「自信がないからこそ追い込める」“練習の虫”登坂絵莉が語った努力し続ける才能の育て方

未分類
2021.02.03

リオデジャネイロオリンピックで金メダルを獲得したのは22歳のとき。9歳から始めたレスリングは、遊びから部活、やがて自分のすべてになっていった。世界一を目指し切磋琢磨する同僚からも畏敬の念を込めて“練習の虫”と評される登坂絵莉の「努力する才能」の原点を聞いた。

(インタビュー・構成=大塚一樹[REAL SPORTS編集部]、写真=Getty Images

「勝ちたいなら誰よりも練習を」天性の負けず嫌いと父の教え

優れたアスリートの多くは、天から授けられた才能とその才能を磨く「努力する才能」を持っている。リオ五輪48kg級金メダリストの登坂絵莉は、各階級に世界レベルの強豪がひしめく日本女子レスリング界でも圧倒的な練習量を誇り、複数の同僚が驚くほどのハードワークをこなしてきた。登坂はなぜ人一倍努力をするようになったのか?

――メダリスト、世界王者経験者、複数の選手たちが登坂選手を“練習の虫”と評しているのを聞いたことがあります。自分が周囲より練習しているなぁという自覚はありますか?

登坂:そうですね。実際そうなっているかどうかは別にして、誰よりも練習するという意識はしています。

――「誰よりも練習をしよう」と考えるようになったのはいつ頃から?

登坂:小学校ぐらいの時からですからレスリングを始めた頃からそうだったのかもしれません。いま思い返すと、父にずっと「勝ちたいならやればいいし、負けてもいいんだったらやらなくてもいいよ」と言われていたことが大きいかもしれません。レスリングを続けて行く中で「勝ちたいなら誰よりも練習しなきゃいけないよ」とも言われて、それが今でも意識としてあるのかなと思います。

――子どもの頃って、父親とはいえ、人に言われて続けるのはなかなか難しいことだと思いますが、レスリングを続ける、勝ちたいという気持ちが登坂さんの中にあった?

登坂:自分の中でも「勝ちたい!」という気持ちが一番でした。生まれた時から負けず嫌いだったのかもしれないです。小さい時に悔しかったこととかよく覚えていて、生まれて2カ月で保育園に入ったんですけど、保育園で自分よりも走るのが速い子がいて、その子に絶対勝ちたくて、走る練習をしたこととか、運動会で私がアンカーの予定だったんですけど、その子のほうが速いからって直前で替えられて、めっちゃ悔しかった思い出とか今でも鮮明に覚えています。

なので、何かきっかけがあって負けず嫌いになったというよりは、多分生まれた時からそういう人間だったのかなと思います(笑)。

――軽量級とはいえ、身長152㎝の登坂選手は体格的な不利がある状況で世界と戦ってきたと思います。子どもの頃はどうだったんですか? 

登坂:一番小さくはなかったですけど、2番目くらいには小さかったですね。でも、運動に関しては身長の不利はあまり感じませんでした。運動は割と何でも得意で、小学生の時は学校から帰ると1人でずっとリフティングをやっているくらいサッカーが好きでした。その当時はまだ周りに女の子がサッカーをやる環境がなくて、女の子はチームに入れないと言われて諦めた覚えがあります。

「練習で200%出す」吉田沙保里から学んだこと

――レスリングを始めた時の練習環境はどうだったんですか?

登坂:小学校の時は週に3回、地元にある道場に通っていました。勝つためのレスリングというよりは、楽しくできるチームで、たまに県内の別のチームに練習しに行ったり、隣の石川県の金沢に練習しに行ったりというのはありましたが、最初のうちはあまり自主練習もやっていなかったですね。

――練習量が増えたのはいつ頃から?

登坂:小学校高学年ぐらいからは、毎週のように県外まで遠征に行くようになっていたかもしれません。中学校に入る頃には、「やっぱり勝つためにはもっと練習量を増やさなきゃいけない」と思って、毎日練習をやっているチームを選びました。

――登坂選手といえば吉田沙保里さんへの憧れ、師弟関係も有名です。吉田さんと初めて会ったのもその頃ですか?

登坂:小学校6年生の時、アテネ五輪の直前合宿ですね。合宿地が富山だったので沙保里さんを見に行きました。かっこいいなあと思いましたね。背中がすごいでかかったという衝撃がありました。

――中学校に入って本格的にレスリングに没頭するきっかけになったのは想像に難くないのですが、その後の練習にも吉田さんの影響があったりしますか?

登坂:沙保里さんは、練習で200%出せる人なんです。そこはすごく学んだというか、これだけ出すんだと驚きました。一本のスパーリングを終わったらぶっ倒れるぐらいにやり切るんですよね。私はそこまで出し切らずに、70〜80%で長くやる練習の仕方だったので、沙保里さんのその練習の仕方は、すごく勉強になりました。

――日本的な根性論で長くやるよりも、短く強度を上げてトレーニングして、休養もしっかり取ったほうがいいという科学的なトレーニング論もずいぶん定着してきています。

登坂:そうですね……。ただ、私は年代によって変わってくるのかもしれないなと思います。毎日2時間練習していると、2時間すら集中できなくなってきたりします。普段3時間やっていて、今日2時間と言われたらすごく集中して練習ができる。私もダラダラ長くやるのは無駄だと思います。でも、ある程度の質を求めると時間も必要になってきます。そこは年齢的な部分といろいろな状況によって変えていくべきなのかなと思います。

私も根性論でやってきた人間だからこそ、一概に科学的なものだけがいいとは思っていないのも素直なところかもしれないです。特に格闘技は、やっぱり気持ちの部分がすごく重要なので、どっちも必要なのかなと思っています。

入学3日で「ああ、無理だな」強豪・至学館の洗礼

――高校は強豪の至学館へ。周りはレスリングのエリートばかりという環境は当時の登坂さんにとってどう映ったのでしょう?

登坂:正直びっくりしましたね。一応全中(全国中学生選手権)で優勝して、最優秀選手賞も取って、自分の中では「オリンピックに行く!」と意気込んで入ったんですけど、いざ入ってみると、至学館では一番弱いし、練習にもついていけないし……。すごい現実を突きつけられたというか「ああ、無理だな」って。もう入って3日くらいで諦めていました(笑)。

――そんなに違ったんですね。一番違いを感じたのは?

登坂:いやもう、とにかく「強い」ですね。至学館では、体力トレーニングもすごくやるので、力もありますし、中学を卒業したばかりで、体も細い私が通用するような場所ではなかったです。監督、コーチはまったく声もかけてくれないし、最初はもうとにかく相手にされないというか。常に先輩の練習相手のためだけにいるという感じでした。

――高校の練習は厳しかったですか?

登坂:厳しかったですね。大学よりも厳しかったです。朝5時半から朝練がスタートして、1時間ちょっと練習して、シャワーを浴びて、ご飯を食べて、自転車で駅まで行って、学校行って、授業を受けて。で、また学校が終わったら走って駅まで行って、電車乗って、戻ってすぐ練習みたいな生活でした。もう毎日が本当につらかったです。

――休みたいと思ったことは?

登坂:ありましたね。でもサボったりは絶対できないです。絶対できないですけど、高校と練習場所、寮がある大学とは電車で1時間くらいかかるんです。電車がけっこう満員なので、学校からの帰りにみんなで、「あれ、これ乗れないね」とか言って、わざと1本見逃したりしていました(笑)。

――登坂さんにとっては最初の挫折ですよね。そこで競技をやめてしまう人もたくさんいると思いますが、やめなかった理由は?

登坂:内心では続けるのは無理だなと思っていました。来たからには3年間、高校を卒業するまではやり続けないといけないと思ったので、高校3年間頑張ってやめようと思っていたというのはあります。

――思春期になれば友達と遊びたいなど、いろいろ誘惑もあったと思うのですが。

登坂:もう一回別の人生を歩めるなら、この人生は歩まないなという思いはあります(笑)。でも、友達と遊びたいという思いよりも、レスリングが第一だと思い続けて、もうやるからにはそこでやるというふうに決めていたので、あまりブレることはなかったですね。

「自信がない。負けるのが怖い。戦うのが怖い」だから練習する

――目標が明確じゃないと厳しいトレーニングを続けるのも難しいのかなと思うのですが、当時からオリンピックは現実的な目標だったんですか?

登坂:高校の間は正直無理だなと思っていました。だけど、親元を離れて高校に来ているので、親は当然、私が頑張っていると思っているじゃないですか。それなのに頑張っていないのが嫌だなと思って、結果を残せなくても少しでも成長した姿を見せる3年間にしようと思ってやっていました。

――オリンピックが目標として見えてきたのはいつぐらいからですか?

登坂:明確に「絶対行く!」と思ったのは、大学1年生でした。その時に初めて世界選手権に行って、そう感じました。

――2012年の世界選手権ですね。具体的にどこで「無理」から「行けるぞ」に変わったんですか?

登坂:世界選手権に出場した時も一番手はロンドン五輪で金メダルを取った小原日登美さんで、二番手は入江(ゆき)さん。私は三番手くらいだったんです。代表選手を決める全日本選手権でも小原さんも入江さんも棄権したから私が優勝したみたいな感じで、周りも自分も「1回戦勝てればいいよ」くらいの気持ちでいたんです。組み合わせがよかったこともあって決勝までいって、決勝は最後ぎりぎりの差で逆転負けしたんですけど……。

――二度判定が覆った疑惑の判定の時ですね。

登坂:そうですね。その時に、「あ、こんなもんなんだ?」と思ったというか。世界ってこんな感じなんだ、意外と近いなと感じました。今まで見えなかったものが、一気にピントが合って射程圏内に入った感覚がすごくありました。今までの取り組みでここまでこれたなら、もっと死に物狂いでやったら絶対にチャンピオンになれるなと感じたのが、その世界選手権でした。周りの先輩たちがあまりに強過ぎて、自分の成長を確かめられなかったんですけど、気づいたら意外と近くにありましたね、世界が。

――そこからさらに努力するようになった?

登坂:もう本当に変わりました。それまでも頑張っていないことはないですけど、毎日の練習をただただこなしていたという感じだったんです。そこからは、次の年に絶対世界チャンピオンになるんだと思って本当に練習しました。朝練習と午後練習の間も練習して、午後練習が終わっても門限ギリギリまで練習して、オフの日も練習して。とにかくレスリング漬けの生活をしました。

――その熱量と練習量がリオ五輪まで持続した?

登坂:そうですね。ずっと。全体練習が終わってからは、筋力トレーニングが中心ですね。ロープをひたすら登ったり、あとは選手全員が帰るまで帰らないで最後まで見てくれるコーチがいたので、毎日自然と最後は2人が残るという感じでした。とにかく練習をやるという感じですね。

――リオ五輪では見事金メダルに輝いたわけですが、猛練習が「これだけ練習してきたのだから勝てる」という自信につながった?

登坂:戦う前は自信はなくて……。いつも私は自信がないんです。負けるのが怖いし、戦うのが怖いんですけど、だからこそあれだけ練習ができたんだと思います。後から振り返れば、接戦で勝ち切れたのは、それだけ練習をしてきたからだとは思います。

東京五輪出場を逃した後の葛藤と「次」のキャリア

――残念ながら東京五輪の出場権は逃し、今後の競技への取り組みを考えた時期もあったと思います。今後、遠い未来のキャリアも含めて、どういうふうな展望を考えられていますか?

登坂:そうですね……。今後については、私の中でもまだいろいろな迷いや葛藤があって、はっきりとお答えはできないんですけど、将来的にはもっとレスリングが気軽に始められるスポーツになってほしいという思いは強くあるので、そういった点に貢献できる活動もやりたいなというふうには、ぼんやり考えています。

――ケガ明け、コロナ禍という状況ではありますが、練習は続けているんですか?

登坂:今はあまりレスリングの練習はやっていないです。トレーニングと、ケガの治療、リハビリを続けているという感じです。たまにレスリングの練習も入れてはやっているんですけど。

――最後に“練習の虫”と呼ばれていた自分に戻る、再び過酷な練習をするモチベーションはありますか?

登坂:今はまだ目標がはっきりしていない状況ではあるんですけど、多くのケガを経験して、「人よりやればいい」という考えもどうなのかなとは思うようになりました。これまではストレッチをするとか、体のケアについては何も考えずに、本当に誰よりも練習して、終わった瞬間、シューズを脱いで帰るという生活をずっとしていたんですけど、年齢とともに練習方法も変えていく必要があるのかなと思い始めてはいますね。

ただ、練習に対するモチベーションは、目標さえしっかり自分の中で確立して、「もう一回」と腹をくくることができれば、全然ずっと持っていられるものだと思っています。

<了>

新婚なのに一緒に住めない。登坂絵莉、コロナ禍が「自分ごと」になった看護師の親友の経験

「いつもやめたかったし、いつも逃げ出したかった」登坂絵莉、悩まされ続けた苦難を告白

「人はいつか負ける時がくる」レスリング登坂絵莉、五輪への道断たれても変わらぬ本質とは

[アスリート収入ランキング]トップは驚きの137億円! 日本人唯一のランクインは?

「世界一美しい空手の形」宇佐美里香 万人を魅了する“究極の美”の原動力となった負けじ魂

「根性って何だろう?」空手家・月井隼南が後悔する、ケガにつながる行き過ぎた根性論とは

PROFILE
登坂絵莉(とうさか・えり)
1993年8月30日生まれ、富山県出身。小学3年生からレスリングを始め、中学時代に全国中学生選手権で優勝。至学館高校、至学館大学時代にも数々の大会で優勝を果たし、大学卒業後は東新住建に入社。2013~2015年世界選手権48kg級3連覇、2016年リオデジャネイロ五輪同級で金メダルを獲得。

この記事をシェア

KEYWORD

#INTERVIEW

LATEST

最新の記事

RECOMMENDED

おすすめの記事