サッカー部飲酒問題の山辺高は、選手権辞退が妥当。感情論ではない「普遍的な2つの理由」

Opinion
2020.12.27

いよいよ12月31日から第99回全国高校サッカー選手権大会が開幕する。今年は新型コロナウイルスの感染拡大により残念ながら無観客での開催となったものの、厳しい状況の中で勝ち抜いてきた48校が参加する。その中で奈良県代表の山辺高校サッカー部は、部員10人が寮で飲酒していた問題で出場するべきか否かが議論されていたが、辞退はせずに出場することが決まった。果たしてこの判断は正しかったのか? “教育の場”である学生スポーツにおける問題にどう向き合うべきなのか――。

(文=清水英斗)

山辺高校サッカー部は選手権出場辞退が妥当! その理由は…

先に結論をいうなら、奈良代表 山辺高校サッカー部は今回の第99回全国高校サッカー選手権大会を出場辞退するか、もしくは選手権本部の側から参加拒否をするのが妥当だ。

理由は同校サッカー部が、大会の参加資格を満たさないからである。高校サッカー選手権の大会要項には、[大会参加資格の別途に定める規定]がある。その一部を引用する。

(1)大会参加資格を認める条件

③(中略)各学校にあっては、部活動が教育活動の一環として、日常継続的に責任ある顧問教員の指導のもとに適切に行われており、活動時間等が高等学校に比べて著しく均衡を失していず、運営が適切であること。

山辺高は上記の条件、「部活動が教育活動の一環として、日常継続的に責任ある顧問教員の指導のもとに適切に行われており」という部分に反する。

同校サッカー部の運営は、民間の『ボスコヴィラサッカーアカデミー』に委託されていた。今年8~9月に2年生部員10人が寮で飲酒をした際、その件を把握したアカデミーから、学校は10月7日に報告を受けている。ところが、それから2カ月の間、学校は何の対応もせず、問題を放置した。その後、写真等の追加情報が学校だけでなく、県教育委員会にも寄せられ、それを受けた本格調査によって問題は明らかになった。

学校、アカデミーの対応の問題点とは

なぜ、2カ月も問題が放置されたのか。アカデミーに指導を任せた学校は、寮内で起きたことを家庭内の出来事と同一に解釈してしまったと説明する。未成年飲酒の法は、その罰則を未成年の本人ではなく、制止しなかった大人に科す。家庭で行われた飲酒の責任が親にあるのと同様、寮で行われた飲酒も、学校外における行為であるから学校はタッチしないと拡大解釈し、対処を怠った。

一方のアカデミー側も、学校に報告した時点で、この件を済ませてしまった。どちらも相手任せで、責任の所在がなく、このサッカー部、あるいは寮における生徒指導の担当者は、実質的に不在である。

県教育委員会の吉田育弘教育長は、学校の認識の甘さ、指導者の責任を強調し、「学校としての責務を怠った」と謝罪。吉岡敏之校長も「今回の事案は私の認識の甘さによるもの」と謝罪している。

しかし、だとすれば、この山辺高に選手権の出場資格はない。「教育活動の一環として、日常継続的に責任ある顧問教員の指導のもとに適切に行われており、(中略)運営が適切であること」という選手権の参加条件に、明確に反するからだ。サッカー部の運営が適切でないことは、教育長や校長が自ら認めている。「このことで子どもたちの機会を奪ってはならない」と吉岡校長は話すが、適切な運営を怠った張本人が言うことではない。

この状況で出場を宣言する山辺高は筋が通っていないし、また、選手権本部の側も、参加資格を満たさない学校を出場させるべきではない。

教育活動の一環として適切な運営が行われていない

あるいは、もし仮に、この件が単発で起きたとすれば、「アカデミーとの提携を見直す」という現時点の学校側の反省、あるいは責任を取るべき大人の処分をもって、改善に向けた猶予期間と考えることはできる。しかし、同校サッカー部の問題はこれだけではない。元Jリーガーの指導者、興津大三氏によるパワハラ疑惑も、県サッカー協会から厳重注意処分を受け、さらに退部に追い込まれた元部員からは損害賠償請求訴訟を起こされている。その矢先、今度は飲酒問題が明らかになったわけで、もはや山辺高サッカー部の運営が、「適切に行われている」と考えるのは不可能だ。

山辺高の選手権出場は、是か否か。

こうしたデリケートな問題について、個人の経験則や処罰感情、あるいは主観的教育論で主張し始めると、公平性が保たれず、後に遺恨、あるいはトラブルの種を残すことになる。大事なことは、普遍的な基準で考える態度だ。共有される基準と根拠を持ち、判断しなければならない。

その前提でいえば、山辺高サッカー部は、教育活動の一環として適切な運営が行われていない。選手権の規定違反であり、参加拒否が妥当だ。

これは裏を返せば、たとえ飲酒した生徒がいても、学校やサッカー部が教育組織として適切な指導を行っていれば、部の選手権出場は認められるともいえる。ただし、今回のケースは該当しない。

以上は選手権の規定から導き出される結論だ。

わが国の憲法における教育とは「人に機会を与えること」

一方、この問題を学校側から見たとき、出場辞退を教育活動の一環として、停学などと同様に科すことは妥当なのか、という問題もある。

学校教育法は、「教育上必要があると認められるとき、児童生徒に懲戒を加えることができる」と定めている。言い換えれば、学校は教育上の理由以外で、生徒に罰を与えることはできない。

一般的に飲酒の場合は、本人に反省を促すため、数日から1週間前後の停学とする学校が多いようだ。今回の山辺高も、本人たちには同様の停学処分が妥当だろう。飲酒が法違反であることは、サッカー部だろうと帰宅部だろうと変わらない。同等の罰でなければ理にかなわない。そこに選手権の影響力、大会の注目度、重要度といった社会的な要素を加味してしまうと、「教育上必要があると認められるとき」という学校の懲戒条件に反する。「社会的に必要」という理由での懲戒は、学校には認められていない。

学校の懲戒はあくまでも教育的視点だ。その意味では、法律を破ったら恐ろしいことになると、当人や周囲に思い知らせ、二度と戻らない激しい後悔を経験させるのが教育なのか。それとも反省を促し、再びチャンスを与えるのが教育なのか。

記者会見では報道陣から、飲酒したにもかかわらず出場した前例を作ってもいいのかと質問が飛んだようだが、逆に一度法を犯したらどんなに反省しても出場できないとすれば、それは教育ではない。わが国の憲法における教育とは、人に機会を与えること。いきなりレッドカードで道を閉ざすのは教育の本旨に反する。

もちろん、本人に反省が見られない場合、あるいは既に懲戒を行った上での繰り返しの行為である場合は、より強い懲戒罰を用いることに教育的必然性はある。焦点は懲戒歴と反省態度になってくるが、その点において、山辺高が1週間の特別指導と、その結果10人のうち2人を反省不十分として出場を見合わせた対応は、一応の妥当性がある。本当に妥当かどうかは、外からはうかがい知れないが、少なくとも次も何かを繰り返せば、反省無しとして懲戒罰はより重いものになる。その点は本人たちに厳しく戒めるべきだろう。

未来のために「主観や経験則ではなく、普遍的な基準で考えるべき」

一方、学校の本人への教育対応はそれで済みとしても、選手権本部がOKかどうかは別の話だ。サッカー部が教育活動の一環として、適切に運営されているかどうか。それが認められなければ、山辺高は選手権の参加資格を満たさない。

今回の件のポイントは、2つあると考えられる。

一つは組織だ。サッカー部が適切な運営であると認められ、選手権の参加資格を満たすかどうか。もう一つは、教育的な視点で本人たちを反省させ、その中で懲戒罰を検討すること。つまり、部が出場できるか否かと、飲酒した10人が出場できるか否かは、完全に別個の話だ。

繰り返しになるが、今回の場合、山辺高サッカー部は適切な運営をしているとはいえず、改善の見込みも示せていない。選手権本部は参加拒否をするのが妥当だ。今は世間的にも飲酒をした本人たちの処遇ばかりがクローズアップされているが、部としての選手権参加を認めるか否かは、本人うんぬんより、むしろ部の運営改善が焦点。選手権の規定から考えれば、そういうことになる。校長や教育長はその点を踏まえ、早急に改善案をまとめなければならず、出場の是非は、それを受けての判断になるのが本来の道筋だ。

このような件は、とかく主観や経験則が飛び交いがち。そうした一過性のものに左右されず、普遍的な基準で考えることが大事だ。そして、学校や選手権本部は決定の根拠を明らかにしていく必要がある。今後のために。

<了>

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