最大の不安は「引退後の仕事」。大学生になった金メダリスト髙木菜那がリスキリングで描く「まだ見えない」夢の先
「リスキル」という言葉を昨今スポーツ界でもよく耳にするようになってきた。「リスキリング」とも呼ばれ、キャリア課程での学び直し、新しい技術の習得を意味する。現役時代と引退後という二つの人生を歩むアスリートにとって、セカンドキャリアを考えるにあたってリスキリングは必要不可欠なものとなる。元スピードスケート選手でオリンピック金メダリストの髙木菜那が語る、アスリートにとってのリスキリングの重要性とは?
(文=守本和宏、写真=森田直樹/アフロスポーツ)
1大会2個の金メダルを獲得した選手でも将来に不安を抱える現実
実は、全アスリートにとって、「リスキリング」は必要な過程なのだと思う。引退後、一流選手なら解説者に、現場に残るなら指導者へ。企業所属なら広報や人事などにまわる。いずれも、話す技術、コーチング技術は必要であり、広報のためのリリース校正方法など学ぶ機会さえあまりない。「リスキリング=学び直し」は、よく考えるとすべてのアスリートにとって必須イベントなのだ。
それは、オリンピック金メダリストでも変わらない。
スピードスケートの髙木菜那は、2018平昌五輪で女子団体パシュート、マススタートの2つの金メダルを獲得。日本史上初となる、女子選手1大会2個の金獲得を成し遂げた。だが、2022年の引退後、将来に不安を抱えたという。
「平昌五輪が終わってから、仕事をやるなら何かなと漠然と考えはしました。でも、北京(2022年)を目指すと決めて、一度その意識は遠のいた。そして、北京後に引退しますってなった時、考えられたのは、たった2つだけ。まず東京に住む。あとはマネージャーをつける。それだけでした。一番感じたのは、セカンドキャリアを考えるにあたって、まず何をしたらいいのかわからないこと。そこが大きかったですね」
それから2年。今はテレビCM、BS番組出演。講演会・イベントでのゲスト登壇など、自分なりに道を切り開いている。一方で大学院にも通い、スポーツ・メンタルヘルス系の勉強に励むなど、「学び直し」のさなかにいる。
「男性アスリートで引退後に成功してる人はたくさんいますが、女性は男性より少ないと思う。それも踏まえて、自分がやりたいこと、プラス人のためになることをこれからやっていきたい。今は知識がなく、それが何なのかまだ模索中ですが、頑張っていきたいです」
そう語る彼女に、アスリートにとってリスキリングがなぜ重要かを聞いた。
「最初から『お疲れ様です』じゃいけないのも知らなかった」
現役アスリートにとって何が不安か。アンケート(※)をとったところ、「引退後の仕事」という回答が69%で最も高かったそうだ。女性なら72%と、さらに数値は上がる。
その背景もあって、世界的コンサルティング会社「アクセンチュア株式会社」と、高校生や大学生など現役アスリートなどにキャリア教育を行うNPO法人「Shape the Dream」が協業し、アスリートとその関係者向けにセカンドキャリアの道すじを立てるイベントを行った。タイトルは「リスキリング&ネクストキャリアfor Athlete」。そこに特別アンバサダーとして、髙木菜那は参加した。
イベントはスキル診断から始まり、診断に基づいたセカンドキャリアを生成AIに相談するなど、「テクノロジーと人間の創意工夫でまだ見ぬ未来を創造する」ことをパーパスとして掲げるアクセンチュアの理念に基づいた内容だ。自分の特性に応じて10~15個の職業を推薦するなど、なかなかに未来的な取り組みでもある。
アンバサダーの髙木はリスキリングの重要性について、熱を込めて語る。
「私も、引退して仕事しますってなった時に、誰かと連絡を取るにもメールの仕方がわからない。『お世話になっております』とか、下につける署名も様々。最初から『お疲れ様です』だと、いけないことも知らない。そういう人、やっぱり多いんですよね。名刺交換とか、基本を知る必要がある。ただ、それは引退してからでもできること。パワーポイント、エクセルの使い方も、引退後に学べばできる。であれば、現役時代から自分を深掘りしたり、固定概念を変えたりできれば、可能性もより広がると思うんです」
現役時代から引退後にかけて、自分がどんな技術を学び働いていくか、考える機会を持ってほしい。それを伝えたいというのが、彼女の意図だ。ただ、一流を極めたアスリートだからこその葛藤、セカンドキャリアに踏み出しにくい理由を、彼女はわかりやすい言葉で話してくれた。
(※)NPO法人Shape the Dreamが独自に40競技、男女大学生アスリート1200人に調査した結果
知識のなさを痛感。「このまま生きていけるとも思っていない」
――アスリートにとって、なぜリスキリングが必要か。その重要性をどう考えていますか?
「引退してから学び直しても、遅くはないと思うんですよね。例えば、私はまだオリンピックでの金があったから、メディアなどからお仕事をいただけている。その中で学習していけばいい。でも、本当の軸の仕事は定まっていなくて、このまま生きていけるとも思っていないんです。だから、『知識のなさ』を痛感したんです。
社会を知らない、日本を知らない、世界を知らない。スケートの世界でずっと生きてきたけど、外の世界の多くの人がどんな働きをして、どんな人がトップにいるのか、知らないことが多すぎた。先に知っておけば現役時代に生かせたこと、スケートに生かせたこともあったと思う。いろんな人とつながりも築けたはず。そういったことをカバーするための、リスキリングでもあると思っています」
――自分がもっと早く外の世界を知っていれば、競技に生かせたかもしれない、と。
「リスキルとかセカンドキャリアっていうと、アスリートは一歩下がってしまうところがある。でも、自分が競技で結果を出すためにも生きて、それがセカンドキャリアにもつながるなら、私はすごく興味があるし、やってみたい。アスリート時代からそういう視点を持てれば、よりいいなと思ったのが、今回のイベントを行うきっかけになりました」
――強かったアスリートほど、セカンドキャリアに苦戦する場合もあります。やはり、目標設定は難しいものですか?
「アスリートの良いところでもあり、デメリットでもあるのは、自分の命を懸けてスポーツをやってきたからこそ、セカンドキャリアでも同じぐらい頑張れるものを探してしまうんです。でも、そうは見つからない。すると、『手を出すのやめよう』と考えてしまう。色々やってみようと思う人はまず実行するけど、悩む人はそこだと思う。
例えばヘアメイクに興味はあるけど、プロになるなら美容学校に行くか選択して、その後師匠のもとで3~4年修行して……とか考えると、『いや、ないな』ってなる。周りからは『やりたいな』で踏み出せばいいと言われるけど、それができないのがデメリットだと思います」
――結果を残したからこそピボット(方向転換)するのが難しい。いわゆるプライドが邪魔する、新しいことに挑戦するのが怖い、みたいな心情もありますか?
「あります、あります。自分もそれは、まだ乗り越えられていない。まだまだ、一歩も踏み出せていないものがたくさんあります。でも、踏み出さないと見つからないことも、たくさんあると思う。だから、踏み出せるものは踏み出していこうかなって思ってます」
アスリートはもっと外の人と出会ってほしい
大学生になった金メダリストには、新しい発見もあった。
「大学に行った理由は、いろいろな人とつながれるし、新しい出会いがあるからいいよって。スポーツ界には大学教授とか、いろんな分野の専門家がいるから、つながっておくと仕事が増えるかもしれない。そう、教えてくださった方がいたからです。実際に行ってみると、競技でやってきたことが、研究ではそう論じられてるんだと思ったこともある。それを講演で話したり、心と体の健康の話に混ぜたり、活用はさまざまなシーンでできると考えています。今はいろいろな可能性を広げているところですね」
自分がそうだったように狭い世界にとどまらず、アスリートには外での出会いを大切にしてほしい。明確に未来が見えなくても、まず突き進めば視野は広がっていくはずだと、髙木は考えている。
「特にアスリートにはもっともっと外の人と出会ってほしいのも一つですね。私は何人か助けてくれる人たちがいたから、本当にありがたかった。出会いって自分で動かないとできないし、動けない人は本当にどんどんなくなっていくものでもある。だから、世界を広げてほしい気持ちがあります。割と外にはアスリートを歓迎してくれる人も多いので、その機会を作ってあげたいなと、今は思っています」
現役時代に叶えた、金メダルの夢。しかし、その先にも必ず人生はある。今、髙木は夢の先の人生を、手探りながらも生きようとしている。
<了>
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