
「性別の壁を乗り越えた」藤井裕子 柔道・男子ブラジル代表監督が直面するコロナ禍の厳しい現実
新型コロナウイルスの感染者が世界で3番目に多いブラジル。その地で柔道の男子ナショナルチーム監督を務める日本人女性がいることをご存知だろうか? 2013年よりブラジル柔道界に身を置く藤井裕子だ。彼女は聡明で意志が強く、コロナ禍に対してもそう簡単には引き下がらない。そのお話を聞いていると世の中にはこんなにスマートな強さを持った女性がいるんだと驚くばかりだ。無論、彼女にとって性別の壁を作る時点でナンセンスだ。東京五輪を最大の目標とし、ブラジルの地で奮闘を続ける藤井に、ブラジルが直面するコロナ禍の現在、そしてブラジル柔道界が置かれた危機について話を聞いた。
(インタビュー・構成=布施鋼治、写真提供=藤井裕子)
プロジェクト名“ミッション・ヨーロッパ”
「全然ダメでした。やり直し」
1月14日午後7時(現地時間)、サンパウロの空港でトランジット中の藤井裕子はSNS通話でのインタビューで深いため息をついた。
数日前、カタールで行われた今年初めての国際大会『ワールドマスターズ』でブラジルの男子代表は惨敗を喫した。全階級にエントリーしたが、最高位は100kg超級のモーラの7位。ブラジル柔道史上初めて女性で男子代表チームの監督を務める藤井が肩を落とすのも無理はなかった。
「まあ世界中のトップばかりが集まる大会なので難しいことはわかっていたけど、そこで戦えるということを力に変える。そうしないといけない大会だった」
敗因を聞くと、「いま考えているところ」とまだ結論が出ていないことを示唆した。
「練習量の部分で足りなかったということは間違いなくある。でも、それはどこの国も一緒なんですよね」
それから藤井は「この大会で絶対いい成績を出してやるという気迫の面で劣っていたところがあるんじゃないか」という仮説を立てた。「だからイニシアチブ(主導権)をとるような試合ができなかった。みんな後手後手に回るような試合をしていた。もちろん練習量でカバーできるところもあるけど、気持ちの作り方の中で何かを忘れているような気もしました」。
昨年夏、藤井が率いるブラジルの男子ナショナルチームはポルトガルのコインブラという街で強化合宿を張っていた。ブラジルはかつてポルトガルの植民地だったということもあり、ブラジル人がポルトガルに滞在するための渡航ビザは必要ない。当時も世界で指折りの感染者を出していたブラジルで練習するより、国外でそうするほうが得策だった。
プロジェクト名は“ミッション・ヨーロッパ”。ブラジルのオリンピック委員会は水泳、アーティスティックスイミング、体操、ボクシングなど過去のオリンピックで実績のある競技とともに柔道に白羽の矢を立て、ポルトガルでの強化合宿を後押ししたのだ。
「選手にとっては試合のリズムは失われやすかった」
「最終的にコインブラには75日間、つまり2カ月半ほど滞在しました」
コインブラに行くまでは練習どころではなかったので、調子を元に戻すことに重きを置いた。「あの時点では試合に向けての調整というよりはパンデミックになってからできていなかった部分を戻すことが目的でした」
10月になってから代表チームはブラジルに帰国。それからは月1回の割合で一回1週間から10日程度、サンパウロにあるピンダモニャンガバという街で強化合宿を行っているという。
「ホテルの中に道場を作り、そこから出ないようにして続けました」
強化合宿をやることで、ある程度の成果は出ていると感じている。問題はそのあとだった。藤井は「合宿からそれぞれの所属に戻ると、十分な練習ができない」と苦しい胸の内を吐露した。「だからコンスタントに練習を続けるということはちょっと難しい」。
例えば、昨年12月は7日から17日まで強化合宿を行っている。「そこから解散してカタールに行くために1月4日に集まった。その間は十分な練習はできていないと思う」。
コロナ禍になってからブラジル代表が出場した国際大会はワールドマスターズで3大会目。昨年10月にはブダペストで行われたGSブダペスト、続いて11月にはメキシコで開催のパンアメリカン選手権に選手を派遣しているが、十分ではなかった。
「やっぱり一昨年に比べると、定期的に大会はなかったので、選手にとっては試合のリズムは失われやすかったと思います」
どんなに準備をしても、一人でも陽性が出たら戦えない現実
現在、藤井は夫や子どもとともにリオデジャネイロに住むが、新型コロナウイルスによる状況は時間が経つごとに悪くなったと実感している。
「年始が過ぎると、患者さんが増えました。レストランへの入店などの規制も厳しくなってきている。ブラジルの中ではサンパウロの規制が最も厳しくて、ほとんどのクラブやスポーツ施設は稼働していない。リオのほうはまだ何とかやっていますけどね」
藤井一家の居住区でも、感染者は当たり前のように出始めた。
「すでに私のまわりは集団免疫ができているんじゃないかと思うくらい、けっこうな数の人がかかっていますね」
藤井も、遠征や合宿のたびにPCR検査を受けている。その回数は40回以上に及ぶ。
「選手が大会に出るためには(関係者も)出国までに2回、現地に到着したらまた1回、試合前にもう1回、そして帰る時にもう1回という感じでテストを受けないといけない。ポルトガルに滞在している時も、2週間ごとに1回は検査していました。もうPCRだらけ。それが結構ストレスなんですよね」
どんなに準備したとしても、一人でも陽性が出たら戦えない。検査結果が出るまでの時間は慣れたいと思ってもそうできるものではない。案の定、これまで陽性や偽陽性の反応が出た選手も関係者もいた。
「最初の頃は一人も出なかったけど、国の感染者数が上がってきたと同時にそうなってきましたね。試合の時にはまだ運良く誰も引っかかっていないですけど」
まったく別の方向に向かい始めた東京五輪
先行きは不透明ながら、ブラジル代表チームは東京五輪に向かって突き進む。もっとも代表選手はまだ決まっておらず、6月に最終アナウンスがある見込みだ。
「男子は7階級中5階級は事実上派遣する選手は決まっている。決まっていない階級はこれからの試合を見て決めることになります」。今後もブラジル男子代表チームは月1回の合宿を行いながら、国際大会があれば海外に出るスケジュールを組む。藤井はサンパウロの情勢が変化しやしないかと危惧する。
「州の決まりで合宿ができなくなってしまったら、どうしようかと思っています。大丈夫だとは思うけど、そうなってしまうかもしれないので、今のうちからプランBを考えておかないといけない」
そんな藤井の心配とは裏腹にリオデジャネイロの市民の東京五輪に対する関心はさほど高くない。昨年、藤井は近隣の住人にこんな質問を受けた。
「オリンピックは2021年に延期になったんだよね?」。ブラジルに滞在して早や7年、そんな言葉を受けても驚いたりはしない。
「直前になって盛り上がる国民性なので、オリンピックの受け取られ方は延期前の2020年の時と変わらないでしょうね」
翻って日本を取り巻く状況はどうか。ブラジルとの国民性の違いは如実に現れ、2020年開催のカウントダウンの途中までの盛り上がりといったらなかった。1964年の東京五輪の時とは別の意味で、東京を中心にオリンピックムーブメントが起こっていたといえるのではないか。
しかし、新型コロナウイルスによって開催が1年延期されてから、日本におけるオリンピックを取り巻く空気は明らかに変わってきた。「スポーツより人命」が声高に叫ばれるようになり、パンデミック以前の高揚感は感じられない。
それでも日本政府や日本オリンピック委員会は開催の意向を崩していないが、先日の東京五輪・パラリンピック組織委員会会長の森喜朗・元内閣総理大臣の「女性蔑視」発言によって、オリンピックの話題は世界規模でまったく別の方向に向かい始めた気がしてならない。
「2年間の出場停止処分」シルバとのメールのやりとり
今回の取材で藤井にどうしても聞いてみたいことがあった。リオデジャネイロ五輪時にはブラジルの女子代表チームの技術コーチを務めていたが、教え子の一人に57kg級でブラジル女子柔道史上初めて金メダルを獲得したラフェエラ・シウバがいた。
ラファエラは一躍時の人となったが、2019年のパンアメリカン選手権で優勝した直後のドーピング検査で禁止薬物にあたるフェノテロールの陽性反応を示したことでメダルを剥奪されてしまう。昨年1月、国際柔道連盟はパンアメリカン大会におけるドーピング違反を理由に、シルバに2年間の出場停止処分を下した。シウバ側は「ぜんそくを患った乳児と接触していたことが原因」とスポーツ仲裁裁判所に処分の不服を申し立てたが、訴えは棄却されたため処分は確定した。
いったい何があったのか。
藤井は「いま私は女子を持っていないので、詳しい話は届いていない」と前置きしつつ、ラフェエラとメールのやりとりをしたことを打ち明けた。
「そこでも彼女はどうなっているのかわからないと言っていました。彼女は無実だと主張しています。私が知っている彼女だったら、そういうことをするとは思えない。そもそも知っている人からもらった水でも絶対口にしないようなタイプですから。どうやってラフェエラの体内に入ってしまったのか。何があったのかは(いまだに)わからない」
すでにラフェエラは気持ちを切り換え、2024年のパリ五輪を目指し、自身のSNSにトレーニングしている映像をアップしている。
ラファエラを育成した腕が見込まれたのだろう。2018年5月から藤井は男子ナショナルチームの監督として手腕を振るう。ブラジルのスポーツといえばサッカーを思い浮かべる方が多いと思うが、実は柔道も人気で2016年のミズノの調査によると競技人口は200万人と世界最多を誇る。発祥の地である日本は16万人といわれているので、実に22倍以上の競技人口を抱えていることになる。
そうなると国際大会でも活躍するケースが多く、ロンドンとリオデジャネイロの両オリンピックでは100kg超級でラフェエル・シウバが2回連続銅メダルを獲得している。
金メダルは過去に2例あり、1992年のバルセロナ大会では66kg級のロジェリオ・サンパイオ、1988年のソウル大会では100kg級でアウレシオ・ミゲルがそれぞれ獲得している。銀メダルも3例ほどあるが、バルセロナ大会以降金メダルからは遠のいている。
監督就任時、藤井は「性別を超えた存在」といやがうえにもクローズアップされたが、周囲が想像するほど本人は性別の違いを意識していない。ブラジルの男子代表チームの篠原準一・前監督からこう告げられた。
「男性か女性かということは関係ない。能力が重要視されるんだ。能力のある者が先頭に立てばいい」
いまは全面的にサポートしてくれているという篠原前監督のアドバイスは、藤井の脳裏にしかと焼き付けられている。
<了>
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PROFILE
藤井裕子(ふじい・ゆうこ)
1982年生まれ、愛知県出身。柔道・ブラジル男子ナショナルチーム監督。幼少期から柔道を始め、2010年よりイギリスでナショナルチームのコーチを務める。2013年よりブラジル女子ナショナルチームのコーチに就任。2016年リオデジャネイロ五輪では57kg級のラフェエラ・シウバをブラジル女子柔道史上初の金メダル獲得に導く。その手腕が評価され、2018年より現職に就任。
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