてきたが、サッカーを始めた当初はMFだった。アドリアーノ・ブッフォンは当時体育教師で、少年チームを指導しており、サッカーに詳しかった。私が今の私であるのは、彼の直感のおかげだ。MFとしてもそれなりにやれていた。しかし父の直感は、私がGKにこそ向いていると告げていた。
初めて手にしたGKグローブはウールシュポルト
私は、他の大勢とは違う自分でいたいというナルシシズムに背中を押されて、その挑戦を受けいれた。
チームメイトとは違うユニフォームを着て、グローブをはめ、必死にボールを追いかける10人の仲間たちの「最後の砦とりで」になる。だから、ピッチに立ったら自分は、単に見た目が違う(時にはよりかっこいい)というだけでなく、誰よりも無鉄砲で勇気に満ちた存在になるべきなのだと思い始めた。
初めて手にしたGKグローブはウールシュポルト製で、赤ワイン色の手のひらには無数の小さな穴がうがたれていた。でも実際にはそれが最初のグローブというわけではなかった。練習の時には、黒いすべり止めの点々がついた園芸用の白い手袋を使っていたからだ。そうやって、大事な本当のGKグローブを傷めないようにしていたのだ。夜になって自分の部屋に戻ると、リーグ戦の試合で使うんだと思いながら、そのグローブをずっと眺めていた。
時には、グローブやスパイクに話しかけることもあった。2つの道具は、サッカー選手になることを夢見る子供たちの欲望の投影であり、アイドルであり、祈りを捧げるべき神々だった。
擦り傷が絶えず、いつも血だらけだった少年時代
私のサッカー人生は、父が監督を務めていたラ・スペツィアの少年チームで、MFとして始まった。地元のU12世代の中では目立つ存在で、すでにいくつかのトロフィも手に入れていた。
そんなある日、父が私に冗談半分で、試しにGKをやってみるように言った。ちょうどその日は正GKが欠場しており、代役が必要だった。つまりデビューはまったくの偶然だったというわけだ。だが父は、ゴールを守る私を見て驚いた。ある種の動きがとても自然に見えたのだそうだ。そして、走らなくて良い分エネルギーがあり余っていたので、積極的かつ意欲的に振る舞った。
こうして私は、インテルと提携していたペルティカータというクラブに移り、GKとして本格的にプレーすることになった。しかしそこではGKとしての資質を認めてもらえず、ほどなくして正GKが負傷してポジションが空いていたボナスコラに移籍することになった。彼の復帰に合わせてMFにポジションを移す可能性もあったが、クラブはその後も私をGKとして登録し続けることにした。こうして私はGKとしての道に留まることになった。
当時の環境はなかなかひどいものだった。グラウンドはどこも固い土で、晴れた日には地面がかちかちに乾いて、砂塵がもうもうと舞い上がり、まるで黒い砂漠でプレーしているようだった。雨が降れば降ったでグラウンドは泥沼と化し、ボールは石のように重くなった。私はそういうグラウンドでプレーしながら、痛みに耐えることを学んでいった。打ち身や擦り傷が絶えず、いつも血だらけだった。
ボナスコラでの最初の監督は当時息子を亡くしたばかりで、私が移籍してから最初の数週間はいつも目が虚ろだった。しかしそれでも彼は生き続け、短パンと半袖シャツを着て土のグラウンドで膝を擦りむきながら必死で走り回る子供たちを指導した。自分の知らない種類の苦しみを慰めることはできない。しかし私はそこからひとつの教訓を得た。ジジ、サッカーは真剣な事柄だ。時には痛みから人を救うことすらある。だとしたら、擦り傷のひとつやふたつが何だというのか――。
サッカーとは、人類が実らせた果実のひとつだ。世界中のあらゆるゲームと同様、身体を鍛えると同時に頭も少しばかりは使うために生まれたものであり、人間という存在を理解する助けにもなる。チームスポーツは、他者と共にいることを学び、連帯とは何かを身をもって知るまたとない機会だ。
パルマ、ミラン、ボローニャが関心を示す
ボナスコラにも長くはいなかった。私は13歳で、本来ならエゾルディエンティ(U13)でプレーすべきところだったが、ジョヴァニッシミ(U15)に登録されていた。2歳年上の選手たちに交じってプレーしていたわけだ。土曜日には同世代である1978年生まれのチームでプレーし、日曜日は1976年生まれのチームで試合に出ていた。
地方のアマチュアレベルとはいえ、私のプレーは注目を集め、スカウトたちの目にも留まるようになった。ある日曜日、76年生まれのチームがリーグで首位を争う強豪との直接対決に1-0で勝ち、私も非常にいい活躍を見せた。クロスバーに飛んだシュートを弾き出したのもそうだが、何よりも足下のプレーが目立っていた。まだバックパスを禁止するルールはなかった時代だが、私は何度か、手を使わず足でボールをさばいてパスをつないだ。その試合をたまたま、パルマの2人のスカウトが観ていた。2人ともこの辺りの地域の担当で、私のことをクラブに報告した。
実のところ、私に興味を持っていたクラブは他にもあった。ミランが獲得に向けて絞り込んだスカウティングリストの中にも、私の名前は入っていた。当時のミランはシルヴィオ・ベルルスコーニ会長の下、ファン・バステン、グーリットを擁し、アリーゴ・サッキ監督が革新的なハイラインのゾーンディフェンスで世界を席巻していた。そのミランの一員になるという考えは、私を興奮させた。両親は、もしミランに行くことになったら暮らすことになる、ローディの寄宿舎も見学済みだった。
また、ボローニャも私に関心を示していた。我が家では、私の新しい生活をどうすべきかが話題に上り始めていた。それは両親にとって初めての経験というわけではなかった。彼らはスポーツマンだったし、姉のグエンダリーナもプロのバレーボール選手として活躍していたので、一時は家にエージェントやクラブ関係者がしょっちゅう出入りしていた。姉は後に、ブッフォン家で最初のヨーロッパチャンピオンになる。
時には養鶏場の鶏であるかのように…
パルマからトライアルへの招待が届いたのは、1991年春のことだった。私はもう心の中でミランに行くと決めていたので、パルマのトライアルを受けるのはまったく気乗りがしなかった。
しかしその時も、正しい直感を得たのは父だった。今でもよく覚えている。私を呼び寄せ、リビングで向かい合って座ると、父はとても優しく、しかし毅然とした口調でこう言った。
「ジジ、ミランに行くと決める前に、一度パルマに行ってトライアルを受けてみようじゃないか」
その夜、私は自分の部屋で、黒い点々のある庭師用の白い手袋を見つめながらこう独り言ちた。「こんなグローブじゃ、ミランにもパルマにも行けっこないよ」。自分もその手袋と同じで、どこか場違いな存在のように感じられたのだ。しかし私は、自分に自信が持てないというタイプではなかった。問題はむしろ、時にその反対の振る舞いを見せるところにあった。だから私は自分をこう奮い立たせた。
「ジジ、みんながお前を欲しがっているんだ。そんなに悪いはずはないだろ」。こうして私は、オランダトリオが躍動するあの華麗なミランへと飛び立つ前の形式的なステップのつもりで、パルマに向かったのだった。
トライアルを受ける時には、すでに多くの人の評判になっている「超逸材」として、誰もが温かく迎えてくれるか、そうでなければその他大勢として扱われるか、そのどちらかだ。我々プロが、候補のそのまた候補である君を評価してあげよう――。それはこの世界の残酷な部分であり、私もいくつものトライアルを受ける中でそのことはよく知っていた。時には自分がサッカー選手の卵ではなく養鶏場の鶏であるかのように感じられたものだ。
そんな感覚でパルマに着いた私を驚かせたのは、とても人間的でいい雰囲気があることだった。養鶏場や鶏の群れを思い起こさせるようなものは、そこには何ひとつなかった。
「この子は契約書にサインするまで帰らせちゃいけない」
私を迎えてくれたのは、エルメス・フルゴーニという名前の、陽気な顔立ちと灰色の髪、そしてすべてを見てきたような目をしたGKコーチだった。背は高くなかったが、若い頃は抜群の瞬発力を誇るGKだったに違いない。彼はにっこり笑って私に自己紹介すると、最初はちょっと距離を置く感じの控えめで丁寧な態度で、私を最初の練習へと案内してくれた。
通常のトライアルでは、まず最初に基本的なプレーをいくつかこなしてから、チームに合流させてその中でどう振る舞うかを試される。そこで魔法のような出来事が起きた。練習を始めて15分も経たないうちに、彼が私をとても気に入っていることに感づいた。何が彼の心を捉えたのかはわからなかったが、明らかに私のプレーに満足しているようだった。私がボールに向かって飛び込むと彼はこう言った。
「君みたいなやつは見たことがないよ」
その日の午後、少なくとも100回はダイブしたと思う。当時の練習は、ひたすら痛みを伴う繰り返しだった。待ち受けているのは、柔らかい芝ではなく、腐りかけた雑草と固まった泥だった。私は13歳で、家に帰り着いた時には尻や腰骨に打撲のこぶができ、身体中擦り傷だらけだった。
それでも私は幸せだった。セリエAのチームでトライアルを受け、そこで見てくれたコーチが「気に入った」と言ってくれたのだ。何かがカチッと音を立ててはまり、物事が動き始めた感覚があった。後になって、練習の終わりにそのコーチが育成部門のスポーツディレクターのところに行ってこう言ったことを知った。
「この子は契約書にサインするまで帰らせちゃいけない」
このトライアルの後、両親はいくつか質問をしてきた。私がパルマを自分の場所だと感じられたかを確認するためだ。私は少し葛藤していた。両親がパルマの関係者から、トライアルがとてもうまくいき、クラブがすでに私のための契約書を用意していると聞かされたのを知っていたからだ。今回もまた、両親の助けが大きかった。ちょうど学年末で、毎日午後には父とグラウンドで練習していた。その日練習を終えて車に乗った後、父はエンジンをかけずにいた。停まったままの車の前を、スポーツバッグを肩にかけたチームメイトたちが通り過ぎて行く。やがて通りは空になり、私たちだけが残った。
「ジジ、ひとつだけ聞かせてくれ。パルマに行ってプレーできるとしたら本当に嬉しいか? 家を離れて暮らさないといけないけれど、大丈夫か?」
たぶん父は、私がミランに未練を持っているのではと心配していたのだと思う。しかし私は父を見て、確かな口調でこう答えた。
「もちろんだよ」
こうして、パルマでの冒険が始まった。新しい人生のスタートだった。
(本記事は東洋館出版社刊の書籍『ジャンルイジ・ブッフォン自伝 何度でも立ち上がる』から一部転載)
※次回連載は1月16日(金)に公開予定
<了>
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[PROFILE]
ジャンルイジ・ブッフォン
1978年1月28日生まれ、イタリア、トスカーナ州マリーナ・ディ・カッラーラ出身。世界最高のゴールキーパーの一人と称される。1995年にパルマでプロデビューし、ユヴェントスでは長年にわたり守護神として活躍。セリエA優勝やコッパ・イタリア制覇など数々のタイトルを獲得した。2006年のFIFAワールドカップではイタリア代表の優勝に大きく貢献。晩年は古巣パルマでプレーし、2023年に45歳で現役を引退した。その献身とリーダーシップは世代を超えて尊敬を集めている。
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