
自ら手繰り寄せた「MLS複数クラブのオファー」川崎U-18出身・島崎竜、忘れ得ぬ「原点」
「アメリカ・MLS(メジャーリーグサッカー)のコロンバス・クルーからドラフト指名を受けた島崎竜が、同MLSのニューイングランド・レボリューションに加入した」との報に「??」との思いを抱いた人も多いのではないだろうか。川崎フロンターレアカデミーを経てアメリカの地に飛び立ち、現在は新型コロナウイルスの影響で帰国中の島崎が、アメリカでの現在と、そこに至るまでの道のりを語った。そこに至る「ぼくの原点」とは?
(インタビュー・構成・トップ写真撮影=江藤高志、写真=Revolution Communications)
島崎竜、ニューイングランド・レボリューションへ
川崎フロンターレアカデミー出身の島崎竜という選手が、アメリカ・MLS(メジャーリーグサッカー)のニューイングランド・レボリューションのセカンドチームと契約した。
第一報は2020年1月14日のこと。MLSコロンバス・クルーの公式ツイッターアカウントによるものだった。ドラフトにより、リーグ全体の59番目での指名だった旨の発表がなされた。これは26クラブが所属するMLSにおいて、3巡目での指名だったことを意味する。
矢継ぎ早のニュースは3日後の17日の第二報として伝わる。ニューイングランド・レボリューションが獲得をリリース。この件については島崎自身がツイッターにて、両チームの合意のもと、ニューイングランドのセカンドチームからプロのキャリアをスタートさせるのだと公表した。
少々わかりにくいこの件について、まずは本人に説明してもらおう。
「まず、ニューイングランドのセカンドチームと契約しました。そのあとにコロンバスからドラフト指名されたという流れです」
MLSは基本的にドラフト制をとるが、近年は各クラブによるスカウトでの獲得も並行して行われている。
「当初はコロンバスから、ドラフトの可能性を伝えられていて、でも外国人枠の問題もありどうなるかはわからないとも言われていました。結局、1月9日に行われた1巡目、2巡目のドラフトで指名はされず。その後、ニューイングランドから個別にオファーがきた形です」
ニューイングランドはこのオファーについて、1月13日に行われる3巡目、4巡目のドラフトまでに返答してほしい旨を島崎に通達。島崎は13日までに受諾の意志を伝えたという。そのため、コロンバスからのドラフト指名は寝耳に水だった。
「コロンバスからドラフトされる可能性はあったのですが、(ニューイングランドと)契約したので、それはないかなと思っていて気にしていませんでした。普通に寝ている時に連絡がきて、驚きました」
ただ両チームは円満にこの件を解決。島崎はニューイングランドのセカンドチーム所属選手としてプロのキャリアをスタートさせることとなった。すでに2月には就労ビザを取得しており、アメリカでプロサッカー選手としてのキャリアをスタートさせる直前の状態だった。
努力を続けてきた結果といえるが、気になる点がないわけではない。ニューイングランドのセカンドチームの選手である限り、契約上の問題はないのだが、仮にニューイングランドでトップチームに昇格した場合、すなわちMLSの選手となると、契約上の問題が表面化する可能性があるという。
コロンバスからドラフト指名を受けたことの意味は、MLSの選手としての権利をコロンバスが持つということ。つまり島崎がニューイングランドの選手としてMLSでプレーする場合、コロンバスとの契約上の問題をクリアする必要が出てくるのだ。
ニューイングランドではすでにトップチームでの練習にも加わっていたという島崎は、今シーズン中にもトップチームデビューの可能性があった。ただしその場合、ニューイングランドのチーム内の昇格であるにもかかわらず、コロンバスに対し移籍金や違約金の形で何らかの名目の金銭が発生する可能性があるのだという。この点が障害にならなければいいのだが、島崎はそうした現状に楽観的に向き合っていた。
「なかなかめんどくさいことになっていますが、世間的な見られ方としては悪くないとも思っています。複数のクラブからオファーをもらえたということですからね」
逆境を乗り越えたここまでのサッカー人生
そんな島崎がサッカーを始めたのは、幼稚園の頃。父親に促されたのがきっかけだった。
「幼稚園の時に、時間がたくさんあったということもあったので、父が体操クラブかサッカークラブのどちらかを選んだらどうかと言い始めたのがきっかけです」
サッカーを選んだのは「なんとなく日本代表の試合を見たのを覚えていた」から。当時の日本代表は、2002年の日韓(FIFA)ワールドカップに向けて強化を継続している時期だった。
サッカーを選んだ島崎は父親にリフティングの大事さを教えられつつ小学4年生時に挫折を経験。川崎フロンターレのU-12のセレクションに落ちてしまったのだ。ただその後選ばれた川崎市のトレセンで、フロンターレアカデミーの指導者と出会う。
「リバーFCというところでプレーしていました。ジュニアのセレクションは小4の時に受けたのですがダメだったんですが、小5の時に川崎市トレセンに呼ばれて、フロンターレアカデミーの高崎(康嗣)コーチと藤原(隆詞)コーチにスペシャルクラスに来ないかと誘われて。週1、木曜日だったと思います」
週に1回のこのクラスでの練習が「ぼくの原点でした」と島崎は振り返る。
「小4くらいまでは何も考えずにうまくプレーできていたのですが、とにかく考えるように強く指導されました。基礎的な技術も教わりましたが、考えることを藤原コーチに教わったのがぼくにとっての原点でした」
この週1の練習によりサッカーを考えるようになった島崎は練習会を経てフロンターレU-15への加入を決め、一度は跳ね返されたアカデミーに3年遅れで加わることとなった。
「当時はとにかく試合に出るために、他の選手に負けないようにしていました。上の学年のチームでプレーしたかったので、いっぱい走っていました。結果的にU-13の学年の時にU-14のチームで、U-14の学年の時にはU-15のチームでという感じでプレーできました」
そんな島崎は高校に上がるタイミングですでに海外志向を持っていたという。
「もともと中学の頃から海外志向があってどうしようか悩んでいました。ただ、その時にユース(フロンターレU-18)に上がれると言われ、また親からもユースに行けば、とアドバイスをもらい、そうすることにしました」
この時のことを振り返る島崎は「ユースを選んでいてよかったです」と笑う。成長できた実感があるからだ。
「成長できたと思います。ユースに上がった直後、ぼくは第五中足骨を骨折していて、それで出遅れていて……。ただ1年の最後のほうにBチームでやっと出られるようになって、2年の最初からAチームに絡めるようになりました」
ポジションは左右のサイドバックだが、得意なのは左サイド。本来は右利きだが、小学校の頃に磨いた左足は、ニューイングランドのチームスタッフから「左利きだっけ?」と尋ねられるレベルにまで向上していると話す。
「左サイドで出た時はカットインしてからのシュートが得意でした」
そんな島崎が覚えているベストマッチがあるという。
「(日本)クラブユース(サッカー選手権大会)のガンバ(大阪)戦ですかね(2015年7月25日、グループリーグ第3節)。両方とも負けたら敗退、勝てば勝ち上がりという試合で、その時のガンバユースは日本一くらいに言われていて、そこで勝った試合ですね」
ガンバユースには、食野亮太郎をはじめとしてそうそうたるメンバーが揃っていたというが「ぼくたちは基本的にビビることはないので。我が強い奴が多いのであまりそういうことはなかったのですが、相手もそういうタイプだったので、いい試合でした」と笑顔を見せた。
アメリカを選んだ理由
フロンターレユースは基本的に全員、大学を含めた進路についてスタッフと面談する。トップ昇格については、個別に適切なタイミングで告げられる。島崎にはトップチーム昇格の朗報はもたらされなかったが、進学についてはアメリカ留学を軸に考えていた。
「アメリカは勉強面でも厳しくて、それも留学の理由です。文武両道がまずベースにあるので。あとはもともと海外志向があったということもあります。何か違うことを海外でやっている人が、これからの情報化社会の中でスポットライトが当たる可能性があるかなと思って。もちろん毎年レベルが上がっているMLSも気になってました。あと、ユースの先輩で木村光佑さんという方がいて、ドラフトでコロラド・ラピッズに入り、MLSで優勝されていて、で、これだと思って連絡して。大学について調べ始めました」
木村さんには「いい大学に行ったほうがいい」とのアドバイスをもらったと島崎。
「勉強のレベルもそうですし、サッカーの強さもです。最初はピンとこなかったんですが、行ってみて、確かにそうだなと思いました」
大学のリサーチは手探りで、とにかくメールを送った。
「100校にメールしました。返ってきたのは、20校くらい。それを調べて5〜6校に絞りました」
もちろん留学するには英語力が必要だ。表に出せないようなTOEFLスコアだったと苦笑いする島崎の選択肢は自ずと絞られたが、結果的に入学したバージニア・コモンウェルス大学(VCU)は自前の語学学校への入学を条件に入学が許された。
加入直後のVCUはチーム内がバラバラで、アメリカ人と外国人との間に溝があった。それを変えようと不得意な英語で誰彼構わず話し掛け続け、チーム内を一つにまとめようと奔走したという。その結果、島崎入学前年度に全米200校中90位程度のVCUが3年生の時に全米16位に躍進。結果を出したという。また在学中は監督に認められ、奨学金の対象選手にも選ばれ続けた。成果を出せた手応えがあったという。
「心残り」だったフロンターレでの練習参加
VCUでの成果を手土産に島崎は2019年7月にフロンターレのトップチームに練習参加を許されている。島崎はそのためにあらゆるツテをたどった。
「本当にいろんな人に助けてもらったので。そういう、人のつながりとか縁はすごいんだなというのは感じた期間でした。僕一人の力では絶対にできないことでした」
3日間の練習参加について島崎は怖さはなかったと話す。
「高校の時と比べると、そこまですごいという印象はなかったです。高校の時の印象がすごすぎたこともありますが、ユースの時の経験もあってか、怖さはなかったですね。結構のびのびできました。あとは海外に出ていたのも自信になっていたのかもしれません」
VCU時代に鍛えられたというフィジカルも手伝って、ある程度やれた手応えはあったという。ただ、フロンターレからの獲得の連絡はなかった。
「ボールの扱いはそこまで感じなかったのですが、スピード感はぼくたちよりも速いというのはありました。特に細かいスペースがすごかった。さすがだなと思いました」
紅白戦で攻撃参加が鳴りを潜めていたのが気になったが、それについては「心残りだった」と悔しそうだった。
アメリカを襲った新型コロナ
新型コロナウイルスの感染拡大に伴いアメリカは3月20日にビザの発給の一時停止を発表している。ギリギリのタイミングだったが、島崎はこれ以前に就労ビザを取得済み。そんな島崎はコロナの影響のため一時帰国中だ。
「リーグの延期が発表されたので。3月12日の木曜日のことでした。ファーストチームで紅白戦をやっていたのですが、それが終わった時にスタッフからMLSの公式戦が30日間延期になったと伝えられて。その日、家に帰ったあとチームから連絡があり、金曜日の練習が中止になったと。もともと土日が休みだったので3連休になりました。チームメートとはこれはこのまま練習がなくなるかもねという話をしていたのですが、実際にそこからずっと練習は行われず。『家にいなさい(Stay Home)』ということを言われていました」
島崎によると12日の練習前までチームはリーグが通常通り行われる前提で準備をしていたのだという。
「12日の練習前のミーティングで、試合の移動は全部チャーター機でという話をされて、ファンとの交流もしばらくなくなると言われていました」
結局ニューイングランドで練習を行ったのは3月12日が最後。それ以降チームは練習すら行っておらず活動休止状態にあるという。
「そこで3月23日に帰ってきました。チームからは練習はすぐに再開すると言われていたのですが、しばらくはなさそうです」
切迫感のあるアメリカから帰国した島崎にとって帰国直後の日本の雰囲気は拍子抜けするレベルだったという。それほどまでにアメリカの受け止め方は深刻だった。
「すごい、マジな感じですね。閉じ込められていたというか、とにかく外出するなと言われていました。ジムも使えなくて、家にいるよう指示されていました。外に出るのは20分のジョギングと、ちょっとした買い物の時だけです。車は持ってなくて、チームメートに乗せてもらったり、お店が近かったので歩いて行ったりもしていました。ただ、行っても品物がなかったですね」
アメリカで品薄だったのは肉類と、トイレットペーパーだったという。そんなアメリカは不要不急の外出をする人たちに対し厳しい目が向けられていたという。
「なんというか。外に出るのは普通ではない、という空気でした。日本みたいに遊びには行かなかったですね。特に夜はそうでした」
「アメリカ人は目に見えないものを怖がる」と話す島崎は、「貧困層が検査を受けられなくて問題になっていて、改善しようとしているところですが、もう遅いですよね……」と述べていた。日米のコロナウイルスへの受け止め方の違いは保険制度の違いにもあるのかもしれない。
なおすでにアメリカでは大都市を中心にロックダウンしている状態だ。4月30日までの外出自粛が宣言されており、各クラブとも練習そのものが中止されている。
「MLSの徹底ぶりと、Jとの差は感じました。状況が違うのはあると思いますが、リーグが中止になると、一切練習もなくなりましたからね」
なお、今現在もチームの練習再開日は未定だが、少なくとも外出自粛要請が切れる5月1日以降になるはず。そういう意味で島崎がアメリカに戻る日は未だに定まっていない。
「アメリカではピークは7月になるのではないかと言われていて、それまでは予断を許さないですね」と話す島崎は、アメリカの歯車が動き出す日を、自主練習しながら待ちわびている。
※本インタビュー後、日本国内の新型コロナウイルス感染者の増加やJリーグの再開延期の発表などを受け、J各クラブも独自にチーム練習を中止させるなどの対応を取っている。
<了>
川崎の“新星”田中碧が考える「海外移籍」中村憲剛が “親心”で贈ったアドバイスとは?
川崎・谷口彰悟、ルヴァン決勝の退場劇で見せた成長の跡 危機管理術の極意とは
中村憲剛「重宝される選手」の育て方 「大人が命令するのは楽だが、子供のためにならない」
J1で最も成功しているのはどのクラブ? 26項目から算出した格付けランキング!
なぜ札幌はチーム練習の一般見学に踏み切ったのか? 野々村社長の逡巡、決断、これから…
PROFILE
島崎竜(しまざき・りょう)
1997年4月19日生まれ、神奈川県出身。ニューイングランド・レボリューション所属。ポジションはディフェンダー。川崎フロンターレアカデミーを経て、渡米。バージニア・コモンウェルス大学でプレーしたのち、2020年1月16日、ニューイングランド・レボリューションに加入。当面はUSLリーグ・ワン(アメリカ3部相当)に所属するセカンドチームでプレーする。
この記事をシェア
KEYWORD
#INTERVIEWRANKING
ランキング
LATEST
最新の記事
-
史上稀に見るJリーグの大混戦――勝ち点2差に6チーム。台頭する町田と京都の“共通点”
2025.08.29Opinion -
「カズシは鳥じゃ」木村和司が振り返る、1983年の革新と歓喜。日産自動車初タイトルの舞台裏
2025.08.29Career -
Wリーグ連覇達成した“勝ち癖”の正体とは? 富士通支える主将・宮澤夕貴のリーダー像
2025.08.29Opinion -
若手に涙で伝えた「日本代表のプライド」。中国撃破の立役者・宮澤夕貴が語るアジアカップ準優勝と新体制の手応え
2025.08.22Career -
読売・ラモス瑠偉のラブコールを断った意外な理由。木村和司が“プロの夢”を捨て“王道”選んだ決意
2025.08.22Career -
堂安律、フランクフルトでCL初挑戦へ。欧州9年目「急がば回れ」を貫いたキャリア哲学
2025.08.22Career -
若手台頭著しい埼玉西武ライオンズ。“考える選手”が飛躍する「獅考トレ×三軍実戦」の環境づくり
2025.08.22Training -
吉田麻也も菅原由勢も厚い信頼。欧州で唯一の“足技”トレーナー木谷将志の挑戦
2025.08.18Career -
「ずば抜けてベストな主将」不在の夏、誰が船頭役に? ラグビー日本代表が求める“次の主将像”
2025.08.18Opinion -
張本智和、「心技体」充実の時。圧巻の優勝劇で見せた精神的余裕、サプライズ戦法…日本卓球の新境地
2025.08.15Career -
「我がままに生きろ」恩師の言葉が築いた、“永遠のサッカー小僧”木村和司のサッカー哲学
2025.08.15Career -
全国大会経験ゼロ、代理人なしで世界6大陸へ。“非サッカーエリート”の越境キャリアを支えた交渉術
2025.08.08Business
RECOMMENDED
おすすめの記事
-
「カズシは鳥じゃ」木村和司が振り返る、1983年の革新と歓喜。日産自動車初タイトルの舞台裏
2025.08.29Career -
若手に涙で伝えた「日本代表のプライド」。中国撃破の立役者・宮澤夕貴が語るアジアカップ準優勝と新体制の手応え
2025.08.22Career -
読売・ラモス瑠偉のラブコールを断った意外な理由。木村和司が“プロの夢”を捨て“王道”選んだ決意
2025.08.22Career -
堂安律、フランクフルトでCL初挑戦へ。欧州9年目「急がば回れ」を貫いたキャリア哲学
2025.08.22Career -
吉田麻也も菅原由勢も厚い信頼。欧州で唯一の“足技”トレーナー木谷将志の挑戦
2025.08.18Career -
張本智和、「心技体」充実の時。圧巻の優勝劇で見せた精神的余裕、サプライズ戦法…日本卓球の新境地
2025.08.15Career -
「我がままに生きろ」恩師の言葉が築いた、“永遠のサッカー小僧”木村和司のサッカー哲学
2025.08.15Career -
日本人初サッカー6大陸制覇へ。なぜ田島翔は“最後の大陸”にマダガスカルを選んだのか?
2025.08.06Career -
なぜSVリーグ新人王・水町泰杜は「ビーチ」を選択したのか? “二刀流”で切り拓くバレーボールの新標準
2025.08.04Career -
スポーツ通訳・佐々木真理絵はなぜ競技の垣根を越えたのか? 多様な現場で育んだ“信頼の築き方”
2025.08.04Career -
「深夜2時でも駆けつける」菅原由勢とトレーナー木谷将志、“二人三脚”で歩んだプレミア挑戦1年目の舞台裏
2025.08.01Career -
「語学だけに頼らない」スキルで切り拓いた、スポーツ通訳。留学1年で築いた異色のキャリアの裏側
2025.08.01Career