非エリート街道から世界トップ100へ。18年のプロテニス選手生活に終止符、伊藤竜馬が刻んだ開拓者魂
シングルス世界ランキング最高位で60位の実績を持つプロテニスプレーヤーの伊藤竜馬が、10月に惜しまれながら現役を引退した。錦織圭、西岡良仁、ダニエル太郎らとは異なる非エリート街道を歩み、数々の名勝負を演じてきた伊藤のテニスの原点とは? 多くの選手仲間から慕われ、独自のルートで世界への道を切り開いた名プレーヤーの過去・現在・未来を紐解く。
(文=内田暁、写真=アフロスポーツ)
異色のキャリアを辿ってプロへ。なぜ世界と戦えたのか?
今年10月、プロテニスプレーヤーの伊藤竜馬が、全日本テニス選手権ベスト4の戦績を最後に、18年のプロキャリアに幕を引いた。
シングルス最高位は、世界の60位。23歳だった2012年に初めてトップ100の壁を突破すると、以降はグランドスラムの常連となった。人柄を映すような実直な攻撃テニスが持ち味で、特に“ドラゴンショット”と呼ばれたフォアの豪打は、当たればいかなる壁も撃破できる最大の武器。現にジャパンオープンでは、当時世界12位のニコラス・アルマグロや4位のスタン・ワウリンカを破るなど、数々の忘れがたい名勝負を演じてみせた。
現在の男子テニスのATPランキング単トップ100には、日本からは西岡良仁とダニエル太郎の2人が名を連ねている。長く戦線離脱し一時はランキング外となった錦織圭も、今季終盤に白星を連ねて105位まで急上昇。100位内返り咲きは時間の問題だろう。
これら3選手に共通するのは、いずれも海外生活やテニス留学の経験があり、世界トップクラスの選手たちと日常的に接してきた点だ。少年時代からプロとも頻繁に練習を重ね、グランドスラムやツアーをも特別な場所とは思わない。そのような環境が高い目的意識を植え付けたのは間違いなく、錦織や西岡らは後進に向けて常々、若いうちから海外経験を積むことの重要性を説いてきた。
ただ伊藤が歩んできた道は、そのようなエリート街道とは大きく異なる。そもそもテニスを始めたのは9歳と、他のトッププロに比べれば相当に遅め。しかも12歳の時に肘を痛めてメスを入れ、医師には「腕を使う競技は難しいだろう」とまで宣告された。
今と10年以上前を比べる時、時代の違いを考慮する必要はあるだろう。ただ、ジュニア期に世界で活躍した日本の若手たちもトップ100入りに苦しんでいる現状を思えば、伊藤の残した実績は刮目に値する。前述の西岡も、伊藤と同期で最高36位に至った杉田祐一にも触れて、「杉田さんや伊藤さんが、海外留学の経験もない中であそこまでいった事実に、もっと注目すべき」と、熱っぽく口にした。
「日本の中でも地方から出てきた彼らが、なぜ世界で戦えるようになったのか? どのような道をたどり、何をして、なぜ強くなれたという情報やデータは、しっかり後世にも残していかなくてはいけない」 そんな西岡の訴えは、あまりに正鵠を射ている。その命題への解を見つける小さな一歩として、伊藤の歩みを振り返ってみたい。
“争いごとが大嫌い”な末っ子の原点
伊藤竜馬が生まれ育った地は、三重県のいなべ市。もっとも今は“市”ではあるが、伊藤が子どもの頃は“員弁郡北勢町”。この人口1万5000人に満たない穏やかな地方都市で、教員の父親と、裁縫教室を開く母の間に第3子として誕生した。上は姉が2人。“竜馬”の名は、父が敬愛する坂本龍馬にあやかり命名された。ただ読み方が「タツマ」なのは、伊藤曰く、「父の友人にも坂本龍馬好きがいて、『先に息子が生まれた方が龍馬と命名できる』と決めていた。自分の方が後に生まれたため、竜馬(タツマ)になった」とのこと。
「歳が離れた姉がいるのも坂本龍馬との共通点だし、辰年生まれだし」と伊藤は言うが、「でも父も、自分の息子に“龍馬”とつけるのは恐れ多いと思ったのかも!」と、顔をクシャっとゆがめて笑う。この、豪快さと謙虚さをブレンドした笑顔にも、伊藤の人となりが映し出されるようだ。
子どもの頃は、体格に恵まれていたこともあり柔道を習った。寝る時も道着を着るほどに好きだったが、あまり勝てなかったという。
「投げられないんですよ、あの子。組み手をしていても、自分の方が力はあるのに、小さい子を投げられない」
御両親から伺ったこの思い出話も、伊藤の性格を端的に物語るエピソード。争いごとは大嫌いで、2人の姉が言い争いなどをしていると、「けんかしちゃダメ!」と泣きながら止めに入ったという。
その姉たちがテニスに打ち込んでいたため、幼い頃からテニスは身近な存在ではあった。伊藤家は祖父母も共に暮らす、大家族。テレビは居間に1つで、チャンネル決定権は年功序列が暗黙のルールである。ウインブルドンなどの時期になるとテレビに映るのは、父と姉たちが好きなテニスになるのは必然だった。シュテフィ・グラフが大好きな姉と並んでテレビ観戦をする末っ子は、強烈なバックハンドでテニス界に革新をもたらした、アンドレ・アガシに魅了されたという。
テニスを始めるようになったのも、やはり姉を介して。姉が通うテニススクールの体験会に参加し、ボールを打つ快感のとりこになった。
「コートの後ろのフェンスに届くくらい、思いっきり打っていた。全力で打って、どれだけボールを遠くに飛ばせる競技かと勘違いしていたんだと思います」
そう笑って振り返る9歳の日の興奮こそが、伊藤竜馬のテニスの原点だ。
部活動で磨いたハングリー精神。プロ転向後に開けた新たな領域
テニスとの出会いは遅く、前述した肘のケガによる離脱すらありながらも、伊藤は小学・中学時代に全国大会で上位進出。その実績が買われ、高校は大阪の長尾谷高校に進学した。後に強豪校として知られる同校だが、伊藤が新設テニス部の一期生。創設当初から全国トップを目指すテニス部の指導法は、控え目に言って「スパルタ」だったという。
高校3年にあがる年の3月に、伊藤は全国選抜大会の個人戦で、ついに全国優勝を果たした。この大会の優勝者には、同年8月にニューヨークで開催される、全米オープンジュニア予選のワイルドカードが与えられる。そのチャンスを生かした伊藤は、予選を突破し本戦出場。ジュニアの国際大会出場機会のなかったこの時、彼は国際テニス連盟(ITF)の講習を受ける必要があった。何もかもが初めての経験で、英語も当時は話せない。そんな彼を助けてくれたのが、1歳年少の錦織圭だったという。
そんな初々しいエピソードに象徴されるように、高校時代の伊藤の主戦場は部活動であり、彼の知る世界も日本のごく狭いエリアに限られた。高校を卒業しプロ転向した当初も、リーチできるコーチや練習環境が狭く限定されたのも、致し方なかったろう。
ただ振り返ってみた時には、そのような狭い世界にいたからこそ、後に目にする景色の広大さに胸を高鳴らせ、好奇心と向上心を掻き立てられたのかもしれない。20歳の時に日本テニス協会強化メンバーに選ばれ、練習環境も接する人々も大きく変わった伊藤は、乾いたスポンジのように教えられた技術や知識を吸収していったという。 スペインのテニスアカデミー在籍経験を持つ増田健太郎コーチのもと、スペイン式ドリルの猛練習に耐え、2012年にトップ100の壁を突破。「ロンドン五輪出場」という、当時の伊藤一人では目指せなかったであろう高い目標をコーチが掲げ、背を押してくれたことで足を踏み入れた領域だった。ナショナルトレーニングセンターで練習を共にする4歳年長の添田豪が、その前年にトップ100入りする姿を間近に見たことも、「自分もできる」と信じる上で大きかったという。
26年間を輝かせた「出会い」と「自己投資」
テニスに出会った日から26年後の、引退の日――。“純国産”と呼ばれたその足跡の中で、彼を特別たらしめたものは何かとの問いに、伊藤は「出会い」だと即答した。
「やっぱり、人との出会い……コーチやスタッフとの出会いというのは、選手にはすごく大事だと思う。その上で、自分に投資すること。その大切さを理解した上で、自分でしっかり決断する能力。あとは“テニスをやり続けられる能力”というのは、非常に高かったのかなというのはあります。やっぱりテニスって、つらいことを毎回やる訳じゃないですか。それをずっとやり続けながら、高く目標設定をしていました」
紆余曲折や試行錯誤もあったキャリアの中で、学んだそれらの財産を、伊藤はこの先、「若い選手たちに伝えたい」と言った。豪快に見えながらも、その実、繊細で篤実な人柄で後輩選手たちからも慕われており、早くも「コーチとして見てほしい」と声も掛かっている。
9歳でテニスに出会って以来、伊藤竜馬はラケットを携えて、まずは地元の北勢町からスクールのある隣町へ、やがて県に、全国に、そして世界へと活躍の舞台を広げていった。その開拓者魂でこれからは、後進たちを新たな領域へと導いていくに違いない。
<了>
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