79歳・八田忠朗が続けるレスリング指導と社会貢献「レスリングの基礎があれば、他の格闘技に転向しても強い」
長年にわたり日本とアメリカのレスリング界を橋渡しし続けてきた人物がいる。日本レスリング界の父と呼ばれる八田一朗を父に持つ八田忠朗だ。自身も今年で80歳を迎える年齢ながら、現在も現場で指導を行い、日本から渡米を目指す若き選手たちを積極的にサポートしている。“令和の鉄人”八田忠朗の持つ哲学の一端に触れることで、さまざまな物事の本質が見えてくる――。
(文・撮影=布施鋼治、取材協力・ C.A.C.C.スネークピットジャパン)
日本レスリング界の父・八田一朗さんの次男。その指導法は…
その指導はシンプルで具体的だった。
「相手がタックルに来たら、なぜ足を後ろに下げるかわかりますか? その場から足をなくすためです」
「タックルはまっすぐ入ったらダメ。何か一つフェイントを入れて入るようにしてください」
声を主は八田忠朗さん。
日本レスリング界の父・八田一朗さんの次男で、オクラホマ州立大学に在籍していた1965年にはNCAA(全米学生レスリング選手権大会)で優勝している。指導者としては1968年のメキシコ大会を皮切りにいくつものオリンピックに絡んでおり、日本、アメリカ、メキシコと3カ国のヘッドコーチやコーチングスタッフとして活躍。2021年の東京五輪ではアメリカ代表の通訳として活躍した。
ずっとアメリカを拠点に生活しているが、今春にはオハイオ州のクリーブランド市にあるセントイグナチオ高校ラクビー部が日本遠征をするということで帯同した。かつて八田さんはシカゴで扁長楕円体の球を追いかけたことがある。
高校のラクビーチームが帰国しても、八田さんは日本に居残り、東京・高円寺にあるC.A.C.Cスネークピットジャパンで恒例のレスリング教室を開催。同ジムでの八田教室は今回で通算7回目となり、新型コロナウイルスの感染拡大があってからは初めての開催だった。
“トリプルC”ヘンリー・セフードの強さの理由
レッスン内容の軸はフォークスタイル。
レスリングといえば、上半身も下半身も攻めることができるフリースタイルと、上半身だけの攻防に特化したグレコローマンスタイルに大別されるが、実はアメリカにはもう一つスタイルがある。それがフォークスタイルだ。
高校や大学で盛んに行われているスタイルで、カレッジスタイルとも呼ばれている。フリースタイルと非常に似ているが、グラウンドではフォールでなくても相手をコントロールできたらポイントになることが特徴だ。反対に相手のコントロールから逃げ、スタンドに戻れば逃げたほうも得点を得られる。
最近は海外でもフォークスタイルが注目を集めている。というのもMMA(総合格闘技)においてフォークスタイルのグラウンドコントロールは非常に有効で、アメリカでこのスタイルを経験した選手は大きなアドバンテージを得ているといわれているからだ。
この日はフォークスタイルと柔術やMMAとの差を論じながらの指導が目立った。
「今回一緒にいたラグビーのコーチに少しだけブラジリアン柔術をやっている人が二人いて、『日本の柔術道場で体験したい』というリクエストがあったので京都に滞在しているときに柔術の道場に行ったんですよ」
彼らが練習している姿を目の当たりにして、八田さんはレスリングと柔術の共通点と相違点を見出した。
「今日のレッスンでもやったように(相手の股間に)足を入れるなど、柔術でも同じようなことをしていた」
柔術とレスリングでは最終目的が違う。前者のそれは関節をとったり頸動脈を締めて1本を奪うことだが、レスリングのそれは相手の両肩をマットにつけるフォールだ。しかしながらゴールに至るまでの過程で八田さんは多くの共通項を見出した。
「レスリングで相手の腕の関節を逆にとったりしたら反則になるけど、それに至る過程では同じようなことをやっている」
二つの格闘技の共通点に注目した八田さんは、今回のレッスンで柔術との比較をクローズアップしながら手取り足取り指導した。
「実際にレスリングをやっていたアメリカの選手が柔術やMMAに行っても活躍している。レスリングの基礎があれば、他の格闘技に転向しても強い」
その指摘通り、アメリカではレスリングをベースに他の格闘技に転向して成功を収めるケースは多い。北京五輪のレスリング男子フリースタイル55kg級で金メダルを獲得したヘンリー・セフードはMMAに転向後、MMAの最高峰UFCで二階級制覇を成し遂げ、“トリプルC”(Cはチャンピオンの略)と呼ばれるようになった。
“令和の鉄人”の健康の秘訣は…
今回のレッスンで筆者が改めて感心したことがある。今年11月で80歳になるというのに、八田さんは声をかけるだけではなく、自ら率先して手取り足取り指導していたことだ。第三者が「ケガをしたら危ないのでやめてください」と制しなければならないような雰囲気は一切なく、自らの身体を使いこなして指導に励んでいた。
対戦相手とコンタクトすることが大前提の格闘技で、傘寿を目前に控えた現在でも最前線で指導するなんて……。世の中広しといえど、こんな指導者は八田さん以外いないのではないか――。筆者は“令和の鉄人”と命名したくなった。
新型コロナウィルスが感染拡大する前の来日時、八田さんに健康の秘訣を聞いたことがある。そのときは即座に「朝起きたら必ずコップ一杯の水を飲むこと」と答えていた。
朝一杯の水が健康にいいことは科学的に証明されている。寝ている間に汗として排出された水分を補うことができ、脳梗塞や心筋梗塞のリスクを軽減することができる。酒は若い頃に飲酒が原因で大失敗をやらかしたことが原因で、それ以降一滴も口にしていない。今回その件を確認すると、八田さんは頷きながら水を飲んだあとに行うもう一つの行為を教えてくれた。
「朝起きたらね、神様にありがとうと言うんですよ。『今日も起きられてありがとうございました。これから人のために頑張ります』と祈る」
「現在もアメリカに留学したい日本人はいっぱいいる」
社会のために頑張る。八田さんは自分のことよりもそういう意識のほうが強い。
「人にはやりたいこと、やるべきことがある。それはそれでいいけど、やるべきことは何なのか。自分の場合、それは人を助けることだと思う」
それは八田さんの父・一朗さんが生前やり続けてきたことでもある。
「スポーツを通して世界平和を願い、世界親善交流を図る。その意志を自分が継いだといったら語弊があるかもしれないけど、ウチの親父はそれを戦前からやっていました」
以前から八田さんはアメリカに留学したいという人のサポートを惜しまない。現在ノルウェーの女子ナショナルチームのヘッドコーチを務める米岡優利恵さんも八田さんの計らいでアメリカに留学し、レスリングとともに英語の腕を磨いた。八田さんは「現在もアメリカに留学したい日本人はいっぱいいる」と打ち明ける。
「元世界チャンピオンで、8月からミネソタ州のグレコローマンレスリングのクラブに行くことが決まっている人もいる。現在は高校生だけど、卒業後アメリカの大学に進学してレスリングを続けようという人もいます」
前述のセフードを輩出したレスリングクラブに八田さんが日本からの留学生の受け入れを打診したところ、こんな答えが戻ってきたという。
「アメリカに来たら、アメリカンスタイルのレスリングを習うべきだ。フォークスタイルのレスリングを身につけたら、自分と相手の身体をコントロールする術を身につけることができる」
ネットが発達した現在、どんな遠方に住んでいる人とも文字や声によるやりとりはできる。しかしながら現地に足を踏み入れないとわからないことも多々ある。
八田さんのレスリング教室と社会貢献はしばらく終わりそうにない。
<了>
「もう生きていてもしょうがない」。レスリング成國大志、世界一を決めた優勝後に流した涙の真意
「自信がないからこそ追い込める」“練習の虫”登坂絵莉が語った努力し続ける才能の育て方
レスリング界で疑惑の“ヌルヌル問題”。疑わしきは罰せず? 由々しき事態はなぜ横行するのか?
この記事をシェア
KEYWORD
#INTERVIEWRANKING
ランキング
LATEST
最新の記事
-
日本サッカーに「U-21リーグ」は必要なのか? 欧州の構造から考える19〜22歳の育成
2026.02.20Opinion -
フィジカルコーチからJリーガーへ。異色の経歴持つ23歳・岡﨑大志郎が証明する「夢の追い方」
2026.02.20Career -
「コーチも宗教も信じないお前は勝てない」指導者選びに失敗した陸上・横田真人が掲げる“非効率”な育成理念
2026.02.20Career -
ブッフォンが語る「ユーヴェ退団の真相」。CLラストマッチ後に下した“パルマ復帰”の決断
2026.02.20Career -
名守護神が悲憤に震えたCL一戦と代表戦。ブッフォンが胸中明かす、崩れ落ちた夜と譲れぬ矜持
2026.02.13Career -
WEリーグ5年目、チェア交代で何が変わった? 理事・山本英明が語る“大変革”の舞台裏
2026.02.13Business -
新潟レディースが広げた“女子サッカーの裾野”。年100回の地域活動、川澄奈穂美が呼び込んだ「応援の機運」
2026.02.12Business -
「自分がいると次が育たない」ラグビー日本代表戦士たちの引退の哲学。次世代のために退くという決断
2026.02.12Career -
女子サッカー日本人選手20人がプレーするWSL。林穂之香が語る進化と求められる役割
2026.02.10Career -
なぜ新潟は「女子部門の分社化」でWEリーグ参入に踏み切ったのか? レディースとプロリーグに感じた可能性
2026.02.10Business -
技術は教えるものではない。エコロジカル・アプローチが示す「試合で使えるスキル」の育て方
2026.02.09Training -
ユナイテッド、チェルシー、アーセナルを“刺した”一撃。林穂之香が宿す「劣勢で決め切る」メンタリティ
2026.02.09Career
RECOMMENDED
おすすめの記事
-
技術は教えるものではない。エコロジカル・アプローチが示す「試合で使えるスキル」の育て方
2026.02.09Training -
スタメン落ちから3カ月。鈴木唯人が強豪フライブルクで生き残る理由。ブンデスで証明した成長の正体
2026.01.05Training -
「木の影から見守る」距離感がちょうどいい。名良橋晃と澤村公康が語る、親のスタンスと“我慢の指導法”
2025.12.24Training -
「伸びる選手」と「伸び悩む選手」の違いとは? 名良橋晃×澤村公康、専門家が語る『代表まで行く選手』の共通点
2025.12.24Training -
サッカー選手が19〜21歳で身につけるべき能力とは? “人材の宝庫”英国で活躍する日本人アナリストの考察
2025.12.10Training -
なぜプレミアリーグは優秀な若手選手が育つ? エバートン分析官が語る、個別育成プラン「IDP」の本質
2025.12.10Training -
107年ぶり甲子園優勝を支えた「3本指」と「笑顔」。慶應義塾高校野球部、2つの成功の哲学
2025.11.17Training -
「やりたいサッカー」だけでは勝てない。ペップ、ビエルサ、コルベラン…欧州4カ国で学んだ白石尚久の指導哲学
2025.10.17Training -
何事も「やらせすぎ」は才能を潰す。ドイツ地域クラブが実践する“子供が主役”のサッカー育成
2025.10.16Training -
“伝える”から“引き出す”へ。女子バスケ界の牽引者・宮澤夕貴が実践する「コーチング型リーダーシップ」
2025.09.05Training -
若手台頭著しい埼玉西武ライオンズ。“考える選手”が飛躍する「獅考トレ×三軍実戦」の環境づくり
2025.08.22Training -
「誰もが同じ成長曲線を描けるわけじゃない」U-21欧州選手権が示す“仕上げの育成”期の真実とは?
2025.07.14Training
