
仙台で20年、スタジアムDJが怒った出来事とは? 盛り上げ役だけに非ず、知られざる仕事術
2020年5月に立ち上がったオンラインサロン『蹴球ゴールデン街』では、「日本のサッカーやスポーツビジネスを盛り上げる」という目的のもと、その活動の一環として雑誌作成プロジェクトがスタートした。雑誌のコンセプトは「サッカー界で働く人たち」。サロンメンバーの多くはライター未経験者だが、自らがインタビュアーとなって、サッカー界、スポーツ界を裏側で支える人々のストーリーを発信している。
今回、多様な側面からスポーツの魅力や価値を発信するメディア『REAL SPORTS』とのコラボレーション企画として、雑誌化に先駆けてインタビュー記事を公開する。
第8弾は、20年間ベガルタ仙台のスタジアムDJを務め、現在はいわてグルージャ盛岡のクラブアドバイザー兼スタジアムDJを務める大坂ともおさんに、スタジアムDJの知られざる仕事について話を聞いた。
(インタビュー・構成=五十嵐メイ、撮影=松本晃)
ベガルタ仙台での20年、最後の一日の忘れ難き思い出
──長い間ベガルタ仙台のスタジアムDJとしてスタジアムを盛り上げ、現在はいわてグルージャ盛岡のスタジアムDJを務めていらっしゃいますが、スタジアムDJに就くまでの経緯を教えていただけますか?
大坂:もともとフリーアナウンサーで「しゃべる」ということを職業にしていました。当時は主にラジオのパーソナリティをしていて、音楽番組などを担当していました。
スタジアムDJに就任する前も、仕事の一環でサッカーの大会の仕事も請け負ったりしていました。いつからサッカーの仕事に携わっていたかというのは曖昧になってしまいますが、正式にスタジアムDJに就任したのは1998年頃です。当時はまだ「ブランメル仙台」というチーム名で、現在の「ベガルタ仙台」に名称が変わる前でした。試合の当日に「今日、来られませんか?」という連絡が来て、急きょスタジアムDJを担当したのが始まりですね。そこから度々呼ばれることがあって、最初は2、3人いたんですが、最終的に一人残ったという感じです。それから20年間ベガルタ仙台のスタジアムDJを担当しました。
──ベガルタ仙台のスタジアムDJとして、最後の試合が終わった後はどんな気持ちでしたか?
大坂:実は、ベガルタ仙台のスタジアムDJを卒業することは周囲に話していなかったんですよね。2018年のリーグ最終戦を終えて、ユアスタ(ユアテックスタジアム仙台)最後の試合だった天皇杯準決勝が終わるまでは内緒にしていました。
試合が終わってマイクの電源を切って片付けている時にふと「あ、もうユアスタには来ないんだ」と思い、それまでの思い出が一気によみがえってきました。ベガルタ仙台のスタッフさんも、気を使ってくれて「最後のアナウンスをしてくださいね」というように声をかけてくれました。でもそうしなかった。最後、片付けが終わってからスタッフさんや選手の皆さんが「お疲れさまでした」とサプライズで集まってくれて、花束やユニホームを渡してくれて、集合写真を撮ったりしました。
最後にスタジアムを出て帰る時に「もうユアスタに来ないんだな」と思った瞬間のなんとも言えない気持ちは忘れられないですね。
ベガルタ仙台のスタジアムDJは卒業しましたが、現在はご縁があって、いわてグルージャ盛岡のホームゲームで、スタジアムDJをさせていただいています。
今改めて振り返る、東日本大震災後初めてのホームゲーム
──「スタジアムDJ」と聞くと、試合を盛り上げるのが主な仕事として想像する方も多いと思います。今回は、大坂さんに実際のお仕事はどんなことをしているのか詳しく教えていただきたいと思います。
大坂:試合中はもちろんですが、試合前後にイベントが行われることもあるのでそういったイベントにも関わっています。
ベガルタ仙台時代は、だいたい試合の前の週に原稿をいただいて、そこから何度か変更もあったりしますが、その試合の冠スポンサーさんの確認や、ライブイベントをする場合やゲストとしてあいさつをする方の確認などを前の週から行ったり、事前準備を行います。
当日は、遅くてもスタジアムが開場する3時間前には会場入りをして、最初に原稿の最終チェックをして、放送部のスタッフでミーティングした後にリハーサルを行います。そうするとだいたい開場時刻になるので、お客さんを入場させます。
「スタジアムDJ」と聞いて、試合開始前や試合中の様子を想像する方が多いと思いますが、入場前に「まもなく入場を開始しますので、列にお並びください」といったように入場の案内や、今だと新型コロナウイルスの感染対策のアナウンスを行っているのもスタジアムDJの仕事の一つです。スタジアムを盛り上げることも大事な仕事だと思いますが、それ以上にスタジアム内でのイベント情報などのインフォメーションも大切な仕事です。
中でも一番大切なのは、お客さんに安心してスタジアムに来てもらい、最後まで安全に帰ってもらうことです。
例えば地震や雷が起こった時に真っ先にしゃべるのがスタジアムDJです。そういった時に、お客さんが不安やパニックにならないように安全に誘導しなければいけません。また、お子さんが迷子になってしまった場合のアナウンスもスタジアムDJが行います。ハザードをつけたまま駐車されている方もたまにいるので、そういった方へのアナウンスも行いますね。
──試合中だけではなく、さまざまな案内もこなすのがスタジアムDJの仕事なんですね。今まで担当した試合で、イレギュラーなアナウンスをしたことはありますか?
大坂:ベガルタ仙台時代の話になりますが、アウェイサポーターの方がオーロラビジョンの前で旗を振っていました。その旗がオーロラビジョンに当たりそうになったので、思わず「オーロラビジョンに触れるなー!」と怒ったことがあります(笑)。危ないですからね! スタジアムDJは、スタジアムのありとあらゆるところに目を配っています。
──災害の話が出てきましたが、2011年に東日本大震災が起こった後の中断期間を経て、再開後最初のホームゲームをスタジアムDJという立場から見た時、大坂さんの目にはどのように映っていましたか?
大坂:サッカーがない世界から、ようやくサッカーが日常に戻ってきた。もちろん大変な時期ではありましたが、震災から止まってしまった時間が一つ動き始めた瞬間を感じる一日でした。ひと言では言い表すことができないくらい、感慨深かったです。
津波の被害を受けた場所はそのままの状態で、ベガルタ仙台サポーターの方の中には、避難所で生活している方、津波の被害の犠牲になってしまった方もいました。サポーター同士でもスタジアムで試合の度に顔を合わせているけれど、連絡先を知っているわけでもないから安否が分からないという話も耳に入ってきていました。
そんな状況で再開された浦和レッズ戦だったので「ああ……。無事だったんだ。生きていた! よかった」というようなやりとりをしながら、みなさん涙を浮かべていました。そんな状況だったので、サポーターの声援というのもより一体感が増していました。
──ベガルタ仙台の選手も、積極的にボランティアに参加していましたよね。
大坂:選手たちも被災地で復興の支援をしてくれていました。避難所に行って子どもたちと遊んだり、津波の跡の泥かきのボランティアを行ってくれていました。チームとして動くだけではなくて、選手個々で動いてくれた選手もいましたね。
実際に私も、その当時チームに在籍していた選手やOB選手らと被災地をまわったりしていました。その時は「このままサッカーが始められるのだろうか?」という不安な気持ちでした。そういう絶望感を味わってからの試合でもありました。
当時監督だった手倉森誠監督はコメントで「チームが希望光になるんだ」というメッセージを強く出して、選手を鼓舞していました。そのシーズンは4位で終えることができましたが、練習もままならない状況で、再開して選手がピッチに立っていることが本当に奇跡という状況でした。
震災後のベガルタ仙台は本当にたくさんの人の想いや希望を背負っていて、今振り返るとみんなが一体となって戦うことができたシーズンだったなと思います。
2002年日韓W杯の日本戦を担当
──Jリーグだけではなく、2002年の(FIFA)ワールドカップでは、6月18日に宮城スタジアムで行われた日本対トルコ戦を含めた3試合で、スタジアムDJを務められています。国際試合、それも夢の舞台といわれるワールドカップでのスタジアムDJはいかがでしたか?
大坂:日本で初めて開催されるワールドカップということで、運営する側も初めてなのでリハーサルなども含めて、かなり大変だった記憶がありますね。
FIFA(国際サッカー連盟)から来ているスタッフは外国の方なので、マニュアルも最初は全て英語でした。それを翻訳して使用していましたが、内容が日々変わっていくので、そのたびに訳してアップデートして使用しなければいけませんでした。
ワールドカップというのは、本当にたくさんの方が関わっています。開催に至るまでに関わってきた人たちのプロセスを、みんなで共有しながら一つの大会をつくり上げていくというのが、とても難しかったのが印象に残っています。
──Jリーグとの違いを感じた部分はありますか?
大坂:リハーサルですね。前日も深夜までリハーサルを行い3時間くらい寝る。次の日も本番の直前までリハーサルが続いていました。それを中3日くらいで繰り返していましたね。
英語と日本語が入り乱れている中でのリハーサルだったので「次はこれですよね?」と聞いても「全然違うよ! こっちだよ」なんていうやりとりもザラにありました。初めてのことなので、みんな手探りでしたね。
スタジアムDJも僕と、英語を話す人がいました。2人でコミュニケーションを取りながら進めていくのだけれど、ディレクターは英語が話せなかったりということもありました。
──本番では実際にいかがでしたか?
大坂:苦労したぶん、本番は大成功でした。日本人のスタッフも、海外からいらっしゃったスタッフの皆さんも最初は言葉の壁に戸惑う姿が多く見られましたが、試合を重ねていくごとに、チームワークがすごく良くなっていくのを感じていました。
日本の決勝トーナメント進出が決まり、宮城スタジアムに来ることが決まった時の運営チームの盛り上がりもすごかったです。自国開催で、自分の国の試合を担当することができたというのは、本当に今でもいい思い出だなと思っています。
コロナ禍で観戦スタイルが変わった今、改めて声に込める「想い」
──いろいろなスタジアムDJがいると思いますが、試合を盛り上げる上で大坂さん流のこだわりはありますか?
大坂:「サポーターの邪魔をしない」という部分は特に気をつけています。こちらサイドが勝手に盛り上がらないように、お客さんの熱量を感じることですね。
例えば開場してすぐにワーってあおったりはしません。最初は皆さんワクワクドキドキ感だったり、今日の試合への期待を胸に抱いているけれど、いきなり盛り上がっているわけではありませんよね? なので、最初のアナウンスはゆっくり話すようにしています。
だんだん試合開始が近づいてくるにあたって、盛り上がりが増してきます。アップを始めるためにピッチに選手が登場する瞬間って、サポーターもすごく盛り上げますよね。まずは、そこに向けて徐々にスタジアムの雰囲気を盛り上げていくようなアナウンスをしています。
ピークは、選手入場だと思っています。「それでは両チーム、選手の入場です」というところが一番盛り上がるところかなと考えています。試合を盛り上げるのはサポーターの皆さんなので、スタジアムDJは、その後押しを担っているのかなと思います。
──現在はコロナ禍で、声で後押しをしてきたサポーターが許されているのは手拍子だけです。今までにない観戦スタイルを求められている中で、唯一スタジアムで声が出せる存在として、意識していることはありますか?
大坂:「より言葉を大切にする」ということです。現在のスタジアムでは言葉を使い選手を鼓舞できる存在は、スタジアムDJだけです。そういう状況なので、より言葉の重みを感じることが多々あります。ゴールが決まった時の「ゴール」という言葉一つ取ってもそうですよね。サポーターは声を出して喜ぶことができないですから……。
選手交代に関しても、ただ選手の交代をアナウンスするだけではなく、スタジアムDJがしゃべる意味のあるようにアナウンスをするように心がけています。
より言葉を大切にしているという表現をしましたが、言葉の一つ一つにより「想い」を込めてしゃべるようにしています。発する言葉に大きな変化はありませんが、コロナ禍では特にサポーターの皆さんが直接声を上げて届けることができない想いを乗せてアナウンスをするように心がけています。
──サポーターの観戦スタイルが変わってから、忘れられないゲームはありますか?
大坂:2021年4月3日に、いわてグルージャ盛岡対FC今治の試合が行われました。3対2でグルージャが勝利を収めましたが、ゲーム内容は点を取ったり取られたりといったように、シーソーゲームでした。
1対1に追いついてすぐに勝ち越された際に、サポーターがちょっとだけ「あぁ……」と落ち込んだように見えました。なので、その後の選手交代で「ここから追いついて、逆転するんだ」そういった気持ちを込めてアナウンスをしました。すると、その気持ちがサポーターに伝わったのか、大きな応援に変わっていきました。そして試合は、追いついてからの、逆転勝利! すごく盛り上がりましたね。
今は、皆さんが言葉を発することが許されない状況なので、なおさらそういった想いをしっかり込めたいと思っています。
<了>
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PROFILE
大坂ともお(おおさか・ともお)
1970年生まれ、宮城県出身。フリーアナウンサーを経て1998年からベガルタ仙台のホームゲームでスタジアムDJを担当。2002年のFIFAワールドカップでは宮城スタジアムで行われた試合のスタジアムDJを担当した。2020年よりいわてグルージャ盛岡のクラブアドバイザー兼スタジアムDJに就任。
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