岩渕真奈が振り返る、10代の葛藤 「自分のプレーと注目度にギャップがあった」

Career
2019.06.07

FIFA女子ワールドカップフランス 2019の代表メンバーに選出され、3大会連続で世界と戦うこととなった、岩渕真奈。“なでしこジャパン”として10代の頃から世界の舞台で活躍してきた彼女は、気がつけば、時に必要以上に、時にサッカー以外の部分で注目を浴びる存在となっていた。当時の岩渕は、どのような思いで日々を過ごしていたのか? 10代の頃からワールドカップを目前に控えた今に至るまでの日々を振り返ってもらった。

(インタビュー=岩本義弘[『REAL SPORTS』編集長]、構成=REAL SPORTS編集部、撮影=UZA)

とにかくサッカーが大好きだった少女時代

――岩渕選手がサッカーを始めたきっかけは?

岩渕:2歳上の兄(藤枝MYFC所属の岩渕良太)がいるのですが、当時兄の所属していたチームの練習場に連れて行ってもらってボールを蹴っていたら、コーチに誘われたのがきっかけで始めました。

――それが小学生?

岩渕:小学校2年生です。

――お兄さんはその後プロになるぐらいだから、当時から相当うまかったのですか?

岩渕:うまかったと思います。

――よくそこでお兄さんについて行ってサッカーをやろうと思いましたね。女の子では、あまりないケースですよね。

岩渕:はい、とにかく体を動かすのが好きだったんです。

――サッカーを始めた当初は、どれくらい打ち込んでいたのですか?

岩渕:始めた頃の記憶は正直なところ、あまりないのですが。ある程度高学年になってから、兄の練習時間が自分の練習の後だったら、兄の練習の時間も誰かしら捕まえて、ずっとボールを蹴りながら待っていました。地域のクラブチームに入っていたのですが、それぞれみんな違う小学校で、朝の通学時間もバラバラな中、何人かのメンバーで朝練って言って公園でボールを蹴っていました。それくらい、昔からボールを蹴っていることが好きだったと思います。

――それほどサッカーが好きになったのは、体を動かすことが好きなのはもちろん、当時からサッカーがうまかったからということもありますか?

岩渕:小学校2年生当時、自分がボールを蹴っているのを見たコーチが、何かを感じて(日テレ・)メニーナに誘ってくださったみたいで。「うまいね、うまいね」って言われたら気持ちいいじゃないですか。今でもそうですけど(笑)。たぶん当時は、褒められるのがうれしくてやっていたのだと思います。

――何か特別なことをして、そこまでうまくなったわけではないということですか?

岩渕:とにかくサッカーが好きで。ちょっとでも負けたりしたら、勝ちたいから、そのために練習をしたり勝つまでやり続けていたら……といった感じですね。

――年齢もレベルも上のお兄さんとも緒に蹴っていたことも大きかったですかね。

岩渕:はい。上の学年に上げてもらって、1個上の人たちとも練習したりしていました。男の子に交ざってやっていたのですが、その仲間に恵まれたというのも大きいと思います。

――1日にどれくらい練習してました?

岩渕:当時のチームの練習が午後1時からで、(兄のいる)高学年は午後4時~7時くらいまでなのですが、その時間はずっと練習場にいました。

――チームの練習に行っている時もそうではない時も、ずっと誰かとボールを蹴ったりしていたのですか?

岩渕:そうですね。壁に向かって蹴ったりもしていました。

――もちろん才能もあったと思うのですが、やっぱり練習量というか、とにかくたくさんボールを蹴ってうまくなっていったということでしょうか?

岩渕:そうですね。意識はしていなかったですし、ただ好きで蹴っていただけなんですけれど。それでもそれなりに、たくさん練習していたと思います。

――周りの人にも「どうしたらうまくなれるの?」とか、「うちの子どももサッカーをうまくさせたい」といった相談を受けることもあると思いますが、そういう時はどのように答えています?

岩渕:「楽しくやったらいいんじゃないですか?」って(笑)。

――「もっと何かないの?」とか言われそうですけれど(笑)。

岩渕:楽しくやることが一番大事だと思います。サッカーを楽しめたら、いいんじゃないかなって。

――子どもが楽しめるような環境に置いてあげる、ということですか?

岩渕:はい。楽しいことってやりたくなりますし、とりあえず楽しまないとダメかなと思うので。

“なでしこジャパン”が同じ空間にいる中学生時代

――メニーナに入ってからはどうでしたか?

岩渕:メニーナは中1から高3まで幅広い年代で構成されたチームで、対戦相手も大学生だったりすることもあり、勝てないことも多々ありました。その中で、やっぱり当時の自分は負けず嫌いで。1対1で負けるのも嫌だし、その頃はサッカーが好きだからというよりは、本当に負けたくないからやっていたのかなと思います。

――楽しさプラス、負けず嫌い精神が岩渕選手を支えてきたんですね。

岩渕:はい。

――メニーナは、東京はもちろん、関東、さらには全国からも若い子たちが集まってくるような名門チームですが、その中でサッカーをやるようになって、それまでのサッカーとは変わりました?

岩渕:変わりましたね。中1の時にチームに高校3年生もいる時点で、小学生の頃とは全然違うし、小学生の時の監督は怖くなかったですけれど、メニーナの時の監督は本当に厳しくて。さらに、メニーナに入ったことによって日テレ・ベレーザという目標ができて、ベレーザには代表の選手もたくさんいますし、そういう環境に身を置けたというのは自分にとってすごく大きかったと思います。

――環境が変わって、ずっと楽しくやってきたサッカーが嫌になったりすることはなかったのですか?

岩渕:怒られて嫌になったことはあるかもしれないですけれど、結局怒られても悔しいからやるし、それは「好きだから」という気持ちがあったからだと思います。

――メニーナに入った中学生当時、年上のチームメートや対戦相手の中でいきなり大人のサッカーをやることになったと思うのですが、自分と周りのレベルのギャップなどはどうでしたか?

岩渕:ついていくのに必死でしたし、小学生の時は変な話、自分が一番うまいと思っていたんですよ、女の子の中で。その時は女の子とやっていなかったから。だけど、やっぱり(全国の)100人くらいの中から選ばれてくる女の子たちってすごく上手だったし、もちろん小学生の時は男の子のライバルはいましたが、同性のチームメートの中であの人には負けたくないなって……またそういう(負けず嫌いな)気持ちになっちゃうんですけれど。大人のサッカーに環境が変わった中でも、結局自分がやれることなんて限られているし、とにかく毎日全力でやっていました。

――当時、憧れの選手はいましたか?

岩渕:いっぱいいすぎて……(苦笑)。(当時のベレーザ=)代表だったので。

――メニーナでは、当時のベレーザの選手との交流もあったと思いますが、何か思い出や印象に残っていることはありますか?

岩渕:ロッカーがベレーザの選手たちと一緒なので、洗面所やシャワーも一緒で、その同じ空間に澤(穂希)さん、大野(忍)さん、荒川(恵理子)さんといった選手がいて、挨拶をするだけでも緊張してました。

――確かに。とんでもなくオーラがあったでしょうね。

岩渕:はい。あと、ケガ明けの時などにメニーナの練習に参加してくれる選手もいるのですが、実際に間近でその存在感を感じて、すごいなって憧れていました。

――中1から高3まで一緒に練習をするメニーナの中にいて、さらにベレーザの存在がある、その環境自体が選手を育てるのでしょうね。

岩渕:そう思います。

――日本女子サッカーの育成の問題点としてよく言われるのが、「小学校までサッカーをやっていても、中学校に上がるとチームがない」といった話。そういう意味では、素晴らしい環境のメニーナに入れたということが、一気に伸びるきっかけとなったと。

岩渕:そうですね。やっぱりメニーナに入れて良かったなって思うので。

――今自分が先輩の立場になってみて、当時の自分のような後輩や若い子を、客観的に見るとどう感じますか?

岩渕:当時の自分は、やんちゃでしかなかったと思います。今チームにいたら「もうちょっと落ち着きな」って言うと思います(笑)。

――そんなにやんちゃだったのですか?

岩渕:やんちゃでしたね。「好きだね、サッカー」ってきっと言うと思います。

他のチームと対戦するより、ベレーザの練習の方が嫌だった

――チームの話に戻ると、中学生の14歳の時にトップチームであるベレーザに2種登録されて、うまい人ばかりの環境でついていくのがやっと……というところから、なぜそんなに急成長したと思いますか?

岩渕:正直なところ、初めてベレーザの試合に出た時に、自分がそのレベルに達していたとは思えなくて。

――当時も?

岩渕:当時も思っていなかったと思います。ベレーザに呼ばれてうれしいなって気持ちはあったけれど、練習に入ったらボールも触りたくないほど周りがうまいし、ポゼッションの時も、敵のうしろに隠れたいくらいでした。声も出していなかったですし、(ボールを)呼んでもいなかったので。監督はもちろん、それでも仲間にしてくれるベレーザの選手たち、本当に人に恵まれてここまで来たなっていうのはすごく感じます。

――ベレーザに入った時は、言ってしまえば日本代表に入っているみたいなものですよね。当初はポゼッションに参加するのも嫌だったところから、チームの中に入っていけるようになったきっかけは?

岩渕:上の人たちに「とりあえず、持っているものを全力で出して」と言われていて。別にボールを取られてもいいから仕掛ければいい、みたいな。仕掛けなかったらむしろ怒られる、仕掛けて取られても切り替えればいいっていうスタンスで、どんどんチャレンジしていいという空気感でした。また、自分が取られても取り返してくれる人たちがいたから、やれるようになったと思います。

――ベレーザのチーム内で紅白戦をやるのと、リーグで他のチームと対戦するのだと、ベレーザの中でやるほうがレベルの高さや難しさは感じましたか?

岩渕:いやもう、練習のほうが嫌だったと思います。

――自分がデビューした時の感覚は、今覚えていますか?

岩渕:ベレーザで初めて練習試合に出た日のことは、すごく覚えています。最初は、人がいなくて入ったんですよ。
通常は、なでしこジャパンのメンバーが抜けて、Bチームみたいなところに自分たちが入るというのがよくあるパターンなんですが、その時はU-20やユニバ(ユニバーシアード)の代表選手たちがいなくて、なでしこジャパンの選手たちがガッツリいた練習試合に入ったんですよ。しかも暑くて。プレーのことは覚えていないですが、こんなに人って喉が乾くことあるんだってくらい、(暑いのと緊張で)喉カラカラだったのはすごく覚えています(笑)。

――その時のメンバーは?

岩渕:みんないました。大野さん、澤さん、ごみさん(加藤與恵)、ガンちゃん(荒川恵理子)……。

――本当になでしこジャパンそのものですね。すごい、そこに中学生で入ったなんて、わけがわからない状態ですね。

岩渕:はい、本当に。

――当然そこに入れたうれしさもありましたよね。

岩渕:うれしかったですけれど、メニーナに私よりもっとうまい人がたくさんいたから、なぜ自分なの?とも思っていました。

――どんどんチャレンジをくり返していって、それが受け入れられるようになって、ベレーザの中でもやれるなって思うようになったのはいつ頃ですか?

岩渕:きっかけとして、(2010年シーズン終了後に)INAC神戸に(澤選手や大野選手など)何人かの選手が移籍していった時はやらなきゃいけない環境だったというか、自分たちがしっかりしないといけないという感じがすごくあって。その時くらいから、やらなきゃって強く思うようになったと思います。それまでは、とにかくついていくのに必死で。

――そうだったんですか。それ以前から主力になっていたので、もっと前からそういう感覚があったのかと思っていました。

岩渕:いや、周りに助けてもらっていたと感じています。

メディアからの注目度とのギャップ、葛藤

――当時からすごくフューチャーされていて、2009年に『週刊サッカーマガジン』(ベースボールマガジン社)で表紙を飾った時は、16歳の女子選手が表紙になるなんて、かなりの衝撃を受けました。

岩渕:しかも制服ですから(笑)。

――かなりインパクトのある表紙でしたよね。その前から岩渕選手は話題になっていましたけれど、サッカーファンにとってインパクトが強かったと思います。当然、周りの人からも反響ありましたよね?

岩渕:当時は言われましたね。ベレーザのロッカーでも、いじられたりしました(笑)。

――ベレーザのトップ選手たちですら表紙にならないのに、確かにベレーザの選手からしたら恰好のいじりネタですよね(笑)。

岩渕:いじりかいじめかの瀬戸際ですよね(笑)。

――確かに(笑)。当時はテレビも含め、さまざまなメディアでも取り上げられていましたが、どのような気持ちで取材を受けたり周囲の反応を受け止めていたのですか?

岩渕:正直、注目されるのがうれしかった時期はあります。それこそ、雑誌の表紙になった時とか。

――周りの人も喜んでくれるし?

岩渕:「(雑誌に)出るの? すごいね!」みたいに高校でも言われたりして、「まあね!」じゃないですけれど(笑)。それくらいのテンションだった時はありますね。でも結局、ベレーザで(思うようなプレーがなかなかできず)面白さを感じられない中で、それでも取り上げてくれるからいいやっていう、どこかで逃げ道のように捉えていた時期はあったと思います。しばらく経つと、さすがにおかしいなと思い始めた時期もありますし。

――なぜこんなに自分だけが注目されるのかと?

岩渕:はい、なぜ自分だけ?って思ったことはすごくありますね。

――そのような経験をした人は他にいませんよね。まだ中学生年代のうちから、しかも当時ベレーザで、他にも代表の主軸選手たちも一緒にやっている中で、岩渕選手への注目は集中していましたよね。なでしこジャパンが2011年のFIFA女子ワールドカップで優勝する前ですから、まだ女子サッカーに対する注目度も低かったですし。

岩渕:そうですね。監督に、「お前、一回サッカーに集中しろ」と言われて、取材などを全部キャンセルした時期もありました。2011年のワールドカップはミックスゾーン、ほぼ素通りだったと思います。

――確かに、当時は素通りするイメージがありました(笑)。

岩渕:はい。取材を受ける気すらなく、今思うと何をやっていたのだろう、と思うこともありますけれど、それくらい葛藤した時期もありました。

――葛藤というのはつまり、注目度が上がっているのに、自分自身が思うようなプレーをできていなかったということですか?

岩渕:はい。

――そうなんですね。でも、アンダーの代表戦でも明らかな結果を出していて、外から見ていると、そこまでギャップがあるようには感じませんでしたが、自分の中では注目度と比べてギャップがあったと。

岩渕:ありましたね。あの時期、いわばベレーザでの毎日の練習が代表の合宿みたいな感じだったわけじゃないですか。だから結局、毎日練習をする場所が一番レベルが高くて、一番自信をなくすという……。だから(アンダーの)代表に行って同世代とプレーする中では、ある程度活躍できて楽しめても、帰ってきたらつまらない、というくり返しでしたから。

――つまらないと思うのは、ベレーザの中では自分の良さが出せないから?

岩渕:自分が思うようにできていないのがわかるから、ですね。

――今までは負けず嫌い精神でクリアしてきたのに、ハイレベルなベレーザでは簡単に結果が出ないから面白くないなと感じたのですか?

岩渕:はい。どんなに頑張っても勝てない人もいるし、頑張る前にまず、ボールを触りたくないという感じでした。

――そういう時期はけっこう長く続いたのですか?

岩渕:続いていたと思います。

――さっき話に挙がった、INACに主力選手の何人かが行く前まで?

岩渕:はい、その少し前まで続いていたと思います。ポゼッションが苦手だったので、3タッチ以内で(ボールを回す)……という練習の時などは、本当に嫌でしかなかったです。

――代表でそれを克服したのはいつぐらいですか?

岩渕:高倉(麻子)さんの体制になってからかな、と思います。それまでは(コンスタントに)試合に出られてもいなかったし、(2015年の)ワールドカップの前あたりからやっと自分を出せるようになって。少しずつスタメンの紅白戦に入れるようになってからだと思います。

――すごく長い年月苦しかったのですね。

岩渕:うまくはいっていなかったですね。それでもそれなりに楽しめるようになっていたとは思うのですが。でも、100%自分が出せていたかというと、そうではなかったと思います。

――アンダーの代表のほうが楽しかった?

岩渕:全然楽しかったです。

――確かに、すごく生き生きしている感じが出ていましたよね。

岩渕:あの時は、何をやってもよかったですから(笑)。

――そういった自分中心の環境のほうが、自分の良さがプレースタイルとして表れるのかもしれないですね。

岩渕:「自分がやらないと……」というチームのほうが、自分が出せるのかなとは思います。

物足りない何かを求めて、飛び出した海外

――いろいろな葛藤があった時期の後、2012年、岩渕選手が海外挑戦をしたのは、当時、キャラクターの印象からすると意外に感じたのを覚えています。なぜ、ホッフェンハイムに行くという決断をしたのですか?

岩渕:ある程度自分のプレーができるようになった時期ではありましたけれど、それでも何か物足りなかったというか。それが、できている上での物足りなさなのか、自分の中の物足りなさなのか、わからないですが。でも、海外に行けるという選択肢があるなら、行きたいなと思って。それこそ、2010年のFIFA U-20女子ワールドカップの時ぐらいから、海外に行きたいってずっと言っていたんですよ。

――その時、そこでもっとうまくなりたいというよりも、違う環境でやりたいという思いの方が強かったと。

岩渕:はい。

で――も、それはベレーザ特有なのかもしれませんね。ベレーザのとにかくボールを大事にする、ポゼッションを基本とするパスサッカーの中で、自分自身はポゼッションが苦手で、そういった考えになってしまったのかもしれない。

岩渕:楽しかったですけどね。でも、そうやって海外に行って、帰ってきた時に、一緒にこの人とやりたいって思ったのが松田(岳夫)さんでした。最初にベレーザに上がった時の監督が松田さんで、当時、練習は正直、めっちゃつまらなかった(と感じていた)んですよ。でも、それをもう一回試したいなと思って、松田さんのチーム、INACを選んで一緒にやることにしました。そうしたら、それなりに楽しめたので「あ、成長した!」って思えて(笑)。

――松田監督って、すごく選手からの信頼が厚いですよね。岩渕選手から見て、松田さんのどのようなところに惹かれたのですか?

岩渕:最初にトップチームへ引き上げてくれた監督ですし、すごく熱心に(INACへ)誘ってくれていたというのが前提にあって。できていなかった頃の自分が悔しかったから、もう一回松田さんとやってみたいって思いました。

――すごい。海外へ行くことを決めた時とは、ずいぶんメンタルが違っていますね。

岩渕:そうですね。だからINACに入る時も、「ポゼッションが昔と変わらずできなかったら本当にすみません」というテンションで入って。

――でも試してみたいと思うくらいだから、自分の中ではできるんじゃないかなと?

岩渕:ある程度できるようには成長したんじゃないかな、とは思ってましたね。

――ドイツでの生活は、馴染めていたんですか?

岩渕:はい。楽しかったですし、「もう一回行く?」って言われたら、「行く」って言うと思います。

――帰国を決めたのは、ケガをしたのを機に、医療環境も含めてきちんと治そうと思ったのがきっかけだったと聞いています。

岩渕:そうですね。ドイツで手術をするのが嫌で。

――治療は日本でやりたいという選手は多いですよね。ケガをくり返すようになったのは、勤続疲労によるものですか?

岩渕:それもあるとは言われています。ケガをした時に一回、「プレースタイルを変えたら?」と言われたことがあって。「もっとボールを持たないように」とか、「80%でやれば」って、高倉さんにも言われました。でも、私にはそんなこと絶対できないんですよね。80%の力で勝てるならやりますけれど、勝てないのに80%なんてできないし……。

――全力を出す以外のやり方が、わからないと?

岩渕:やっぱり、勝負となったら全力を出したいじゃないですか。それに、プレースタイルを変えたら何もなくなってしまうから、それは無理だなと思って、全力でずっとやってきました。きっと、これからもこのスタイルは変わらないと思います。

<了>

第一回 なでしこ岩渕真奈、3度目ワールドカップへ覚悟 ケガはあっても「全力でやる!」

PROFILE
岩渕真奈(いわぶち・まな)

1993年生まれ、東京都出身。INAC神戸レオネッサ所属。ポジションはフォワード。小学2年生の時に関前SCでサッカーを始め、クラブ初の女子選手となる。中学進学時に日テレ・メニーナ入団、14歳でトップチームの日テレ・ベレーザに2種登録され、2008年に昇格。2012年よりドイツ・女子ブンデスリーガのホッフェンハイムへ移籍し、2014年にバイエルン・ミュンヘンへ移籍、リーグ2連覇を達成。2017年に帰国しINAC神戸レオネッサへ入団。日本代表では、2008年FIFA U-17女子ワールドカップでゴールデンボールを受賞、世間からの注目を集めるようになる。2011年FIFA女子ワールドカップ優勝、2012年ロンドンオリンピック準優勝、2015年ワールドカップ準優勝に貢献し、2019年ワールドカップフランス大会メンバーに選出。

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