
「いつもやめたかったし、いつも逃げ出したかった」登坂絵莉、悩まされ続けた苦難を告白
奇跡的な大逆転劇で2016年リオデジャネイロ五輪のレスリング女子48kg級を制した登坂絵莉。奇跡の金メダル獲得の裏で、登坂はずっとケガに悩まされ続けていた。「2015年から(慢性的に)痛くなった」左足親指のケガは、彼女の最大の武器を奪い、成長の針を止め、精神的に追い詰めた。「痛くない。痛くない」と自分に言い聞かせるしかなかった日々の苦悩をいま振り返る。そしてそんな失意の彼女に寄り添い、支え続けてくれた存在とは?
(インタビュー・構成=布施鋼治、写真=Getty Images)
「あの一戦を見返すことはないですね」
登坂絵莉は、2016年のリオデジャネイロ五輪のレスリング女子48kg級の金メダリストとして知られている。
リオ五輪の決勝戦では残り10秒というところからの大逆転劇を演じ、登坂は金メダルを獲得した。結果的にリオ五輪で日本の女子レスリングは計4つの金メダルを獲得しているが、その先鋒役は登坂だった。最後まで諦めない気迫のレスリングは、続いて決勝を待つ58kg級の伊調馨と69kg級の土性沙羅へと金のバトンをつないだ。
筆者はリオ五輪の奇跡ともいえる現場を目の当たりにしているが、記憶に残る登坂の大一番といえば、やはりリオ五輪のマリア・スタドニク(アゼルバイジャン)との決勝が思い浮かぶ。
しかし、登坂は意外な事実を打ち明ける。
「勝利の瞬間歓声が上がり、みんなが一斉に盛り上がった様子は心の中に残っているけど、あの一戦を見返すことはないですね」
オリンピックスポーツは金メダルを取るかどうかで、その後の人生が大きく変わる。過去のオリンピアンの足跡を辿ってみれば、間違いなくそうだろう。吉田沙保里とて、オリンピックで3つの金メダルを取っていなければ、彼女の現在はない。
登坂にとっても、リオ五輪の決勝でスタドニクに勝った瞬間は人生の大きなターニングポイントではなかったのか。
大学生になった頃から始まった左足親指の痛み
「いや、あの時点で拇指球(ぼしきゅう)が結構痛かったので、そんなにいいレスリングではなかった。見返すとしたら、もっと前の試合映像を見ますね」
拇指球とは足の裏の親指の付け根にある膨らみを指す。結果うんぬんではなく、ベストパフォーマンスができたかどうか。小3の時からレスリングを始めた登坂にとっては、後者のほうが重要だったのだろう。しかし、登坂の本音は日本中で沸き起こった熱狂の渦にかき消された。
実際優勝を決めた直後の彼女は「よかったです」で始まるポジティブな発言しか残していない。「やっぱりいろんな人の顔が浮かんで感謝です。一番は応援に来てくれて、ずっと弱いときから信じてくれた家族ですね。もうここしかないと思って、これで取れなかったら後悔すると思って最後を取りました」
拇指球の痛みは、2012~2013年から始まったと記憶している。ちょうど大学生になったばかりの頃だった。小原日登美は2012年開催のロンドン五輪での金メダルを獲得したことを機に引退したので、最軽量級(当時は48kg級)の女王の座に登坂はすでに登りつつあった。
事実、2012年12月の全日本選手権から2016年リオ五輪の直前に開催されたアジア選手権準決勝で孫亜楠(中国)に敗れるまで登坂は一度も負けていない。中でも、2013年から2015年まで世界選手権では3連覇を成し遂げている。
自分の成長を肌で感じることができる時期だったので、ハードな練習を課すことで痛みを忘れようとしていたのか。登坂は「2015年の世界選手権前から(慢性的に)左足の親指が痛くなった」と告白する。
「それ以前は『痛くなったら治す』という流れを繰り返していた。そのうち休んでも治らなくなりました」
「いつもやめたかったし、いつも逃げ出したかった」
連勝記録を重ねる中で、登坂は患部に違和感を感じ始めた。
「なんかおかしい」
それでも、練習をセーブしようとは思わなかった。それだけオリンピックの存在は大きかったし、国内には入江ゆきを筆頭に好敵手がたくさんいた。登坂が「少しでも休んだら、代表の座を持っていかれる」と思っても不思議ではなかった。時はすでに平成の後半に差しかかっていたが、日本の女子レスリング界、ひいては至学館大学には昭和のスポ根スピリットが蔓延していたと思う。
そうした中、登坂は決意した。
「リオが終わるまでは、手術をせずにやり通そう」
その結果、リオ五輪では念願の金メダルを獲得するが、それから4年経った現在、登坂は「2015年以降は自分としての成長はなかった」と冷静に振り返る。
「今までの蓄えでやってきた感じですね」
それ以降、登坂の時計の針は止まったままだったのか。正式な病名はMTP関節骨棘。登坂の場合、変形性関節症など別のケガも加わっていた。
担当医は登坂にこんな説明をしたという。
「何回も(試合や練習を)やっているうちにすり減ってしまったと思われます」
その後、左のヒザと足首も痛めてしまう。前者は内側靭帯、後者は靱帯の損傷損傷だった。拇指球をかばって動いていたことが原因だった。母指球に関していえば、医師から「手術をすれば、治る」という言葉を信じ手術に踏み切ったものの、完治しなかったことも精神的に追い打ちをかけた。
「同じようにケガをしていたアスリートは段階を経て、どんどんパフォーマンスが良くなる場面が増えていった。対照的に私はそういうのが一切なかった。正直、うらやましかったですね」
思わぬ三重苦に、登坂は天国から地獄へと突き落とされた。心の中はネガティブな感情に支配された。
「いつもやめたかったし、いつも逃げ出したかった」
精神的にも弱っていたリオ五輪後
練習中、過呼吸のような症状が出て、急に泣き出してしまったこともある。
「いま振り返ってみると、ちょっと精神的にも弱っていたのかなと思います」
それでも、大会には出た。左足の親指の手術もあったので、リオ五輪後1年間はブランクを空けたが、翌2017年の若手の登竜門ともいえる位置づけの全日本女子オープン選手権では1つ上の53kg級でエントリーし、難なく優勝する。その勢いで2カ月後の全日本選手権には階級を落し適正体重の50kg級に出場した。
初戦となった準々決勝は7-4で突破したが、続く準決勝は負傷箇所の悪化を理由に棄権した。試合後、登坂は次のようなコメントを残している。
「やっぱり難しいですね。攻めることはできたけれど、ディフェンス面が足りなかった。試合に出られることが少なくなってきて、試合勘がなくなってきているなと感じる。出場しようかどうかも前日の夜までものすごく悩みました」
続く2018年開催の全日本選抜選手権と全日本選手権では、いずれも入江ゆきに敗れた。登坂は「やっぱり拇指球が治らないと、タックルに踏み込めない」と唇を噛んだ。
全盛期のわずか20%のレスリング
「踏み込んで、キュッとなる時が痛い」
翌2019年の国内2大選手権では新世代の須﨑優衣が立ちはだかった。登坂は全日本選抜選手権では決勝で、全日本選手権では準決勝で敗れている。
この頃のパフォーマンスはケガをする前と比べたら何%くらい?と聞くと、登坂は「比較することはできないかもしれないけど」と前置きしながら、「2015年以前にそんなに痛みを感じなくやっていた時と比べたから20%くらいだと思います」と答えた。
わずか20%のレスリングは登坂の得意技である片足タックルにも影響を及ぼした。ギュという踏み込みができないと、タックルの威力は半減してしまったのだ。「ずっと片足タックルだけで生きてきた」という登坂にとって、満足な踏み込みができないということは、歌を忘れたカナリア同然だった。
「片足タックルができないとなると、何もできない。もちろん他の技も練習したけど、得意技を一つ持っているかどうかで、本来ならば効くフェイントも効かなくなる」
何もかもが狂ってきた。練習していても、フラストレーションはたまる一方だった。登坂は練習になると「痛くない。痛くない」と自分に言い聞かせるしかなかった。
「でも体は痛く感じてしまうし、痛み止めの注射を打っても効かなかった」
温かく励ましてくれた人たちの存在
失意の登坂をいつも励ましてくれた人もいた。ずっと応援してくれていた家族、会社の人たち、至学館大学レスリング部の関係者、そしてファン……。とりわけ女子レスリングが五輪正式種目になったアテネ五輪からリオ五輪まで日本を牽引した吉田沙保里と、登坂と一緒にリオ五輪で金を取った土性沙羅からの励ましは心に響いた。登坂は「いつも沙保里さんや沙羅に話を聞いてもらっていました」と振り返る。
登坂を実の妹のようにかわいがっていた吉田は優しく励ました。
「まずはしっかり治す」
「焦らなくてもいいよ」
リオ五輪の前はいつも一緒に居残り練習をしていた土性の存在も大きかった。
「沙羅は後輩だし、何かを言ってくれるというよりは、ずっと私の話を聞いてくれた」
そして、もう一人、登坂を心から励ます人がいた。先日、登坂との入籍を発表した倉本一真である。2012年から全日本選手権グレコローマンスタイル60kg級で3連覇を果たし、2013年からは2年連続世界選手権の日本代表にも選出されている元レスラーだ。
2017年には総合格闘技(MMA)に転向。総合格闘技で最も長い歴史を持つ修斗を主戦場にキャリアを積み、昨年11月の根津優太戦では反り投げ(プロレスでいうジャーマンスープレックス)8発でTKO勝ちを収めた投撃手として一躍有名になった。
登坂とは最軽量という部分で共通項がある。国際大会では何度となく顔を合わせる機会があったと思うので、以前から顔見知りであったことは間違いない。
結婚を発表したSNSで登坂はケガについての本音を語っている。
「リオ五輪後、怪我でなかなか思うような練習ができない日々が続き、気持ちが落ちていた時、良き理解者としていつも支えてもらい、前を向くことができました。そして時間を過ごす中で、これからの人生も共にしていきたいと思うようになりました」(本文ママ)
今回の取材でリオ五輪後について水を向けると、登坂は「自分の人生の中で一番辛い3年間でした」と吐露した。
「でも、たくさんの人に応援してもらってここまで来られた。感謝したいと思います」
幸い足首やヒザのケガは完治したが、親指の痛みは残る。
「コロナで練習を休んだら治るのかなと思ったら、そうでもなかった。これ以上、良くなることも悪くなることもない」
でも、いまは同じ方向を向いてくれる最愛のパートナーがいる。穏やかな笑顔を浮かべる倉本とのツーショットを見ると、救われる思いがした。登坂の止まっていた時計の針は再び動き出した。
<了>
【前編はこちら】「人はいつか負ける時がくる」レスリング登坂絵莉、五輪への道断たれても変わらぬ本質とは
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PROFILE
登坂絵莉(とうさか・えり)
1993年8月30日生まれ、富山県出身。小学3年生からレスリングを始め、中学時代に全国中学生選手権で優勝。至学館高校、至学館大学時代にも数々の大会で優勝を果たし、大学卒業後は東新住建に入社。2013~15年世界選手権48kg級3連覇、2016年リオデジャネイロ五輪同級で金メダルを獲得。
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