
「日本の柔道はボコボコ、フランスはユルユル」溝口紀子が語る、日仏の全く異なる育成環境
来年の開催が予定されている東京五輪だが、室内開催かつ“濃厚接触競技”とされる競技における問題は山積みの状態だ。日本にとって多くのメダル獲得が期待される柔道はどのような状況にあるのか? 日本と覇権を争う最大のライバル国・フランスはどういった現状なのか? 日本女子柔道界のパイオニアであり、フランスのナショナルコーチを務めた経験も持つスポーツ社会学者の溝口紀子が、日仏の現状とそもそもの環境の違い、そして注目選手への期待と危惧を語る。
(インタビュー・構成=布施鋼治、写真=KyodoNews)
東京五輪に向けた“濃厚接触競技”柔道の行方
東京五輪が揺れている。
3月24日、新型コロナウイルスの感染拡大によって、安倍晋三首相はオリンピックの1年延期を発表した。すでに代表に決まった選手たちは胸をなで下ろしたが、まだ新型コロナウイルスの収束が見えているわけでもなく問題は山積みだ。とりわけ濃厚接触競技とされる格闘競技は練習方法から再考を余儀なくされている。肌と肌をつけ合わせる機会が多いのだから、それも当然だろう。東京五輪では多くのメダル獲得を期待されている柔道とて例外ではない。4月7日の緊急事態宣言が発令されてから集団練習自粛を余儀なくされた。
代表争いの最激戦区とされた男子66kg級に至っては、まだ代表が決まっていない。当初の予定では新型コロナウイルスの影響で4月上旬に無観客で開催予定だった全日本選抜柔道体重別選手権大会で決定するという案もあったが、大会そのものが延期に。その後代替案もいくつか出たが、いずれも実現までに至っていない。
全日本選抜体重別選手権だけではない。全国高等学校柔道選手権大会は中止に。毎年4月になると柔道ファンを楽しませていた皇后盃全日本女子柔道選手権大会と全日本柔道選手権大会はいずれも延期になってしまった。コロナ禍の中、柔道はどうなっていくのか。そのヒントをつかむために、スポーツ社会学者の溝口紀子さんに話を聞いた。
溝口さんは女子柔道が初めて正式種目となったバルセロナ五輪・女子52kg級に出場して銀メダルを獲得した、日本女子柔道界のパイオニア。2002年から2004年にかけては日本人女性として初めてフランスのナショナルコーチを務めた。その経験を生かし、『日本の柔道 フランスのJUDO』を上梓している。コメンテーターとしてテレビのワイドショーに出演することも多いだけに、ご存じの方も多いだろう。いつになく溝口さんは冗舌だった。
日本が一度も「金」を取っていない意外な階級
──今年東京五輪が開催されていれば、日本チームのどんなところに注目していましたか?
溝口:男子66kg級で阿部一二三選手と丸山城志郎選手の決定戦がどうなるのか。楽しみにしていました。阿部選手が選出されたら妹の詩選手(女子52kg級)ときょうだいでの出場になったので話題になったでしょう。それ以外にも今回からオリンピックでは初めて男女混合の団体戦(混合団体/男女3人ずつの6人制)もできるはずだったので、日本チームにとっていいストーリーが用意されていたと思います。
──女子で期待している選手は?
溝口:いまとなっては言うのも恥ずかしいですけど、詩選手が代表の52kg級は私の階級でもあった(照れ笑い)。日本はずっと強い階級なんですけど、オリンピックには縁がなく、一度も金を取っていない。
──意外な話ですね。リオデジャネイロ五輪では中村美里選手が銅メダルを獲得しています。
溝口:軽量級は1年で変動の幅がものすごく大きい。戦っていて自分でもわかりました。57kg級の松本薫選手もロンドン五輪ではあんなに強くて金メダルを獲得したけど、続くリオデジャネロ五輪では銅メダルだった。
──確かに軽量級は選手層が厚い。詩選手には、2017年の世界柔道選手権大会で優勝している志々目愛というライバルがいました。
溝口:次の大会では普通に代表が入れ代わったりする中で、詩選手の強さはそこまで磐石ではない。本来ならばもっと試合をやって、戦略を磨く時期だったと思う。
──そういえば、昨年11月のグランドスラム大阪の決勝で詩選手はアマンディーヌ・プシャール(フランス)に敗れるという波乱が起きました。キャリアを積み重ねる時期という指摘ですね。
溝口:まだ19歳と若いし、東京五輪、パリ五輪と連覇することも可能だと思います。真っ先に東京五輪出場の内定を決めた78kg超級の素根輝も、高いポテンシャルを持っていますね。
──ともに19歳。同い年ということで息も合うようです。
溝口:2人とも伸び盛りなので、勝とうと負けようと、海外の狡猾な戦略や戦術を試合で学ぶ時期だと思いますね。失敗してでも学んでほしかったけど、それができなくなってしまったのがどうかなと。
選手の育成環境がまったく異なる日本とフランス
──フランスのほうはどうですか?
溝口:フランスの柔道も、新型コロナウイルスで活動禁止でした。活動のベースは、クラブ(道場)が中心で日本のサッカーでいうところのスクール。いわゆるスポーツビジネスで生計を立てている柔道家、クラブが多いので、コロナの影響ですごく困っている。
──集団で行うことが原則ですからね。
溝口:仕方なく道場の先生がリモートでやったりしています。フランスの柔道連盟は3つの密を避けるというガイドラインを出した。そういう形で少しずつ復活しています。ただ、やるとしても少人数分散型。今までと同じ人数でやることは避けている。少人数で手の消毒や検温を徹底してやっている。ようやく5月後半になって、集団練習は禁止ですが、個人練習としてナショナルトレーニングセンターのINSEP(トップアスリートを養成する国立の施設)を使用するこができるようになりました。とはいえナショナルチームとしては9月までは本格的な活動はできないようです。
──打ち込みや乱取りは?
溝口:道場では子どもたちを動かすというレベルではやっていると聞いています。フランスは多文化共生社会なので、柔道はスポーツ、強化するというより『しっかりと先生の言うことを聞きなさい』という教育的・道徳的な活動を求める傾向がある。仮に乱取りをやるにしろ、日本のように20本とかはやらない。やっても2~3本。ユルユルなんです。そもそも練習は1時間しかできませんから。
──それでも、強くなっている選手もいるのだからビックリするしかない。
溝口:逆にすごいですよね。フランスは日本の5倍くらいの競技人口がいる。その中で、とりわけ中学生くらいから運動神経がいい子をピックアップして、強化という短時間の練習で強くする。体ができてから強化するので、事故もない。対照的に日本は小さい時から英才教育でボコボコにしながら鍛えるので、ケガをするリスクも高い。その中で生き残っていった子たちが強くなる。
──同じ柔道でも子どもたちが強くなっていく過程はまったくといっていいほど異なるわけですね。
溝口:練習時間と練習の質が全然違うわけですから、日本とフランスのガイドラインを一緒に考えるわけにはいかない。日本のそれ(ジュニア)は完全に(世界の)ジュニアユースのレベル。一般的な部活レベルだったら学校のガイドラインだけでいいと思うけど、それ以上のレベルになると日本ならではのガイドラインが必要になってくる。しかし、それを考えなければいけない全日本柔道連盟内でクラスターが起こってしまった関係で、委員会の立ち上げが遅れ、ガイドラインの作成作業も遅れました。
目が覚めた“ビジネスマン”リネールの存在
──フランス柔道の代名詞ともいえるテディ・リネール(オリンピック男子100kg超級で2大会連続で金メダルを獲得)選手が教育事業にも力を入れ、いくつも学校を設立しているという話を聞きました。
溝口:そういう慈善活動もしつつ、ステイホーム期間には自宅のトレーニングルールで鍛えていたせいか、体もバキバキ。柔道の練習をしないで自転車、ウエイトトレーニングばかりしていたせいか、余分な脂肪は削ぎ落とされ体はキレキレです。新型コロナウイルスの検査(結果は陰性)を行うなど再開の準備は万端です。
──今年2月、地元パリで開催されたグランドスラム・パリでリネール選手は影浦心選手に延長戦の末、10年ぶりの敗北を喫しました。この敗北にリネール選手の衰えを指摘する声もありました。
溝口:そこはどうでしょう。私は、逆に目が覚めたという感じだと思います。10年ぶりに負けたことでプレッシャーからも解放されたので、すごく元気ですよ。一度負けたことで怖いものなしになった感じだと思います。
──リネール選手の年収は6億円(推定)とも報道されています。
溝口:(感心したように)ねぇ。それでも、テニスの錦織圭選手の年収(推定34〜35億円)よりずっと少ない。リネールは、まだ世界のアスリートのベスト100にも入っていないと思う。注意すべきはリネールはビジネスマンでもあるということ。先程も話に出た学校経営もしているし、ビジネスのほうも忙しい。本来ならば、柔道に集中する環境を作らなければいけないのに。「東京五輪までに、きちんと調整できるのか?」という疑問はありますね。2024年のパリ五輪も目指すなら、柔道とビジネスを分けてやっていく必要があるでしょう。生半可な気持ちでやっていたら、東京五輪でメダルを取ることも難しくなってくると思いますね。
──ミズノの「世界の柔道人口調査」(2016年3月)によれば、世界で最も柔道の競技人口の多い(200万人以上)ブラジルはどうでしょうか。大統領が経済政策を優先しているので、新型コロナウイルス感染は拡大の一途をたどっています。
溝口:もしかしたら現地のオリンピック委員会から「派遣できない」と言ってくる可能性もある。これからは日本がオリンピックになったら海外からの選手や関係者をすべて受け入れられるのかという議論が大きくなっていくような気がします。オリンピック期間中はどんな国も集団でやってくるわけですから。
【後編はこちら】「寝技無しのルール改正も…」“濃厚接触”柔道と東京五輪への危機感、溝口紀子が明かす
<了>
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PROFILE
溝口紀子(みぞぐち・のりこ)
1971年7月23日生まれ、静岡県出身。スポーツ社会学者(学術博士)。埼玉大学フェロー。1992年、女子柔道が初めて正式種目となったバルセロナ五輪・女子52kg級で銀メダルを獲得。2002年から2004年にかけて日本人女性として初めてフランスのナショナルコーチを務めた。現在は日本女子体育大学体育学部スポーツ科学学科教授として活動する傍ら、全日本柔道連盟評議員や一般社団法人袋井市スポーツ協会会長も務めている。
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