ミシャ来日の知られざる情熱と決断 「オシムの腹心」はなぜ広島で“奇跡”を起こせたのか

Career
2020.04.20

2006年にサンフレッチェ広島の監督に就任して以来、日本で監督を務めて15シーズン目となるミハイロ・ペトロヴィッチ。2006年当時「オシムの腹心」という情報しかなかったセルビア出身監督は、さまざまな偶然と想いが交錯して広島の地にたどり着いた。「ミシャ式」と呼ばれるシステムで日本サッカーに大きな影響を与え、指揮するクラブが変わってもチーム、選手、サポーターに愛される理由を紐解く原点を追った。

(文=中野和也、写真=Getty Images)

サンフレッチェ広島の恩人、ペトロヴィッチ

彼と出会って、15年目になるのか。

「北海道コンサドーレ札幌が新型コロナウイルスの感染拡大で休止していたトレーニングの公開を再開した」というニュース(編集注:その後4月13日からの再自粛を発表)を見ながら、コンサドーレを率いるミハイロ・ペトロヴィッチのことを思い出した。

サンフレッチェ広島にとっては紛れもなく、恩人である。浦和レッズでは賛否両論があるのかもしれないが、それでもJリーグYBCルヴァンカップのタイトルをもたらし、残留争いを演じたチームを優勝争いの常連に復活させたことは事実だ。特にルヴァンカップを制した2016年は、チャンピオンシップがなければJ1リーグ優勝も勝ち取ったはず。そうなれば、もっと違う評価になったはずだ。そして札幌では、チームを見事にビルドアップ。クラブ史上初のカップ戦ファイナリストに押し上げた。一度、札幌の練習場を訪れたことがあるが、ペトロヴィッチ監督が現れるとサポーターから「ミシャッ!」と声が飛び、拍手が起きた。愛されているし、尊敬もされている。

たとえ獲得タイトルが限られていたとしても、ペトロヴィッチはJの歴史に残る名監督だ。彼が使っている3−4−2−1フォーメーションや「ミシャ式」と呼ばれるシステムは、プロ・アマ問わず日本サッカーに対して大きな影響を与えている。だが、そういう戦術的なことは、ペトロヴィッチを表現するほんの一部のツールにすぎない。

圧倒的に攻撃を意識するスタイル、リスクを恐れないメンタリティー、人間を大きく包み込む人柄。彼の師匠であるイビチャ・オシムが威厳をもってチームをマネジメントする人物だとしたら、ペトロヴィッチは慈愛だ。裏表がない父の愛情だ。まっすぐに正直に、選手と向かい合って、愛を注ぎ込む。時には厳しさを突きつけ、時には優しさをもって選手を抱きしめる。だから、彼は愛される。

今やJリーグの名物監督と言っていい彼の来日は、多くの偶然が重なったが故に実現した。

「オシムの腹心を務めた男は、どうだ」

2006年4月、広島の小野剛監督が成績不振の責任をとる形で退任した。織田秀和強化部長(当時)は、望月一頼GKコーチを2006年FIFAワールドカップによるリーグ中断までの4試合限定で監督就任を依頼。承諾を得て、再開以降の新監督人事に着手した。

目算はあった。1994年の広島ステージ優勝に中心選手として貢献したイワン・ハシェックである。2004年にヴィッセル神戸の監督として指揮をとった時はうまくいかなかったが、その時のチームマネジメントや戦術的な評価は悪くなかった。広島が目指していたボールを主体的に動かすスタイルとも考え方は合致していて、ハシェック自身も監督就任に前向き。あとは正式契約を待つという状況にまできて、この話は破談した。家族が日本行きを反対しているというのが、その理由だった。

しかし、織田部長に落胆する時間はない。なんとか6月までに目処をつけないと、チームづくりが再開に間に合わない。小野監督辞任時は3分5敗と1勝もできずに最下位に沈み、望月監督が4試合で2勝1分1敗と持ち直して15位まで引き上げたものの、極端に自陣に引きこもってロングボールを蹴り込むサッカーでは、短期の結果は残せてもシーズン通しては戦えない。それは誰もがわかっていた。J1残留を成し遂げるためには、どうしても優秀な監督の招請が必要だ。

ハシェックに断られた後、トニーニョ・セレーゾにもアプローチしたものの、予算がまったく合わない。監督自身だけでなく、彼が連れてくる複数のコーチ陣たちも含めると、予定額をはるかに超えた。

さあ、どうするか。

苦悩する織田秀和に、一人の人物が連絡をよこした。千葉のGMを務めていた祖母井秀隆氏だった。

「オシムの腹心を務めた男は、どうだ」

その男こそ、ミハイロ・ペトロヴィッチだった。

レッドスター・ベオグラードやディナモ・ザグレブなどの名門クラブで活躍し、1985年からプレーしたシュトゥルム・グラーツ(オーストリア1部)では「サポーターが選ぶMVP」に毎年選出されるほどの人気選手。1996年、イビチャ・オシムのもとでアシスタントコーチを務め、シュトゥルム・グラーツをリーグ優勝2度に導いた。2003年からは同クラブの監督として3年連続の1部残留を達成。実績は確かにある。しかし、その情報は当時の日本には、伝わっていない。

織田部長も、彼の存在は知らなかった。ただ、オシムの腹心だったという事実に、一縷の望みをかけた。問題はヨーロッパのシーズンが既に終わっていて、彼の指揮する試合が見られないということ。また、シュトゥルム・グラーツを契約満了となった後、オーストリア2部リーグのチームと監督として契約をかわしていることもハードルだった。「海外のチームからオファーがあった場合は挑戦したい」という旨をクラブに伝えていたというが、もし広島と契約ということになれば、違約金もかかる。

それでも、会うだけは会ってみたい。アポイントはとった。ただ、ドイツ語の通訳がいない。人脈を駆使して相談した結果、ケルン大学に杉浦大輔という若者が留学しているという情報が入った。杉浦青年はすでに2006年ドイツワールドカップ関係の仕事が内定して、帰国の意志はなかった。だが、プロの交渉現場に立ち会える機会はそうあるものではない。この時だけ、ということで彼は通訳の仕事を引き受けた。

「この監督に賭けたい」という感性と熱意

約束の場所は、オーストリア第2の都市グラーツのレストラン。かつて地球の公転軌道が楕円であることを発見した偉大な天文学者ヨハネス・ケプラーが住んだその街で、日本サッカーの未来が動いた。

そのレストランに、新監督候補は愛妻も同席させた。
「彼は、本気ですよ。奥様を連れてきたのがその証拠です」
杉浦青年の言葉に、織田部長の心が引き締まった。

ワインを交えながらの会談は2時間を超え、ペトロヴィッチは紙ナプキンにフォーメーション図を書き始めた。そこに書かれていたのは3-4-2-1。その図をベースに「後ろから数的優位をつくるサッカーがしたい」と自身の哲学を説いた。

織田部長はその哲学に共感した。

2001年、彼がヴァレリー・ニポムニシ(1990年イタリアワールドカップでアフリカ勢初のベスト8を達成した時のカメルーン代表監督)を広島に招請した時に目指したのは、自分たちでボールを動かして、自分たちの意志でチャンスをつくる攻撃的なサッカー。それまで守備的なサッカーでチームをつくってきた広島にとっては、まさにコペルニクス的変革だったと言っていい。

その変革は決してうまくいっていたわけではなく、2002年には降格という血を流した。それでもクラブはその理想を実現するために、森﨑兄弟や駒野友一、李漢宰らを育て、青山敏弘や髙萩洋次郎、槙野智章や柏木陽介らもそこにいた。才能のある若者たちが力を発揮し始めれば、素晴らしい未来が待っている。クラブもサポーターも、そう信じていた。

その未来を築いてくれるのは、こういう明確な哲学を持った指導者ではないのか。しかも情熱的で、人柄も温かい。

第一印象で好感を持った織田部長は、詳しい情報を収集した。サッカー関係者たちの評判は、一致して高い。師であるオシム監督も、ポジティブなコメントを伝えてきた。

織田部長は「この監督に賭けたい」と思った。だが一方で、日本ではまったくといって無名な指導者の招請に、フロントは異を唱えた。もちろん、外国人監督を招請する時にかかるさまざまなコストの問題もあったし、望月監督がある程度の結果を残していたことから、「無理をする必要はない。望月監督を続投させればいいじゃないか」という意見も一定の説得力を持っていた。しかし、久保允誉社長(現会長)は即決する。

「彼でいけ」

織田部長が「ペトロヴィッチ新監督でいきたい」と考えたのは、最終的にはサッカー界でずっと生きてきた彼の「感性」だった。そして久保社長は織田部長の感性とペトロヴィッチ監督就任に賭ける熱意を信じた。

「まず選手と会いたい。練習を見たい」

物事の決定において、論理的な判断は極めて重要である。例えば、今回の新型コロナウイルスのような件で、科学的ではなく論理的な組み立てもない意見は、周りの判断を狂わせる。しかし、経営や人事などの局面では時に、論理や多数意見を超えた何かが正解を呼び込むこともある。かつてソニーが発売した「ウォークマン」のように。そしてこの「感性」に賭けた決断は後にもう一度、重大な局面で試されることになる。

経営者の果敢な決断により、48歳の新指揮官ペトロヴィッチの来日は決定した。初めて両者が会ってから5日目のこと。そして杉浦大輔は、広島とペトロヴィッチ、双方から「オファー」を受ける形で通訳の仕事を正式に受諾した。決まっていたワールドカップの仕事を断ったものの、ケルンの部屋と大学の籍はそのまま。慌ただしく、ペトロヴィッチ新監督と共に、広島へと向かった。

選手たちの情報は織田部長からもらったDVDのような映像資料だけでなく、彼の人脈からの情報を得て、ある程度は把握していた。ただ、それはあくまで、二次情報にすぎない。

早く、選手たちに会いたい。
気持ちは急いた。

クラブは当初、広島市内のホテルでの記者会見を予定していた。しかしペトロヴィッチは、「まず選手と会いたい。練習を見たい」と主張。記者会見の会場は、広島市内から1時間もかかる練習場=吉田サッカー公園に設定された。

J1クラブの新監督就任となれば、いつもは練習に顔を出さない新聞社も情報が必要となる。当然、記者会見はそのための場だ。しかし、その会場が練習場に変わったことで移動の負担が大きいとクラブにクレームをつける記者もいた。それに対して当時の広報部長は一言も反論せず、頭を下げ続けた。すべては、新監督のため。チームのためだ。

会見では小さな声でボソボソと喋るだけ。今のようにウイットに富んだユーモアもない。ただ、会見の最後に「チームと私がしっかりと仕事をすれば、間違いなく残留できる」と語った時は、少し語気が強まったかのように思えた。

緩めることが一切できないトレーニング

なぜ、ペトロヴィッチが日本にやってきたのか。

そのことは、よく考える。あまりに彼とは語り合うことが多すぎた。この部分に対しては就任時の会見でしっかりと聞くべきなのだが、当時の逼迫した雰囲気の中で、彼の個人的な事情よりも未来について語る時間が必要だった。

もちろん、師であるイビチャ・オシムから、日本の安定した社会や文化、Jリーグという新興リーグに対するポジティブな情報があったことが一つ。もう一つは、やはり彼が愛したシュトゥルム・グラーツとの契約が満了となってしまい、新しい仕事場がオーストリア2部になったことへの悔しさがあったからではないか。そうでなければ「海外からのオファーがあった場合は」などということを、新しい職場に言う必要はない。

48歳とまだ若いペトロヴィッチは日本での、広島での新しい仕事に賭けていた。自分の人生を新しく切り拓くきっかけにしたかった。この想像は間違ってはいないと思う。

会見後、新指揮官はトレーニングウェアに着替え、選手たちと初めて対面した。そして、トレーニング。フィジカルに特化したメニューはない。延々と続くボール回し。ハーフコートに11人×2チームが入り乱れ、切り替えの激しいゲーム形式のトレーニング。その中で1タッチパスを意識させ、球際の激しさやスプリントを常に要求。記者会見の時の小さな声はどこへいったのか、まるでスピーカーから発せられているのかと勘違いするほどの怒鳴り声が、吉田サッカー公園の山々に響きわたった。

翌日からスタートした2部練習で、さらにペトロヴィッチ監督は過激になった。ほとんどのトレーニングがボールを使う。30〜40分をかけて鳥かご、いわゆるボール回しを行う。「このメニューにはサッカーのすべてがつまっている。特に瞬時に判断を変える感覚を養うには、非常に有効なんだ」と監督は言う。後に槙野智章が「ミシャの鳥かごのトレーニングのおかげで、自分はうまくなった。いかに敵がきた時に逆をつけるか。あのトレーニングでいつもそこを考える習慣ができたから、試合中に顔が上がるようになった」と語った。ただ、その言葉を聞いても、にわかには信じがたかった。楽しそうに1タッチでボールを回している姿は、とてもトレーニングには見えない。しかし、ペトロヴィッチ監督いわく「楽しいから前向きな気持ちで練習できるんだよ」。そう教えてくれたのは、2011年秋、彼の退任が決まった時だった。

延々と続くハーフコートマッチ。ただ、ルールやチーム構成は頻繁に変え、アイデアの発露を強く求める。かと思えば、ハーフコートでの1対1、フルコートでの3対3など、走る・戦うを強く求めるメニューも課した。時間を区切ってやるのではなく、うまくいくまで延々と続ける。必然的に練習時間は長くなり、炎天下の中の2部練習は選手から汗と体力を奪いとった。選手たちが少しでも妥協したプレーをしようものなら、ピッチ横にずっと立っている新監督から怒声が飛ぶ。ピッチの中に飛びこんで、厳しく怒鳴る。緩めることは一切、できない。

「技術は高い。だけど、走っていない」

ペトロヴィッチ監督は、広島が低迷していた理由を明確に分析していた。

「技術は高い。だけど、走っていない」

当時、ヨーロッパでの日本人選手に対する一般的な評価は、中田英寿や小野伸二らの例外を除き、「技術は低いが運動量がある」というものだったという。だが、現実は違っていたと指揮官は感じた。技術レベルでほぼパーフェクトな人材が広島には少なくとも3人はいる。しかし運動量に問題があるし、1対1のバトルにも不満だ。

特に問題だと感じたのは、メンタルだ。仕掛けないし、アイデアも出そうとしないのは、自信を喪失しているから。チームとしてやるべきことを意識しすぎて、自分を出そうとしていない。

そのデメリットを跳ね返すために、新監督は猛練習を課した。1セット2時間〜2時間半のトレーニングを午前・午後の2回、練習試合は中2日〜中3日に1度行い、ほとんどの選手に90分のプレーをさせた。1995年からサンフレッチェを取材している筆者にとっても、初めて見るレベルの厳しいトレーニングだった。

いくら真夏とはいえ、シャツを絞った時に出る汗の量がまるで滝のようになることなんて、普通はない。しかもその汗は、泥にまみれていた。まるで高校のサッカー部のような激しい練習量は、強靱なプロの選手たちをフラフラにさせた。だが、やがてそれは、選手たちをこう信じさせるようになった。

このトレーニングを続けていけば、俺たちはきっと強くなる。

6月21日、大学生とのトレーニングマッチで広島は3-0と勝利。しかしそれが7-0、8-0となり、そして12-0にまで広がった。たとえ僅差の試合となった時でも、内容は段違い。圧倒的にボールを持ち続け、チャンスをつくり続けた。その成長は、選手たち自身が驚きをもって迎えられた。

名前や実績は関係なく選手を起用

その厳しいトレーニングの中、ペトロヴィッチ監督は選手にこんな趣旨の言葉をよく叫んでいた。

「みんな、いったい何を恐れているんだ。ミスをすることか? ボールをとられることか? たとえそうなったとしても、それはリスクを冒せとみんなを指導している私にすべての責任があるんだ。結果責任は私が考えること。君たちは思い切ってサッカーをやればいいんだ」

敗戦におびえ、ミスを恐れる選手たちの心理に、指揮官はザックリと手を入れた。その入れ方の心地よさに、選手たちはこわばった心を氷解させていく。

さらに指揮官は大胆になった。小村徳男やベット、ジニーニョといった実績のあるベテランをサブに回し、青山や柏木ら、それまでチャンスを与えられていなかった若者たちをトップチームに抜擢したのだ。

「オシムさんの言葉をはじめ、いろいろな情報を分析して得られた答えは、このチームには名前のある選手が多いが、チームはまとまっていないということ。特に一部の選手は、確かにボールを持てば仕事ができるが、ほとんど走っていなかった」

そこでペトロヴィッチは、運動量と判断、技術のレベルがわかりやすいトレーニングメニューを組み、そこを選手選考の場と考えた。その中で、例えば小村はそのスタイルがチームの目指す方向と合わないと判断される。彼も納得し、シーズン途中で横浜FCへの移籍を決断した。同様にジニーニョもブラジルへと去った。

名前や実績は関係なく選手を起用する。

そんな言葉をよく監督は発するが、それが実践できる監督は数少ない。特に残留争いに巻き込まれた時はどうしても計算できるベテランに頼りがちだ。しかし、ペトロヴィッチは、残留という現実の中に理想を持ち込んだ。目指すサッカーで結果を残すべく、選手選考に妥協は許さない。自分の目で見た現象だけを信じた。「後ろからボールをつないでいく」という基本理念は、彼の就任前には連続してパスをインターセプトされていたという現実から見て、うまくいくと思っていた人は少なかったはずである。

しかし、指揮官は「やれる」と信じていた。運動量と自信を回復させ、選手のセレクションと戦術的な道筋をしっかりとつけてやれば、自分の理想を追えるチームであると確信していた。

そしてその確信は、正しかった。練習で結果を出せば試合に出られる。その事実が選手たちを躍動させ、勇気を与えた。

青山と柏木がポジションを掴み、カズが復活の手がかりを掴む

約1カ月の猛練習を経てまったく新しいチームとなった広島は、再開初戦で名古屋グランパスエイト(当時)と対戦。玉田圭司にいきなりの先制点を許すも、ウェズレイの2得点で逆転。同点に追いつかれたが佐藤寿人が決勝点を決めて逃げ切った。このシーズン初の逆転勝ち。その後、6試合で1勝5敗と負けが込んでしまったが、新監督に賭けたフロントの心意気と新監督の個性に心酔し始めた選手たちの奮起によって、第20節の対鹿島アントラーズ戦勝利以降は9勝2分4敗。終わってみれば10位と余裕で残留を達成した。

青山と柏木がポジションを掴み、オーバートレーニング症候群に苦しんでいたカズ(森﨑和幸)が右ストッパーで復活の手がかりを掴む。他にも髙柳一誠や前田俊介が起用されて結果を残すなど、期待の若者たちの未来に光明が差した。戸田和幸がキャプテンに指名されたことでチームにまとまりが生まれた。盛田剛平・戸田・カズの3バックは足下が安定し、どこからでもパスが出せることで、ボールは明白につながるようになった。

奇跡は、起きた。しかも、ベテランの経験に頼らず、青山や柏木のような若者を台頭させ、リスクをかけた攻撃的な姿勢で勝利を握った。ペトロヴィッチ監督就任前の平均得点1.17が、彼の就任後は1.64にまで向上。鹿島を敵地で2-0と粉砕したり、FC東京を相手に2点差をひっくり返したり。闘いぶりは、近年稀に見るほどに変化した。

ペトロヴィッチ・ストーリーは終わらない

だが、奇跡は劇薬である。

日本で初めて現れた戦術の天才・源義経は、圧倒的な財力と権力を欲しいままにした平家を3つの戦いですべて破った。その戦いの内容はいずれも奇跡的で神懸かり。しかし、奇跡の後の義経は、軍事と比較してあまりに政治的なセンスを欠いていたが故に、滅びの道を辿った。一方、桶狭間の戦いという奇跡的な勝利を得た織田信長は以降、桶狭間的な奇跡を再び求めるような奇襲は一切、やらなかった。

2001年、降格の危機に瀕した広島は、最後の5試合を4勝1敗で乗り切り、劇的な残留を成し遂げた。しかし翌年、ヴァレリー・ニポムニシという羅針盤を失った広島は、クラブ史上初となる降格の憂き目を見る。そして2006年の奇跡の翌年は、どうなったか。ミハイロ・ペトロヴィッチは、広島にいた。他の主力も移籍しなかった。チームは熟成の一途を辿るはずだったのに、2007年の広島は降格した。

広島が、奇跡に酔っていたとは思わない。確かに2006年オフの補強は薄かったが、ペトロヴィッチ監督は若者を伸ばすことで戦力を充実させることはできると確信していた。青山や柏木のような才能は、まだまだ広島には眠っていると見ていた。さらに次はシーズン最初から指導できる。病との闘いに一段落を得たカズはさらにコンディションを上げてくるだろうし、ウェズレイと佐藤寿人のコンビは爆発力を増幅できるという自信もあった。

その自信は当時、2006年の実績をベースとして、一定の説得力もあった。優勝を狙えるかというと、それは違う。しかし、少なくとも残留はやれるだろうし、輝ける未来へ大きな一歩を踏み出せる確信もあった。だが、その目論見は、かなわなかった。

普通であれば、日本でのペトロヴィッチ・ストーリーは、2007年で幕を閉じる。2006年の奇跡は、本当の意味での「奇跡」、つまり二度と起こらない出来事にすぎない。彼のやり方は、無理だ。そう断罪されても、不思議ではなかった。戦力がケガなどで欠けたわけではないのに、負け続けた。誰もが「責任は監督」と思っても仕方がない。

しかし、本当のミハイロ・ペトロヴィッチ伝説は、J2降格という悲劇を食らった直後、開幕する。ここまでの1年半はドラマの序章にすぎない。そしてこの序章に実は、ペトロヴィッチという指導者が物語をつくるに至った伏線が、しっかりと張られているのである。

【後編はこちら⇒】

<了>

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