
日本柔道“全階級金メダル獲得”には「10年かかる」? 溝口紀子が語る、世界の潮流との差とは
東京五輪で合計12個のメダルを獲得した日本の柔道界。中でも金メダル9個は2004年アテネ五輪の8個を上回る過去最多の獲得数となった。2012年ロンドン五輪での男子金メダル0の屈辱、翌年の指導者のパワハラ問題などを乗り越え、いかにしてこの結果が生まれたのか。バルセロナ五輪の銀メダリストで、現在はスポーツ社会学者として活動する溝口紀子は「地の利が非常に有利に働いた」と日本勢にとって好条件の大会であったことを指摘したうえでその功績を高く評価する。その一方で、2024年パリ五輪で「全階級での金メダル獲得を目指す」と宣言した日本柔道界にとっての大きな課題も指摘する。
(インタビュー・構成=布施鋼治)
「日本柔道、復活」と安易にまとめることに対する違和感
──東京五輪で柔道の日本代表は男女合わせて9つの金メダルを獲得しました。これほど日本チームが活躍すると予想していましたか?
溝口:私は「うまくいけば、男子は全員金を取れるんじゃないか」と予想していたけど、男子は5つで女子は4つですか。
──はい。それでも、十分すごい獲得数です。国別でいうと、日本はダントツで1位ですから。
溝口:今回の東京五輪全体を見渡してみても、日本柔道が(他の競技も合わせ)日本全体を牽引していたことは間違いない。水泳、陸上、バドミントンなどは地元開催ということもあり活躍が期待されていたけど、思うように力を出せなかった。それだけ自国開催のオリンピックの日本代表にはすごいプレッシャーがかかっていたと思います。
──オリンピックには魔物が住んでいるとよくいわれています。
溝口:その中で、柔道はこれだけ金メダルを量産できたわけなので大成功だと思います。ただ、この活躍を「日本柔道、復活」と安易にまとめることには抵抗があります。
──といいますと?
溝口:前回のリオデジャネイロ五輪(金3、銀1、銅8の計12個)と比べると、良かったというより現状維持が妥当だったんじゃないかと。(地国開催の)“地の利”が非常に有利に働いたんじゃないかと思います。
──海外勢は日本に入国直後から隔離となり、隔離が明けても練習時間は大幅に制限されていたと聞きます。海外勢にとってはそういった決して満足できない練習環境も大きかった?
溝口:そうですね。東京五輪が延期になって以降、開催された国際大会では、日本、フランス、ロシアなど柔道大国の活躍が目立っていました。
──今年6月にハンガリーで開催された世界選手権で日本は個人戦で最多の6つの金メダルを獲得しています。
溝口:しかも、派遣されたのはオリンピック代表ではないメンバー。いわゆるBチームでした。今回日本チームは地元ということで、試合直前まで選手村に入らずある程度自由にできた。隔離措置はありながら、選手村に入らずに済んだ。海外からは「日本のやり方はズルい」という見方があることは確かです。地元開催であることがこれほど有利になった大会はないでしょう。
──そうなってしまいますね。
「3割増で地元の利が働いていたことは間違いない」
溝口:パラリンピックの話に飛んでしまうけれど、来日したジョージアの選手が宿泊先で警備員を突き飛ばして逮捕されてしまったじゃないですか。
──飲酒のみならず、暴行まで働いてしまったので、大きなニュースになってしまいました。
溝口:裏を返せばそれくらい選手にとって隔離措置はストレスだったわけです。でも、プレ大会からずっとバブル方式を設けていた。そうしないと試合に出られない。母国でも、選手や指導陣は家族と離れた生活を余儀なくされていました。
──みんな大変だったと思います。
溝口:コロナ前、海外の選手は他の国への遠征を繰り返しながら強くなるというのがいつもの強化パターンだった。今回はそれができなかった。オリンピックに向けての海外遠征によるブラッシュアップができなかったわけです。
──確かにそうですね。
溝口:対照的に自国開催の日本は他の国々に比べたら練習や調整もある程度できた。そういうところは有利に働いたんじゃないですかね。他国と比べたら、しっかり準備を整えることができたことが好成績につながったと思います。そのうえで日本チームの準備力が卓越したものであったからこそ、力を出し切る選手が多かったんじゃないですかね。
──中でも井上康生・全日本男子監督の指導力は評判を呼びました。
溝口:以前よりは数段いいんじゃないですか。2012年のロンドン五輪では惨敗を喫し、翌2013年にコーチのパワハラによる不祥事が世間を賑わせた。昔は体罰は当たり前で、柔道は選手ファーストではなく、監督ファーストだった。それがガラリと変わったわけです。団体戦が終わった後、井上監督は選手から胴上げされていましたよね。これで井上さんは退任されますけど、東京五輪は井上イズムの集大成だったんじゃないですかね。
──以前と比べ、チームのムードが違っているように見えました。
溝口:ただ、今回の結果はあくまでイレギュラーだと思ったほうがいい。「これが今の海外勢の実力」と楽観視していたら、思わぬしっぺ返しを食うことになる。そう考えていたほうがさらに前進することができると思います。
──練習環境など大きくプラスに働いたところもあり、今回はイレギュラーと考えたほうがいい、と。
溝口:そうですね。3割増で地元の利が働いていたことは間違いない。
阿部きょうだい同日優勝は東京五輪の象徴的なワンシーン
──日本勢で印象に残っている選手は?
溝口:まずは双方ともスターといっていい一二三と詩の阿部きょうだい。同日優勝は東京五輪の象徴的なワンシーンだったと思います。
──阿部きょうだいがそろって優勝したことで、一気に日本が勢いづいた感はありました。
溝口:コロナによって分断される絆が多い中、きょうだいが同じ日に金メダルを取るという歴史的な1日でした。それに、今まで柔道できょうだいといえば、男の兄弟ばかりクローズアップされてきたじゃないですか。
──1996年のアトランタ五輪では、柔道の中村兼三・行成の兄弟が金と銀メダルを獲得しています。上野姉妹は長女・雅恵と次女・順恵がオリンピックでメダルを取っていますが、大会は別々でした。
溝口:今回は男女という今までになかった組み合わせも良かったんじゃないですかね。あと私個人としては、女子70kg級で優勝した新井千鶴選手と男子81kg級で優勝した永瀬貴規選手ですね。
──後日、引退を表明した新井選手が優勝できた要因は?
溝口:立ってよし寝てよしの選手だけど、キーポイントは寝技ですよね。準決勝を争ったマディナ・タイマゾワ選手(ROC=ロシア・オリンピック委員会)の寝技は、体が柔らかくフニャフニャでタコと柔道をやっているような感じだったけど、新井選手は次から次へと矢継ぎ早に技が出ていた。切り替えも早くて、関節技がダメだったら絞めというふうに臨機応変に攻めていた。女性でも血みどろの闘いができるというところも示してくれました。
──タイマゾワ戦はトータルで16分41秒ですか。この一戦は東京五輪の柔道のクライマックスの一つだったと思います。それほど印象に残っています。
溝口:新井選手の強さは内輪では知れ渡っていましたけど、ああいう大舞台で実力を発揮したわけですからね。彼女はキャリアを積み重ねにつれ、強くなっていった。あれでいい。オリンピックなので、泥臭くてもいいと思う。ああいった粘り勝ちというか諦めない執念が技術以上に光っていた。彼女に力を出し切らせた組織力や準備力、あの死闘に耐え抜いた新井選手の精神力を評価したいですね。
──永瀬選手については?
溝口:永瀬選手は、ある意味この階級では本当に線が細い。他の選手と比べても手足が長く体が細い気がするけど、柔らかい柔道をするんですよね。今までなかなか大舞台では勝てなかったけど、フィジカルや力の強さ、つまり「剛の柔道」が主体の今の流れの中で、永瀬選手のような柳のようなしなやかな「柔の柔道」が勝てたということはある意味、パリ五輪に向けて新たな強化の仕方があることに気づかせてくれました。
天才ではない新井千鶴と永瀬貴規の金メダルが持つ意味
──新井選手や永瀬選手の闘い方に未来を感じたわけですね。
溝口:はい、彼らの勝利は、日本柔道の底上げができた証左だと思っています。とりわけ永瀬選手はメンタル面もたくましくなったように思いました。正直いうと、新井選手や永瀬選手は天才的ではありません。もっというと、新井選手や永瀬選手は日本のどこにでもいるような選手なんですよ。いつも出てくるような選手が、オリンピックという大舞台で金を取った意味は大きい。
──先程泥臭いという言葉が出ましたけど、それは男子60kg級を制した高藤直寿選手にも感じました。
溝口:(声を大にして)高藤選手もそう! 東京五輪が1年延期になったことで、減量に不安があった高藤選手は相当きつかったと思います。現役時代の私(1992年バルセロナ五輪の女子52kg級で銀メダルを獲得)もそうだったけど、減量が苦しい選手にとって試合がないというシチュエーションはありえない。
──試合をゴールにして、減量するわけですからね。大会がなかったら、どこをゴールにしていいかわからなくなる。
溝口:その通り。普通減量が苦しい人は3カ月くらいかけて試合に向けての体をつくる。年に4大会出るとしたら、3カ月という周期での減量を計画するわけです。でも試合がないということになれば、ゴール設定をすることなしに体重をコントロールしなければならない。高藤選手も、そういう経験をしたことはなかったんじゃないですかね。
──初めてだったでしょう。
溝口:(最軽量級ということで)男子60kg級は減量に苦しむ選手が多い。その中で高藤選手は集中力が切れなかった。体調を万全にして、試合に臨んでいました。しかも、日本チームのトップバッターですよ。ある意味、先鋒としていい仕事をしたんじゃないですかね。彼の貢献度は非常に大きい。翌日、阿部きょうだいが優勝してしまったので、ちょっとかすんでしまった感があるのが残念ですけど(苦笑)。
100kg超級日本男子が金メダルを獲得するためには「あと10年は必要」
──準決勝で原沢久喜選手が敗れてしまった男子100kg超級は?
溝口:優勝したルカシュ・クレパレク選手(チェコ)はこの階級では小さいけど、それでも勝てたということはフィジカルの強さもあるのでしょう。重量級でも背負い投げができたりするタイプで、器用に技が出せて寝技も強かった。少なくとも昔の重量級のようにアンコ型(太ってお腹が出た体型)で体がでかければいいというタイプではない。
──確かに。
溝口:100kg超級の日本男子がクレパレク選手のような柔道をするには、あと10年は必要でしょう。だってこの階級で最後に金を取ったのは2008年の石井慧選手ですよね。あれからもう13年も経っている。今の小学生や中学生に「跳ね技、担ぎ技、左右の技、寝技もしっかり身につけましょう」というスタンスでしっかりした技と体力を身につけてもらうためには、そのくらいの時間が必要だと思います。日本の柔道は小学生のときから重量級の選手が重用され団体戦を組む。それだと、世界に出たときに井の中の蛙ですよ。アンコ型の重量級偏重主義という日本柔道のスティグマ(偏見)を変えないと、世界の潮流には到底勝てません。
<了>
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PROFILE
溝口紀子(みぞぐち・のりこ)
1971年7月23日生まれ、静岡県出身。スポーツ社会学者(学術博士)。埼玉大学フェロー。1992年、女子柔道が初めて正式種目となったバルセロナ五輪・女子52kg級で銀メダルを獲得。2002年から2004年にかけて日本人女性として初めてフランスのナショナルコーチを務めた。現在は日本女子体育大学体育学部スポーツ科学学科教授として活動する傍ら、全日本柔道連盟評議員や一般社団法人袋井市スポーツ協会会長も務めている。
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