鹿島「歴史や伝統に拘り過ぎれば時代に取り残される」。20冠全てを知る男の退任、改革と進化の覚悟

Opinion
2021.12.30

Jクラブ最多、前人未到の20冠を誇る“常勝軍団”、鹿島アントラーズの一時代が終わりを迎えようとしている。これまでに獲得した全てのタイトルを知る、鈴木満フットボールダイレクターがクラブを去る。鹿島イズムとジーコスピリットを脈々と継承しながら、強化と育成に尽力してきた。だがこの5年間、国内無冠に終わったことも事実だ。クラブの歴史を知る男の退任は、新たな黄金時代の幕開けとなるだろうか――。

(文=藤江直人、写真=Getty Images)

鈴木満の脳裏に焼きついて離れない、あの“負けた”試合

コーチとして。強化育成課長として。強化部長として。そして、フットボールダイレクターとして。1993シーズンに始まったJリーグにおける鹿島アントラーズの歴史の全てに関わってきた64歳の鈴木満の脳裏から、焼きついて離れない一戦がある。

今でも対戦相手より先に日付が思い浮かぶ。ただ、それは勝った試合でも、ましてやタイトルを手にした試合でもない。2017年12月2日。敵地でジュビロ磐田とスコアレスドローに終わったJ1最終節を、鈴木は「負けた」と位置づけている。

「僕は負けた試合をどうしても引きずってしまう。そして、次の試合に勝てて初めてそれを書き換えられるというか、負けたという事実を消化して次に進めるので」

同時間帯に行われた一戦で、大宮アルディージャに5-0で快勝した川崎フロンターレに勝ち点72で並ばれ、キックオフ前から大きく後塵を拝していた得失点差で首位から陥落した。川崎の初優勝をお膳立てしたからこそ、鈴木は「負けた」と繰り返す。

「あれからリーグ戦のタイトルを取れていない、という点で磐田との試合がずっと心に引っかかっている。次に優勝して初めて忘れられるんですけど」

「もう終わりにしよう」。今が代わるべき時だとけじめをつけた

翌2018シーズンのAFCチャンピオンズリーグ(ACL)こそ初優勝したものの、国内タイトルでは2017シーズンから無冠が続いていた。迎えたクラブ創設30周年となる今シーズン。鹿島の礎を築き上げたテクニカルディレクターのジーコと、鈴木はある思いを共有してきた。

「今シーズンの契約を更新するときに、実はジーコも『今年が区切りかな』と言っていたんですね。メルカリに移行して3シーズン目で、何となくだけど、僕自身も一つの区切りという思いがあった。もちろんタイトルを目指して戦ってきましたけど」

しかし、リーグ戦では2シーズン続けて川崎に独走を許していた。YBCルヴァンカップは準々決勝で名古屋グランパスに2戦合計0-4で完敗。そして、天皇杯準々決勝で川崎に1-3で敗れた10月27日に今シーズンも無冠が決まった。

「その日に『もう終わりにしよう』と自分の中でけじめをつけました。クラブとして残していかなければいけない部分と変わらなければいけない部分がある中で、変わる部分でいえば自分が代わるのが一番かなと。タイトルを取れなかった責任と新しい鹿島のスタートという意味で、今が区切りとしては一番だという判断を下しました」

リーグ戦の最終節前に小泉文明社長へ辞意を伝え、一時は預かりとなったものの、シーズン終了後に了承された。クラブから鈴木の退任が発表されたのはクリスマスの25日。一つの時代の終焉(しゅうえん)は、サッカー界に驚きを持って受け止められた。

鹿島に黄金時代をもたらした鈴木流の強化“設計図”

J1リーグ戦で8度。ルヴァンカップで6度。天皇杯で5度。さらにACLを加えたライバル勢の追随を許さない通算20冠は、鈴木の存在を抜きには語れない。

ただ、1996シーズンのリーグ初優勝をはじめ4冠を獲得した1990年代と、史上初の国内三冠を独占した2000シーズン、前人未到のリーグ3連覇を果たした2007~09シーズンを含めた2000年代以降では、チームをつくっていく上での指針が根本的に違っている。

1990年代は外国籍選手、それも現役ブラジル代表だったレオナルドやジョルジーニョというビッグネームがチームの「幹」を形成した。クラブの確固たるブランドをつくる上での先行投資だったと、1996年2月にコーチから強化育成課長に就任した鈴木は言う。

「かなりの額の赤字も出しましたが、タイトルを取り続けていけば2002年FIFAワールドカップ(日韓大会)開催都市となり、そうなればカシマサッカースタジアムを大きく改修できると。スタンドが大きくなればもっと集客アップを見込めるし、そうならなければアントラーズは存続していけないという危機感が、チームを立ち上げたときからありました」

実際に3年間で4つのタイトルを取り、磐田と2強時代を形成した1996シーズン以降でトップクラブとして認知され、日本人選手の有望株を獲得できる状況が整った。

そして、リーグ全体が健全経営にシフトした2000シーズン以降は、日本人選手を「幹」に据え、足りない「枝葉」の部分を外国籍選手で補う方針へ180度転換した。2000年11月に強化部長に就任した鈴木から、こんな設計図を聞いたことがある。

「加入して3年目くらい、高卒ならば20歳過ぎでレギュラーとなった選手が、30歳前後まで『幹』を担っていく中で、最後の3年間くらいを次の『幹』とうまく重ねる。そうすることで、アントラーズの伝統を選手から選手へと引き継がせるんです」

果たして、2000シーズンで主軸として台頭したのは、高卒3年目を迎えていた小笠原満男であり、中田浩二だった。同期の曽ヶ端準や本山雅志と共にリーグ戦3連覇を支えた中で、彼らが30歳を超えた2010年夏に大きな転機が訪れた。

2010年夏に訪れた大きな転機。選手たちの価値観の変化

次なる「幹」だった高卒5年目の内田篤人がブンデスリーガのシャルケへ移籍。2013シーズンのオフには、同じく高卒5年目の大迫勇也もドイツへ新天地を求めた。12月27日にオンライン形式で行われた囲み取材で、鈴木はこんな言葉を残している。

「環境の変化というか、強いクラブに入ってJリーグで優勝するよりも、海外へ挑戦することに選手の価値観が変わった。しかも海外移籍がどんどん若年化している。3、4年をかけてようやく中心に育ってきた選手が抜かれると、新卒選手を育てる方針の下でやってきただけに、チーム力や戦力を安定させていくのが非常に難しくなる」

より高いレベルに挑みたいと望む選手を、むやみに引き留めはしなかった。しかし、日本サッカー界に訪れた新たな潮流はますます顕著になっていった。

2016シーズンのオフには、鈴木をして「あいつが抜けたら大変なことになる」と言わしめていた柴崎岳がスペインへ移籍。2018年7月には植田直通、同年オフには昌子源と最終ラインを支えてきたセンターバックコンビもヨーロッパへ旅立った。

さらに2019年夏には鈴木優磨、安西幸輝、そして安部裕葵が一気に移籍。チームの「幹」が定まらない状況下で、2000年に定めた設計図をなかなか具現化できずにいた。

歴史や伝統にこだわり過ぎれば時代に取り残される

生え抜きの選手を鹿島色に染めながら育てて、同時に他のJクラブから日本人選手や外国籍選手を補強する方針も加えた。それでもタイトルが遠い状況で、黎明(れいめい)期から貫いてきたブラジル路線に新たなエッセンスを融合させる決断が下される。

オーストリアの大手企業、レッドブル・グループが経営するブラジルのクラブで指揮を執っていた、ザーゴ監督を招聘(しょうへい)した昨シーズンの狙いを鈴木はこう振り返る。

「アントラーズのサッカーを少しアップデートする、というもくろみでレッドブル・グループにいたザーゴ監督の下で厳しく、激しく、縦に速いサッカーを目指したかった」

結果としてザーゴ監督は成績不振を理由に、今年4月に解任された。それでもブラジル出身ながらヨーロッパの薫陶を受けているザーゴ監督に指揮を託した背景には、歴史や伝統にこだわり過ぎれば時代に取り残される、という危機感があった。

ザーゴ監督からバトンを託され、最終的にはリーグ戦で4位に立て直した相馬直樹監督もオフに退任した。鹿島の黄金時代を選手として経験した指揮官との契約更新を見送ったのは、すなわち歴史や伝統よりも改革が選択されたことを意味している。

ニュルンベルク(ドイツ)やアンデルレヒト(ベルギー)を率いた経験を持つ、スイス出身のレネ・ヴァイラー監督をクラブ初のヨーロッパ人指揮官として招聘した理由を鈴木はこう語る。

「最初からヨーロッパ人監督でいこう、というよりもブラジルで若くて、ヨーロッパの現代サッカーを勉強している指導者をジーコも含めて探しました。しかし、ブラジル国内でも外国人監督が増えている状況で、じゃあどうしようかと。いろいろとリストアップした中で5人ぐらいとリモートで面談して、プレゼンも聞いた上で、今のアントラーズのサッカーを理解しながらアップデートさせることに一番適応できると判断しました」

改革を推し進める中で、「残していかなければならない部分」とは?

クラブの功労者であるレオ・シルバや遠藤康、永木亮太、犬飼智也、白崎凌兵らの移籍を含めて、鈴木が言及した「変わらなければいけない部分」がこのオフに前面に押し出された。ならば「残していかなければいけない部分」は何なのか。

取締役フットボールダイレクターとして、鈴木はジーコに来シーズンのテクニカルディレクターとしての契約を更新しないと告げた。日本とブラジルとで離れ離れの関係になるが、黎明期に伝授された「ジーコスピリット」は普遍的だと鈴木は言う。

「チームの結束力と一体感、そして勝利へのこだわりをコンセプトとしてやってきた。一体感をどうやってつくっていくのか、というノウハウはいろいろあるんですけど」

結束力と一体感を高めるキーワードはクラブへの帰属意識であり、帰属意識の最大のベースになるのが「選手たちを大切にすること」だと鈴木は力を込める。

「一般の社会よりも競争が激しい世界で『ちゃんと評価されていない』と思う選手が多ければ、当然ながら結束力や一体感は出てこないし、組織が持つポテンシャルも発揮できない。なので、まずはしっかり現場を見て、公平に評価することを常に意識していました。公平性を担保させるためには全員と同じように付き合わなければいけないから、選手と食事にも飲みにも行かない。そこはしっかりと線引きしてきました」

肩書きに「取締役」や「常務取締役」が加われば、必然的に現場へ足を運べない時間も増える。その場合には別のスタッフが必ず顔を出す。労力をかけて情報を共有し、チームとして常に選手たちを見ているというメッセージを発信してきた。

「チームを管理する上で、僕たちフロントはどのようなタイミングで選手たちと行動を共にして、どのような立場で何をしなければいけないのか、という基本的な部分をジーコから教えられました。強化の仕事はシーズンを戦うための陣容を整えたらそれで終わりではない、いかに集団を機能させるかが大事だとジーコからはよく言われました」

アマチュアからプロになった黎明期に、強化担当を含めたフロントにも容赦なく突きつけられたジーコの厳しい要求を、鈴木はこう振り返ったことがある。

新たなフットボールダイレクターの下で、どのように生まれ変わるのか

鹿島のアイデンティティーともいえる「ジーコスピリット」を、鈴木の立ち居振る舞いや言葉、そして文字を介して伝授されてきたのが、後任のフットボールダイレクターに就任するフットボールグループの吉岡宗重プロチームマネージャーとなる。

大分トリニータで強化担当や強化部長代理を務めていた吉岡は、強化担当者会議などで主義主張をしっかりと言葉にする姿や、他クラブとのネットワークのつくり方などを鈴木に評価され、いつかバトンを託す存在として2011年に鹿島へ移った。

「大分の社長へ直訴して来てもらってから、準備はしてきたつもりです。鹿島らしさというか鹿島のアイデンティティーをすごく理解しているし、年齢も43歳とまだ若く、新しいサッカーにも精通している。適任だと思っています」

歴史や伝統を大切にしながら、時代の流れに適応するための改革や変化も辞さない。常勝軍団の中でより強く脈打たれる、二律背反するイズムが奏でるバランスが、生き字引的な強化責任者の退任とともに生まれ変わる鹿島が躍進するかどうかのカギを握る。(文中敬称略)

<了>

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