なぜ日本のスポーツ報道は「間違う」のか? 応援報道と忖度、自主規制。

Business
2019.06.10

ジャーナリズムの世界では、フェイクニュースやポリティカルコレクトネスが話題だが、スポーツをめぐる報道も大きな転換点に立っている。インターネットの普及、SNSで個人が発信できる時代を迎え、スポーツ報道、メディアはどうあるべきなのか?

作家・スポーツライターの小林信也氏は、自らもメディアの内部にいる人間として自戒しつつ、日本のスポーツ報道の問題点とその背景を指摘する。

(文=小林信也、写真=Getty Images)

日本のスポーツ報道の定番『応援報道』の弊害

日本のスポーツ報道は、基本的に“応援”で成り立っている。

サッカーのワールドカップでもオリンピックでも、メディアは「ガンバレニッポン」一色に染まり、普段は中立や両論併記を重視する大手メディアも、日本びいきに終始する。

政治や経済、社会といった他分野のジャーナリズムが正しく機能しているかどうかは別に議論する必要があるが、スポーツ報道は応援が基本で、情報の受け手もそれにあまり違和感を覚えない特徴がある。

1936年のベルリンオリンピック、女子水泳200m平泳ぎ決勝を実況した河西三省アナウンサーが「前畑ガンバレ!」を20回も連呼し、ラジオにかじりついた日本人を熱狂させた。その系譜は、以降のスポーツ報道の基本になったといっても過言ではなく、日本の応援団長・松岡修造さんやサッカーの応援解説・松木安太郎さんに引き継がれている。

こうした“応援報道”には、「みんなで応援をする」という特定の見方を提供し、スポーツイベントやその競技が「盛り上がっている」という空気を醸成するのに一役買う一方で、ひいきの引き倒し、盲目的な賛美と肯定が過ぎてしまう問題をはらんでいる。

メディア側は常に報道の中心となるスター選手や有名監督と親しい関係を維持するために、本来はすべき指摘や質問があっても忖度と自主規制で批判を避ける。勝利や優勝、記録が評価されるのは当然のことだが、単純な勝利者礼賛、勝利至上主義は、結果が出ている相手に対しておもねることにつながり、この弊害を助長する。

昨年、世間を騒がせた日大アメフト危険タックル問題では、内田正人前監督が「諸悪の根源」として大きな批判を受けた。しかし、悪質タックルが起きた直後の囲み取材の音声テープでは、内田前監督が、馴染みの記者たちに自慢げにパワハラ的コメントを披瀝する音声が記録されていた。コメントの内容もさることながら、和やかな雰囲気で会話を進め、批判的な問いかけをしないどころか、真意を問うことすら一切しないのは、悪しきメディアと有名監督の関係が象徴的に表れているのではないか。

タックル問題が表沙汰になる以前の内田前監督は低迷していた古豪・日大フェニックスを優勝に導いた名将として賞賛されていた。囲み取材の時点ではアメフト界の重鎮に忖度する立場を取るのが自然だったということだろう。

「報道」と「ビジネス」の関係性がいびつなまま始まった日本のスポーツ報道

もう一つ指摘するなら、日本のスポーツ報道は、常に「商売」と結びつくことで成立してきた点も無視できない。スポーツは、草創期から新聞社が事業として手がけてきた歴史がある。

東京朝日新聞は、1911(明治44)年に『野球と其害毒』と題して計22回も連載した。学生野球の人気が過熱し、学生でありながら派手な接待漬けが常態化し、味を占めた選手がわざと留年するなどの事態にメスを入れる問題提起だった。いま読んでも真っ当な提言が多かった。ところがその4年後、大阪朝日新聞が全国中等学校野球大会(現在の全国高等学校野球選手権大会)を実施する。「害毒論」は影をひそめ、「高校野球礼賛」が始まった。

ライバルの毎日新聞は1924年に第1回選抜中等学校野球大会を実施。以来、いまも夏は朝日新聞、春は毎日新聞が主催している。教育を謳いながら、高校野球は新聞社にとっては立派な「事業」そのものである。

新聞の部数拡大にスポーツ事業を展開することを真っ向から否定するものではない。が、広報宣伝のため、大会や高校野球の問題点に目を背け、礼賛ばかりに終始するのは報道機関として残念だ。

朝日新聞も毎日新聞も書こうとしない高校野球の問題が山ほどあることは、すでに多くの人が知るところだろう。多くの問題点は別の原稿で指摘しているのでここでは詳細を省くが、メディアはなぜ、「甲子園の不思議」「高校野球への疑問」を問わないのか? 取材で生じた素朴な疑問を問わない、問えない空気がある時点で、メディアとしての使命を放棄しているか、意識が低いといわれても仕方がない。

「配慮」や「忖度」が議論の機会を奪っている

配慮や忖度によって本来あるべき議論がなされないケースはほかにもある。卓球の水谷隼選手が「実はボールが見えにくくなっている」と、衝撃的な告白をした。

彼の発言や状況を分析すると、視力回復のために受けたレーシックの副作用ではないかとの心配が浮かぶ。断定はできないが、旧知のビジョントレーナーに取材しても「その可能性は否定できない。光って見えるのはレーシックを受けた人にありがちな症状だ」という。

最近は、レーシックを受けるスポーツ選手が少なくない。野球、サッカー、ゴルフなど、世界的なスター選手が何人も受けている。その広報効果で、十代の選手たちにもレーシックを勧める空気が強い。角膜を削り取るレーシックは一度受けたら元に戻すことのできない「不可逆」な治療法だ。もしレーシックに知られざる副作用や弊害があるならば、一切検証しない空気は問題ではないか一刻も早く警鐘を鳴らす必要がある。

ところが、水谷選手自身が、「会場の照明が問題であって、レーシックは関係ない」と語ったこともあり、レーシックの問題を語れない状況が作られた。私自身、あるネットメディアに原稿を書こうとしたが、編集部からやんわり拒絶された。忖度とは思いたくないが、多くのメディアの広告ページには「手軽に行える視力矯正治療」としてレーシックが紹介されている。

“応援報道”も一つの形であることは否定しないし、メディアがビジネスとして成立するために“商売”も必要なことは百も承知だが、応援に集中することで問題から目を背け、自らタブーをつくってしまう報道の在り方は、スポーツ界にとってもメディアにとっても何らプラスにならない。

スポーツは、間違った取り組み方をすれば、子どもたち、若者たち、そして大人たちの心身に深刻な傷をもたらす。メディアがその責任感を忘れて、いたずらに煽ってしまえば、被害が増え続ける。そこを認識する必要がある。

私自身、この問題をどう提言しても、本質的な解決まで導けない無力を恥じるばかりだが、日本のスポーツ報道が大きく変わるべき時機が来ているのは間違いないだろう。

<了>

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